顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

陶の鳥

2020年01月29日 | 日記

笠間市在住の陶芸家、田山健司さんの陶の鳥(ceramic bird)展が1月26日まで水戸市の常陽資料館で開催されました。

田山さんは笠間生まれで、多摩美術大学彫刻科卒業後、京都府立陶工高専で陶芸を学び、食器を作陶しながら5年前から、美しい羽を持つ大小さまざまな鳥達を陶で表現してきました。
練り込みの技法で1枚1枚の羽根の模様をリアルに表現、土の色を合わせることで、大空を自由に飛ぶ陶の鳥たちの生命感を与えています。

今回の展ではカワセミ、サシバなど美しい羽をもつ鳥たちが、トラフズク、オオワシなどとともに展示されました。繊細な自然の造形を表現するという陶芸の新しい可能性の追求に、拍手をおくりたいと思います。





偕楽園…梅が咲き始めました!

2020年01月24日 | 水戸の観光
今年も2月15日(土)から3月29日(日)まで第124回水戸の梅まつりが始まります。
地球温暖化の影響で年々梅の開花が早くなってきていますが今年はどうでしょうか?園内を歩いてみました。

常磐線から見える偕楽園標柱脇の「八重冬至」は、早咲きで知られており、標本木的役割を果たしています。去年11月からの有料化に伴い、この先に南門料金所ができてしまいました。

南門はこの時期、山茶花の門になります。偕楽園開設当初の天保時代はこの南側に千波湖の船着き場があり、斉昭公は水戸城のお堀から船で来園しました。

南崖にある柿の木近くの「冬至梅」、ここも早咲きで知られますが、もう満開です。偕楽園は河岸段丘の比高約10~20mの台地上にあるので南側は崖になり、「がけ急に梅ことごとく斜めなり」という正岡子規の句も生まれました。

好文亭の奥御殿前ではまだ二季桜が、寒さに震えながら花を残しています。

東門からの通り沿いの「虎の尾」は蕾がはち切れそうです。水戸の6名木の1つ、いかにも漲る春の息吹を感じさせる一枚になりました。

見晴らし広場の「八重寒紅梅」、写真の先に見える囲いは昨年9月の台風で倒れた「左近の桜」跡の竹垣です。

左近の桜跡の看板が建っています。昨年9月9日の台風の強風で倒伏してしまったヤマザクラの一種のシロヤマザクラで、幹の周囲は3.84m、 高さは約16mでした。由緒ある樹だけに今後の方針が検討されているようです。
周りを囲む竹の柵は、偕楽園垣という独特の様式で縦棒(立子)と横棒(胴縁)を交互にしない組み方と上部に玉縁をつけるのが特徴です。

去年4月の左近の桜の写真が遺影になってしまいました。
この桜の由来は、天保2年(1831) 偕楽園を開設した水戸藩9代藩主徳川斉昭公の正室、登美宮降嫁の折、ときの仁孝天皇から京都御所の左近の桜の鉢植えを賜わり、天保12年(1841) 弘道館の落成にあたり弘道館正庁玄関前に移植されました。 その後、初代、2代目は枯れてしまい、昭和38年(1963) 弘道館改修工事の完了を記念して京都御所の左近の桜の系統(樹齢7年)を受領し、弘道館と偕楽園に植えたものです。

偕楽園公園センターの開花状況によると、1月20日で2.0%、約50本以上の木に開花が見られたそうです。一輪でも花が咲けば開花になるので園内での実感はありせんが、梅まつりの始めにはある程度咲き揃うことでしょう。
これからの天候次第ですが、見頃は例年通りの2月下旬から3月上旬になるような気がします。

鹿島城…常陸平氏の最大勢力

2020年01月22日 | 歴史散歩

鹿島氏は常陸大掾氏一族の庶流で、吉田清幹の子が鹿島三郎成幹を名乗り粟生城に拠り、その子政幹が養和元年(1181)吉岡城(鹿島城)を築いて移ったのが最初といわれています。

以後鹿島氏はここを居城として多くの庶流をこの地方に配し、そのリーダ的存在で発展してきました。戦国時代にも数度の内紛を乗り越え存続していましたが、天正19年(1591)佐竹義宣の「南方三十三館の仕置」によって鹿島氏当主清秀は常陸太田城にて謀殺され、すぐに押し寄せた佐竹軍に善戦しますが、大砲が城壁を打ち抜きついに落城してしまいます。

