顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

水戸の梅まつり…3月1日スタート

2021年02月25日 | 水戸の観光
茨城県独自の非常事態宣言が2月23日で解除になり、中止されていた梅まつりも3月1日から21日まで開催されることになりました。

コロナに関係なく例年通りに花を開き始めている梅の花、偕楽園では通常100種といわれていますが、実際の品種は成木前の状態の木などを含めると200種近くなっているという話も聞きます。

偕楽園公園センターの枝垂れ梅の大木「白滝枝垂」が咲き始め、大屋根をのぼる白い滝のような姿を見せていました。

小さめの紅梅「日光梅」、横に出る小枝は錦性になると図鑑には出ています。

清香が強いとされている「麝香梅」、マスク外して鼻を近づけても匂いを感じません。

花の真ん中に紅い筋模様が入る「底紅」という咲き方の「関守」、李系紅材性の結実種です。遠方に好文亭を入れてみましたが…。

同じ白梅でも青白い花で人気の「月影」はまさに名前通りのイメージで、命名者の感性の深さに脱帽です。

芳香が強いという「文殊」は難波性の結実品種、淡紅色の花は知恵をつかさどる文殊菩薩のイメージがあるでしょうか。

内裏」とは天皇の宮殿のことでひな祭りの歌にも、お内裏様とお雛様~♬と出てきます。外側の花弁の裏が紅い「裏紅」という咲き方で、透けて見える淡い紅色がまるで頬紅を付けたように見えます。

「内裏」にとまる翅がぼろぼろの蝶、調べてみると越冬して早春に活動するヒオドシチョウ(緋縅蝶)のようですが、まるで歴戦の勇者、こんな翅でもしっかり飛び立っていきました。

見て驚くという命名由来の「見驚(けんきょう)」は結実しない花梅の代表種、咲き進むと花の色がだんだん白くなる「移り白」という性質です。

筑紫紅」は大宰府天満宮にあるので九州で産出した種という説もあります。写っている橋の名前はなんと!「花追い橋」です。

後水尾天皇(1596~1680)が「花も香りもよく果実も佳なりとの意にて命じ給いしもの」と伝わる「花香実(はなかみ)」は、その通りの銘花で大きな実も生ります。

まだ小さな木ですが「曙枝垂」がやっと花を咲かせていました。日本人は枝垂れを好んだので江戸時代から約40種の枝垂れ梅がつくられたといいます。

同じく窈窕梅林にデビューしたての「玉垣枝垂」です。野梅系の「玉垣」の枝垂れ品種で白色もあるそうです。なお、玉垣とは皇居、神社の周辺などの垣のことをいいます。

偕楽園の梅林は、洪積層台地上にある本園(約13ha)の他に台地下の沖積層地に「田鶴鳴梅林」「猩猩梅林」「窈窕梅林」など3つの梅林があり、今回の梅はその周辺で撮りました。
窈窕梅林の南側には、梅品種見本園が3面あり、約220種の梅が植えられているそうです。


渋沢栄一と水戸弘道館

2021年02月21日 | 水戸の観光
大河ドラマ「青天を衝け」がいよいよ始まりました。第1回目では武蔵国血洗島村での渋沢栄一の少年時代と、彼が仕えた最後の将軍徳川慶喜が学んだ弘道館のシーンが流されました。

この弘道館は、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が天保12年(1841)に開設した藩校で、ここで教えられた「尊王攘夷」に基づく思想は水戸学とよばれ、幕末の志士たちに大きな影響を与えました。
従弟で栄一や喜作に学問や剣術を教えた尾高惇忠も早くから水戸学に傾倒し、栄一らもその思想を受け継いだといわれます。

やがて24歳の時に斉昭公の七男一橋慶喜に仕えた栄一は、その後幕臣や明治新政府の重職を務め、やがて実業家として活躍しましたが、終生慶喜へ忠義を尽くしその名誉回復に努めたことでも知られています。

この弘道館では、企画展「渋沢栄一と弘道館」を12月19日まで、正庁と至善堂を結ぶ十間畳廊下で開催しています。

パネル展示ですが、当時のまま重要文化財として残っている歴史上の建物の中だけに、その時代の雰囲気が感じられるような気がする空間でした。

正庁前の対試場の前では、斉昭公の諡(おくり名)が付いた「烈公梅」も咲き出しました。

慶喜がまだ七郎麿とよばれていた時代に、この対試場で剣術の稽古をしているシーンが「青天を衝け」で放映されていました。

儀式や大試験などが行われた正庁と十間畳廊下で結ばれた至善堂は、藩主の休息と子息たちの勉学の場所でした。

「青天を衝け」では小道具類がいろいろ置かれ、慶喜の食事の場面に使われていました。

至善堂の周りには山茱萸の黄色い花が開き始めています。
栄一は大正5年(1916)、77歳のときに水戸を訪れました。天保8年(1837)生まれの慶喜と天保11年(1840)生まれの栄一は3つ違い、この3年前に慶喜は亡くなっておりますが、その慶喜が幼少期の学問と維新後に謹慎をしたこの場所をどんな思いで眺めたことでしょうか。

