顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

照願寺と薄井友右衛門

2020年04月24日 | 歴史散歩

毘沙幢山無為院照願寺は、常陸大宮市鷲子(とりのこ)地区にある親鸞24輩第17番の浄土真宗大谷派の寺院です。

開基の念信はこの地の高沢城主高沢伊賀守氏信でしたが、本尊観世音菩薩の御告げと父の臨終の遺言により稲田に親鸞聖人を訪ね、31歳で出家し念信という法名を賜り、貞応元年(1222)小舟地区毘沙幢に草庵を結んで布教に努めたと伝わります。

この草庵に親鸞は6度も訪れ、安貞2年(1228)、一泊した朝に草庵前の桜の木が一夜のうちに満開となり、親鸞は草庵を発つ時、振り返り振り返り、称名念仏しながら去っていったので、その桜の樹を「見返りの桜」というようになったといわれています。

寺伝によるとその後、春丸の地を経て明徳元年(1390)現在のこの地に移りますが、江戸時代に藩主光圀公の命により見返りの桜もこの地に移されたと伝わります。昔の写真では大木ですが、今はその一部がわずかに残っている感じです。


本尊は阿弥陀如来立像、鎌倉時代後期から南北朝時代の作ともいわれます。

梵鐘にある寄進者名に嘉永2年(1849)薄井友右衛門という名を見つけました。
薄井家は瀬谷義彦著「水戸藩における献金郷士の成立をめぐって(1966)」には、「鳥子村薄井氏富豪にして紙を欝ぐことを業として郷中に名あり」といわれ、西の内和紙などの和紙の新問屋として、明和(1765)頃から次第に富裕化した山間の旧家で、二千両を献じて150石を給される郷士となったとあります。

この薄井家は幕末の水戸藩の抗争で、諸生党の市川三左衛門に資金を援助していたため、当主の6代目友右衛門自身も市川勢に従ってやがて水戸を脱出、最後は会津で死んだという説や、慶喜公に従い静岡に向かったという説までもあるそうです。弟の謹之進は五稜郭で戦死し、薄井の一族の男子には北越戦線でも戦死や自刃したものもいると伝わります。

鷲子の薄井一族も散り散りになって逃げますが、この悲劇は、友右衛門の娘ですでに江戸の酒問屋加藤家に嫁いでいたトシのところにも及びます。明治元年、天狗党を名乗る者たちに襲われて全財産を奪われ家業もつぶれたといわれます。
このトシの孫が沢村国太郎、沢村貞子、加藤大介の兄弟、そして国太郎の子が長門裕之、津川雅彦という芸能一家のルーツになります。

梵鐘には戦時中に供出されましたが、この争乱から約100年後の昭和44年に薄井一族の浄財により復元されたと記されており、一族の中に沢村兄弟の名も刻まれています。

幕末水戸藩の抗争に巻き込まれた薄井一族、その盛衰を見てきた800年の歴史をもつ古刹はひっそりとして、人影はまったくありません。シキミ(樒)の芳香が漂っていました。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