比高30m(標高37m)の台地上にある連郭式平山城ですが、鹿島神宮二の鳥居までといわれる大きな縄張りも市街化されて、本丸以外の遺構はほとんど残っていません。

本丸(Ⅰ郭)は昭和63年(1988)に城主後裔の鹿島家の協力で城山公園として整備され、桜の名所として市民の憩いの場となっています。

南西の方向には北浦が見えます。水上交通の要所を抑える地の利を感じさせます。

本丸内には、土塁や堀跡らしきものが残っていますが、200m四方の広い敷地なので仕切って利用していたともいわれています。

本丸(Ⅰ郭)の周りには1周約500mの歩道が廻されており、当時の土塁跡との説もあります。その外側には帯曲輪らしい段差が続いています。

本丸の東側の深い堀は、当時の中世城郭の中では群を抜く規模と言われたこの城の大きさを物語っています。

本丸東の深い堀に遮られた二の丸は、東側が開発で削られ腰曲輪のように狭くなっています。

深い空堀を見下ろして白椿が咲いていました。

巨人たちの足跡…水戸市埋蔵文化財センター企画展

2020年01月18日 | 水戸の観光

明治22年(1889)に水戸が市制施行されたちょうどこの年、「常陸国風土記」に巨人伝説とともに記された貝塚が,現水戸市塩崎町に所在することが確認されました。この「大串貝塚」発見から130年、水戸市の近代的埋蔵文化財調査が始まり、「台渡里官衙(が)遺跡群」「吉田古墳」などの国指定史跡発見へと続く足跡と現在を「総まくり」した企画展が水戸市埋蔵文化財センターで行われています。

展示構成の序章では 「近世 考古学、胎動す-水戸黄門「発掘」記」で、水戸藩2代藩主光圀公が栃木県大田原市湯津上で発見された那須国造碑の主を調査するために、古墳を発掘、記録して、保存のため埋め戻した日本考古学の最初とされる業績を取り上げています。

第一章は「明治 伝説の巨人、その正体-若林勝邦と大串貝塚-」、明治22年(1889)帝国大学人類学研究室の若林勝邦によって存在が確認され、その後「常陸国風土記」に記された貝塚として多くの研究調査が行われ、国指定史跡になりました。

常陸国風土記の那賀郡には…
平津の駅家の西一二里に岡あり。名を大櫛という。上古人あり。体は極めて長大く、身は丘壟の上に居ながら、手は海浜の蜃を摎りぬ。その食らいし貝、積聚りて岡と成き、時の人大朽の義を取りて、今は大櫛の岡という。その践みし跡は、長さ四十余歩なり。尿の穴の径は、二十余歩許りなり。

第二章は「大正 仄暗い、石室の奥に-柴田常恵と吉田古墳-」、大正3年(1914)採土のため掘削され小さな塚から石室が現れ、調査に訪れた帝国大学柴田常恵により線刻壁画をもつ古墳として発表され、後の調査で「石室奥室に線刻壁画をもつ八角形の古墳」として日本唯一のものとされました。

第三章 「昭和 よみがえる、古代の甍-高井悌三郎と台渡里廃寺跡-」、昭和9年(1934)茨城女子師範学校の高井悌三郎が畑で一片の古瓦を発見したのが始まりで、その後数度の調査を経て古代寺院や官衙跡が明らかになり、台渡里官衙遺跡群として国指定史跡になりました。

第四章 「平成 埋文センター、始動-相次ぐ新発見と新しい公開・活用手法の模索-」、平成3年(1991)大串貝塚の保護活動を目的に整備された大串貝塚ふれあい公園内のL.E.Cセンターがその後埋蔵文化財センターとして始動、年間の発掘調査は200件を超えるようになりました。

第五章 「令和 祝え、新時代の到来を-水戸市埋蔵文化財センターのいま、そしてこれから-」では、国民の財産である文化財を保護、保存して後世に伝えてゆく使命と、市民の生活に関係する開発とのバランスを模索しながらの今後の意欲が述べられています。

地味ながら内容の濃い、しかもオシャレな展示で楽しめる企画展でした。スタッフの意気込みも充分感じられますので、ぜひ水戸の古代から現在に至る先人の足跡に触れてみてはいかがですか。

なお、展示は2月24日(祝)まで、入場無料、9:00~16:15、月曜休館(祝日の場合は翌日) 水戸市塩崎町1064-1 水戸市大串貝塚ふれあい公園内  電話029-269-5090

そばいち…気取らぬ山里の味

2020年01月15日 | 食べログ

奥久慈渓谷の入り口、国道118号沿いの山方宿の小さなショッピングモールにあるそばいちは、山に囲まれたロケーションにぴったりの入りやすい雰囲気の店でした。
隣は地域の農産物などを置いてある物産店なので、地元ばかりでなく観光客にも便利なお店のようです。

看板に手打ち二八そばとあるように、色の濃いそばは香りもいい細麺、少し茹で過ぎの感ですがタレとの相性もよく美味しくいただけました。
そばは750円(天ぷらそば950円)、味の染み込んだ稲荷寿司は2個150円で、そばと違和感ない組み合わせでした。