「水戸学」の学者で斉昭公の腹心の政治家、藤田東湖の書も展示されています。栄一が東湖の書を所蔵していたことが近年明らかになったそうです。「風塵の色を辨ぜずばいずくんぞ天地の心を知らん」(現実をきちんと認識しなければ、正しく判断する心をもつことができないのではないか)という意味の漢詩だそうです。

また、水戸城二の丸にある二の丸展示館でも「渋沢栄一と水戸の人々」パネル展が開催されています。

小さい展示室ですが、わかりやすい展示にたくさんの方が見入っていました。

展示館にあった水戸城ジオラマに施設名を入れてみました。大手門、二の丸隅櫓、土塀が再現されてその姿が現われ、御三家水戸城の魅力的なビューポイントが増えました。


■二の丸展示館  9:00~16:30 入場無料  ■弘道館 9:00~17:00 (冬期は16:30) 入場料 大人 400円、小人 200円、満70歳以上200円    どちらも水戸駅より徒歩10分くらいです

小場城…三方が天然の堀

2021年02月16日 | 歴史散歩
鎌倉時代に佐竹氏3代秀義の子で南酒出義茂の子義久がこの地に館を築いたといわれます。この秀義は治承4年(1180)同じ源氏の源頼朝に攻められて敗れ、後にその麾下に入り奥州合戦にも従軍しました。

本格的な城館は、南北朝時代の貞和4年(1348)佐竹氏9代義篤が庶子義躬に初代小場氏を名乗らせ常陸太田城の西の守りとして築城したとされます。その後5代小場義忠は延徳2年(1490)山入の乱で孫根城に籠城した佐竹氏15代義舜のもとに参陣し山入氏との戦いで討ち死に、天文9年(1540)の部垂の乱では、7代小場義実がたまたま出かけていた部垂城で戦いに巻き込まれ戦死するなどしますが、佐竹氏の重臣として仕え慶長5年(1600)には、5万石で常陸小田城に移り代わりに大山氏が小場城に入ります。しかし2年後の慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封に従っていずれも廃城になりました。

なお、秋田に移った小場氏は重要拠点の出羽・大館城代を務め、12代義房のときには佐竹姓を許され佐竹西家として佐竹家を支え、明治になって義遵のとき、男爵を授けられました。

那珂川左岸の比高30mほどの段丘に築かれた平山城で、西が急な崖、南と北側は深い沢が天然の堀となる要害をなし、那珂川沿いの麓には舟渡の地名が残っているので、那珂川水運の要衝でもあったと思われます。

案内板が建っている道路脇には幅14m、深さ5mもの空堀が残っていてまず驚かされます。

本城(左側)と中城(右側)間の堀と土塁です。堀は埋められて道路になっています。

本城と御城間の堀、右手が字本城、左手が字御城の地名が残っているそうです。

本城西にある土橋、本城にある住宅地への入り口になっています。

中城跡は平坦な空き地になっています。手前の低い部分は埋められた空堀跡と思われます。

北側の天然堀となっている浸食谷の深さにびっくり、地形図で見ても深さ30m以上あります。

谷の入り口にある鹿島神社、古くは八幡神社跡となっていますので、清和源氏佐竹氏の守護神として祀られていたのかもしれません。

南西側の崖に石仏がありました。凝灰質泥岩をくりぬいた窪みに置かれた、錫杖を持った地蔵尊と授乳している子安観音でしょうか?
 
那珂川両岸の河岸段丘の特徴である、凝灰質泥岩の上部にある礫層も露頭していました。

なお、小場氏5代義忠の弟、義広が築城した前小屋城は、拙ブログ「前小屋城…佐竹氏大宮三城のひとつ」で紹介させていただきました。
山入の乱の文亀2年(1502)には佐竹義篤が籠城している孫根城に参陣して義忠、義弘兄弟がともに討死しています。

「徳川斉昭と弘道館・偕楽園」…茨城県立歴史館

2021年02月12日 | 水戸の観光

この展示は1月31日まででしたが、コロナ感染拡大による県独自の緊急事態宣言により期間途中の1月18日で休館になってしまいました。
最近では、撮影禁止の展示以外は写真撮影が許可されていますので、せっかくの企画展の一部を紹介させていただくことができました。

「弘道館種痘の通達」  水戸藩では天保13年(1842)から、斉昭公が医師本間益軒、養子の玄調に命じ種痘の普及につとめましたが、接種に対する恐怖心からなかなか普及せず、斉昭公や玄調が我が子にまず接種させたと伝わります。
通達には、種痘を希望する者は毎月1、15日朝五つ時に弘道館へ来館するか、5、10、20、25日に本間益軒または本間玄調宅で種痘を行う通達。遠方の場合は医師を派遣し、いずれの場合も費用は藩で負担するとしています。
何かコロナワクチン接種の現代に共通するものがあります。

「神武而不殺」  那珂湊の木内家に伝来した斉昭公の書   出典は易経の「繋辞上伝」で、神のような武勇を備えながら人を殺さぬ威徳という意味、尊王攘夷の最終目標は国を閉ざすことでなく海外進出としていることが明確であると解説に述べられています。

