顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

弘道館の桜

2020年03月29日 | 水戸の観光

水戸城三の丸にあった重臣屋敷を立ち退かせて、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が藩士とその子弟教育のために藩校「弘道館」を開設したのは、今から179年前の天保12年(1841)のことでした。

105,000㎡(32,000坪)という当時全国一の規模を誇った敷地内には文館、武館のほかに、医学館、天文台、武の神・鹿島神社、学問の神・孔子廟、弘道館記碑を収めた八卦堂などがあり、文武両道を標榜した総合的な教育施設でした。

幾度の戦火で施設のほとんどは焼失してしまいしたが、現存する正庁、至善堂、正門は国の重要文化財に指定されています。
その正庁の前の「左近の桜」の由来は、斉昭公の正室登美宮が有栖川宮家から降嫁の折、仁孝天皇から京都御所の左近の桜の鉢植えを賜ったことにさかのぼります。初代、二代目は枯朽してこれは三代目、昭和38年に宮内庁より同系統の苗 (樹齢7年)を受領し、弘道館と偕楽園に植えたものです。

同じ時に偕楽園にも植えた左近の桜は、昨年の台風15号の強風で倒伏してしまいました。高さ16mもある見事な大木だったので残念でなりません。

正面玄関の式台からのアングルは、弘道館の写真を撮り続けているMさんの発見、今回もお借りしてしまいました。この式台に浮かび上がった年輪は、明治元年の藩内抗争の最後の戦いで、藩士同士が180人以上も殺し合った弘道館戦争を見ていたと思うと感慨もひとしおです。

桜は吉野の山桜の一種でシロヤマザクラ(白山桜)、御所桜とも呼ばれるそうです。

畳廊下が廻された正庁の正席の間は、24畳の藩主の間で、弘道館の精神を述べた弘道館記碑の拓本が掲げられている厳かな空間です。

白壁の塀で囲われたこの一画には、他にも3本の山桜の古木があります。正庁の手前は武道の試合をした対試場で、藩主が臨席して御前試合も行われました。

弘道館の南側、当時は武館があったところに三の丸小学校があります。校舎も塀も白壁のイメージで校門も冠木門、三の丸というロケーションの景観を保っています。

北側には鹿島神社の入り口があり、左右に土塁と空堀が見えます。三の丸は城の重要な防御拠点なので、空堀と土塁で囲まれていました。

弘道館の馬場や調錬場跡には、茨城県庁舎が昭和5年建てられました。平成11年には郊外に移転しましたが、レンガ貼りのゴシック調の建物は、映画やTVのロケに人気のスポットとなっています。

5段の堀で総構えを構成した水戸城の3番目の堀は三の丸の西側にあり、桜の名所でしたが、昨年植え替えが行われ、かっての華やかさに戻るにはしばらくかかりそうです。

三の丸の先には、北辰一刀流の正当な系譜を残す東武館、手前の洋風な建物は低区配水塔です。
石垣も天守もないためにその存在が薄かった水戸城ですが、大手門、北柵門、隅櫓、土塀などの復元も進み、視覚的に充実し御三家の城らしくなってきました。

古河公方公園(古河市)の桃

2020年03月26日 | 季節の花

有り余るほどの時間があるので、初めて古河公方公園の桃を見に行ってきました。
新コロナウイルスのおかげで恒例の桃まつりは中止、駐車場は無料になりましたが、お目当ての桃の花は、暖冬のせいかすでに散り始めていました。

室町時代に、幕府が関東支配の拠点として鎌倉に置いた鎌倉公方は、足利尊氏の二男基氏が任じられて以来、代々その子孫が世襲してきました。しかし関東管領上杉家や幕府との勢力争いがたびたび起こり、第5代足利成氏は康正元年(1455)鎌倉を追われ、ここを根拠地として古河公方と呼ばれ、関東の大きな勢力になりました。

後に渡良瀬川沿いに建てた古河城に移りますが、ここは古河城の別館として、寛永4年(1627)に廃止されるまで「鴻巣御所」ともよばれていたそうです。

戦いの明け暮れた当時ですので、防御の要である堀や土塁の跡が残っています。御所沼の中に突き出た半島に位置し、二重の堀に囲まれていた要害であることもわかります。

さて桃の花ですが、江戸時代初期、古賀藩主土井利勝が、江戸屋敷で家臣の子供たちに桃の種を拾い集めさせて領地に送り領民に育てさせたという故事にならい、1975年の古河総合公園の開園を機に花桃(花を観賞する品種)を植えたのが始まりです。
この「矢口」という品種が一番多く見られるようです。

紅白の絞りがきれいです。多分「源平」という品種でしょうか、我が家でも「源平枝垂れ」を植えたことがありましたが、枯らしてしまいました。

咲き方が菊のような「菊桃」という品種です。

もう桜が満開に近くなっています。今年は季節のめぐりが早すぎて、前走者が追い越されてしまいそうです。

館跡の周りを囲む御所沼湖畔には、御所沼復元記念という石碑が建っていました。
柳の芽吹きに往時の御所が偲ばれますが、そんな悠長な時代ではなかったようです。

ところで(1582)古河公方5代目足利義氏の没により嫡流は途絶えますが、秀吉は武士の象徴である源氏の血を引く足利氏の存続をもくろみ、義氏の娘、氏女(うじひめ)を小弓公方足利頼純の子、国朝に娶わせ木連川公方とします。
さらにその後、源氏の末裔を意識する家康も、木連川氏を名乗った一族を特例で優遇し、木連川藩(栃木県さくら市)を立藩させわずか5000石の旗本並みの所領ながら国主大名並みの10万石の格式を与えたという件は、拙ブログで紹介させていただきました。    

