国道394号線を里美支所方向に入ると、旧道の棚倉街道沿いに大きな一の鳥居が建っています。
突き当りの山裾に大中神社があります。
この先にある鍋足山の登山口なので何度か来たことがありますが、当時は興味がなかったのでこの神社のあったことは覚えていません。
大中神社の創建は社伝によると大同2年(807)、その後八幡太郎源義家の奥州征伐の際、舘籠地に大宮大明神を建立し戦勝を祈願したと伝わります。佐竹氏の支配時代には氏の崇敬厚く寄付した社領を舘の台の地に奉祠、応永元年(1394)には火災にあいますが、正長元年(1428)滝沢山に遷座しました。
後に、水戸藩主徳川光圀の命により元禄13年(1700)、現在地に社を移し、旧の里川村、徳田村、小妻村、小中村、大中村、折橋村、小菅村、大菅村、黒坂村、以上九ヶ村総鎮守大宮大明神としました。祭神は大己貴命(大国主命)です。
厳かな境内に建つ拝殿は入母屋唐破風造り銅瓦葺きで、本殿同様江戸中期の建造でしょうか、古色蒼然たる様子が歴史を感じさせます。
本殿は案内板によると、江戸中期の建造で総欅、入母屋唐破風造り銅瓦葺きで当初は豪華な彩色が施されていた、幾重にも積み重ねられた枡組、各所に配された彫刻、屋根の曲線など練達の宮大工の手により完成されたことを証していると書かれています。
御神木は、案内板によると樹齢約400年、樹高53m、目通り4.9mの大杉で、元禄年間廃寺になった真言宗隆真院時代より境内木として成長してきたとされてます。
奉納者名が彫られた文政6年(1823)の石碑には、金1両、小中邑佐川利衛門などの名が刻まれています。
杉林の中の「双烈の碑」という大きな石碑は、幕末水戸藩の勅諚返納阻止事件に関わり文久元年旧千代田村稲吉で戦死した大中村郷士白石平八郎、内蔵之進親子を顕彰したものでした。
境内社の厳島神社の前に湧き水が注ぎ込む弁天池があり、銭を洗うと増えて戻るという銭洗い弁天も祀られた人気のスポットになっています。
ここの特徴は杉林の中に境内社が数多く建っていることです。
大杉の林に囲まれた静寂な空間は、山里の人々と深くかかわってきた神聖な場所の雰囲気を充分に備えていました。
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