「常磐村御縄打図」  嘉永7年(1854)検地の縄打(計測)の状況と、常磐村名主(山横目)桜井源右衛門の屋敷が描かれています。作者は藩の絵師、萩谷遷喬に学んだ亘喜左衛門(遷幽)です。

「慶喜、弘道館謹慎の達」  慶応4年(1868)4月11日 上野寛永寺で謹慎していた15代将軍徳川慶喜が、水戸に下り弘道館で謹慎する旨、郷士たちに知らせた達です。
江戸城開城の4月11日、慶喜は水戸へと出立しました。

「茶説」  天保11年(1840)好文亭の茶室何陋庵(かろうあん)の待合に掲げられている斉昭公の書、茶器の得難きを競うのではなく、礼や誠などの精神が大事であると説いています。

「徳」  那珂湊の木内家に伝来した斉昭公の書。豪商の木内家は水戸藩をはじめ多くの大名に貸し付けを行い、反射炉建設にあたっては5000両の用立てをしたと伝わります。

「新井源八宛書状」  嘉永元年(1848)  斉昭公が水戸で養育させていた子息たちの教育方針について教育係の新井源八に指示したもの、七郎麿(慶喜・15代将軍)、八郎麿(昭融・川越藩主)、余一麿(昭縄・木連川藩主)それぞれに細かい指示が書かれています。

三公園選定の由来  「国民高等小学読本 巻一 明治43年(1910)」  偕楽園、兼六園、後楽園が三公園と称されるようになった理由は、明治天皇と皇后の行幸啓地であったという説があります。その三公園が印刷物で初めて世に出たのがこの教科書といわれています。



ところで、歴史館の構内には明治14年(1881)に建てられた旧水海道小学校本館が移設されています。
最初は町民有志が寄付5000余円を集め、建てたのは地元の宮大工羽田甚蔵、横浜の外国人居留地に通って図面を書いたといわれています。女優の羽田美智子の高祖父になることがNHKファミリーヒストリーで紹介されたそうです。

屋根中央の鼓楼といわれる八角の塔、この中央に太鼓を吊るし時刻や授業開始を知らせたそうです。正面ベランダの上部の破風には、ピナクルという飾り塔、柱の装飾など…随所に明治10年代の洋風建築の特徴をあらわしています。

内部に展示室を設け、教育資料及び水海道小学校関係の資料が展示されています。同校から寄贈された慶応元年(1865)スタインウェイ&サンズ社製造のピアノの置かれた部屋は、保存環境保持のため開放されていませんでした。

なお、茨城県立歴史館は、2月9日より開館されています。

探梅の偕楽園…梅まつりは中止でも?

2021年02月09日 | 水戸の観光

数日前の読売新聞編集手帳に晩冬の俳句歳時記にある「探梅」について載っていました。ほころび始めたわずか1輪か2輪の梅の花を探しながら歩き、待ち遠しい春が近付いたことを喜ぶことをいいます。特に今年はその気持ちが強い気がしますが、年々開花が早まり2月8日の開花情報ではすでに17%の開花率になっていました。

探梅の探しあてたる一二輪  高澤良一
城あとの梅を探りてただひとり  上村占魚
しんがりが好き探梅も人生も  木田千女


なお、古くから伝わる梅の鑑賞の仕方の残り二つは、一斉に開いた満開の梅を愛でる「賞梅」、梅の季節の名残を惜しむ「送梅」があります。
探梅の時期は過ぎていますが、2月7日に撮った偕楽園の梅の一部をご紹介いたします。

東門を入ってのすぐの冬至梅、開花率17%といっても1輪でも開花すれば開花木になるので、咲き始めでは梅林の実際の感じとは少しずれがあります。

紅加賀は明治35年静岡県興津試験場産出の実梅です。実梅の代表種白加賀は野梅系ですが、名前が似ていてもこれは杏系豊後性です。

水心鏡は野梅系の結実品種、白さが際立ちます。

鹿児島紅は濃い紅色の代表種、蕊の花糸までが真っ赤です。李系紅材性の不結実品種です。

虎の尾は水戸の六名木のひとつ、古くからの名花ですが名前の由来は諸説があり確定できません。

盆栽などにも人気の大盃、李系紅材性、観賞用の梅はあまり結実しない品種が多いようです。

南崖の常磐線沿いに道知辺が咲いていました。花も美しく匂いも強いので目印になるのが命名の由来といわれています。

田毎の月にもう昆虫が受粉作業を始めていました。

緑咢は名前の通り咢の色が緑色、青白い花の色と相まって人気の梅です。逆光で撮ってみました。

やっと一輪の開花を見つけた八重唐梅、雄蕊の一部が花弁に変化する「旗弁」現象が出ていました。

茨城県独自の緊急事態宣言も2月7日までが2月28日までに延長になりました。2月13日から始まる予定だった水戸の梅まつりも、緊急事態宣言解除になるまで中止ということになっていますが、今年の偕楽園は開園していますので、感染対策を万全にして、ぜひ咲き始めた100種3000本の梅花を見ていただきたいと思います。