桜桃杏李梅の競演…偕楽園公園

2020年03月22日 | 季節の花

新コロナウイルスの収束の気配がありません。感染者ゼロだった茨城県でも海外からの帰国者3名が陽性というニュースが駆け巡りました。
そんな中、今年は早めに季節が訪れました。いま偕楽園公園では、バラ科サクラ属の代表選手たちが一斉に咲き始め、桜桃杏李梅(おうとうきょうりばい)の5種が一度に見られる絶好の時期になりました。

まず、桜が連日の温かさで例年より10日以上早く咲き始めました。

公園に植えてある桃の花は、品種改良された花を愛でる「花桃」(バラ科サクラ属)が多く見られます。一方、実を採る「桃」はバラ科モモ属になるそうです。

杏(アンズ)は長野県千曲市があんずの里として有名です。英名はアプリコット、初夏に黄熟しジャムなどの加工品にも利用されます。

李(スモモ)には、日本スモモと西洋スモモがあり、前者はプラムとも呼ばれアメリカで品種改良されたものがソルダムなどの名で流通しています。西洋スモモはプルーンといわれドライフルーツなどにされます。

梅はまだ梅まつり期間中にもかかわらず咲き終わった品種も多く、偕楽園公園センター入り口の「呉服(くれは)枝垂」が数輪残っていました。

遠景にある紅い樹木は早咲きの陽光桜、白い辛夷と黄色い菜花、柳も芽吹き始めました。

いろんな色のクリスマスローズの群落です。

ユキヤナギの群落があちこちに見られます、これは見川城址をバックにした一枚です。

雑草ながらホトケノザがしっかりと存在を主張しています。
四季を味わえる偕楽園公園はこれからの季節、いちばん彩りゆたかな時期を迎えます。

なお、これらの花がやがてそれぞれの実を付けた様子は 偕楽園公園「桜桃杏李梅」のその後 2020.6.11 をご覧ください。


中居城(鉾田市)… 堅固な守りでも城主は謀殺された

2020年03月19日 | 歴史散歩

中居城は、常陸大掾氏の庶流、鹿島三郎政幹の第三子、四郎時幹がこの地に分封されて、中居氏を称し、当初は、白鳥城を築いて居城しましたが、勢力の拡大に伴って手狭となり、新たにこの要害の地に中居城を築いたと伝わります。その後、中居氏歴代の居城となり、東方に西山館、南方に新館を置いて備えを固めていきました。

比高20mほどの台地の先端部を利用した東西約150m、南北約600mもある広大な山城でしたが、東側は土砂採取により消滅、しかし西北側などに巨大な遺構が竹藪の中にしっかりと残っています。

民家の脇に小さな案内板がありそこを入ったところが大手道といわれています。

正面には急な切岸が立ちふさがり、敷くように落ちていた藪椿の花が迎えてくれます。

大手道から入ると標高38.1mの一番高い一画がⅠ郭で、周りには2mくらいの土塁が取り囲んでいます。

北西側の端には一段と高い櫓跡らしき遺構がありその、下には深い急峻な堀が巡らしてあります。

Ⅰ郭とⅡ郭の間には土塁に挟まれて、小さな社が建っています。

Ⅰ郭の西側にあるⅡ郭は3mほど低くなっており、ここも周囲には土塁が巡らしてあります。

このⅠ、Ⅱ郭群を取り囲むように巨大な横堀が巡らしてあり、深さ7m、幅20mほどはあるその規模に驚かされます。

この大規模な防御は城の守りばかりでなく、周辺を取り巻く土塁や堀が11本も配置されている図が「茨城の城郭(茨城城郭研究会)」に載っています。遠いものは本城より1.6Kmも先にあり、遺構の総延長は3.5Km、その概略の位置をgoogle map に落とし込んでみました。

その一つ、長大な土塁が畑の真ん中に残っています。
しかし、こんな幾重もの守りを固めた中居氏でしたが、天正19年(1591)、当主中居秀幹は佐竹義宣に、南郡三十三館と呼ばれる鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の領主16名と共に、梅見の宴として招かれた常陸太田城で誘殺されてしまいました。

一説では、中居秀幹は事前に察知して逃れ、中居城に向かうところを捕らえられ殺害されたとも伝わります。敵に備えて堀の掘削作業をしていた領民達は、城主の死を聞くと念仏を唱えて亡き領主を弔ったことから、その完成しなかった巨大な堀は念仏堀と名付けられ、北側に残っています。
結局、この堅固な守りを使うことなく滅びてしまった中居城、城跡にタチツボスミレ(立坪菫)が咲いていました。


菜の花摘み…野生の味!

2020年03月15日 | 食べログ

この時期近辺の河原には菜の花の黄色い群落がみられます。那珂川や久慈川とその数多い支流は、去年の台風では暴れ川となり被害をもたらしましたが、今は穏やかな春の顔を見せています。

今回は開花が早いため、少し山間部に入った久慈川支流の里川河原に出かけました。

あまり歩かないでもたくさん採れたので、お浸しのほかに塩漬けも作ってみました。洗って水を切った菜花に、塩を約5%くらい、よく揉んで重しで漬け一晩おき、食べるときに水にさらして好みの塩加減にしました。

家庭菜園でも満開ですが、河原で野生化しているほうが、あく、苦みがより強く、うま味につながるような気がしてなりません。

菜の花に幅を広げて川曲り  鷹羽狩行
菜花摘む素知らぬ顔の暴れ川  顎鬚仙人