顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

水の都…、水戸の湧水を訪ねて ② 吐玉泉

2018年06月30日 | 歴史散歩
馬の背状に東に張り出した水戸の台地は、水を透しにくい第三紀層の堆積岩(水戸層)の上に、水を透しやすい礫(小石)や砂などの上市礫層が覆い、その間から地下水が湧き出している湧水が数多くありますが、その2つの層の露頭が見える場所が偕楽園の南崖斜面にあります。
七曲坂の中腹には水を透しやすい上市礫層が露出しています。河原の小石などが混ざっていて、この台地が形成されていった過程がうかがえます。
その層の下部にある、水を透しにくい堆積岩(凝灰質泥岩)の水戸層は、東南の南崖の洞窟付近に露出しており、この岩は笠原水道の岩樋、好文亭の井戸筒、吐玉泉の集水暗渠に使われたと案内板に書かれています。
さて、その「吐玉泉」は偕楽園杉林の樹齢800年といわれる太郎杉の見下ろす一角に湧き出しています。この場所には光圀公の妹芳園尼の庵、七面祠堂があった時代から泉があり、当時から眼病に効くといわれていました。
杉や熊笹の生い茂る斜面の中の十数か所から集水し、落差を利用して年間を通して15℃の清水を噴き上がるように工夫してあります。傍らには、大腸菌陰性、一般細菌ゼロの水質検査票が掲げてありますが、同じく飲料水ではありませんとの表示もされています。
茶祖・茶神といわれた唐の陸羽の茶経によると、茶に使う水は山の水が上、川の水は中、井戸の水は小とありますので、好文亭の茶席ではこの最適の水が使われたことになります。
吐玉泉の水は、小さな滝になって下方の水路に流れ込んでいます。
好文亭を設けるにあたり宋徧流の小山田軍平、名医原南陽の嫡子で石州流の原昌綏とともに設計に参画した太胡敬恵が水戸藩の御用石、寒水石の井筒を工夫したといわれています。初代の井筒は円筒型で大正3年まで72年も長持ち、これは上下置き替えて再利用したからとか、2代目も円筒形で昭和25年まで36年間、3代目は現在の形になって昭和62年まで37年間、現在の4代目ももう31年目になります。浸食が激しいのは水の成分や石の性質のせいでしょうか。
なお、寒水石の井筒の4代目の交換には約1000万の費用をかけて、西門より10トンの巨石を昔ながらのコロに載せて運んだそうです。
2代目の円筒形井筒は、偕楽園公園センターの裏手に置かれています。36年で石がこんなに侵食されるのかと驚いてしまいます。
なお、3代目の井筒に似ているとされる石が、水戸の老舗菓子メーカーの亀印製菓本社に置いてあります。真弓山で偶然産出されたものを譲り受けたそうですが、大きさはふた回り小さくても、色やイメージはそっくりだと、3代目を何度か撮った仙人の太鼓判です。
この寒水石は、正確には結晶質石灰岩(大理石)、常陸太田の真弓山から採れるので真弓石ともいわれ、その鉱脈は北に連なっているらしく、日立市の諏訪付近にも採掘場があります。当時は水戸藩の御用石で一般の採取は禁じられていましたが、今では大きな採掘場が阿武隈山地の南端にあるのが常磐道からも見えます。
採掘場への道路は、贅沢なことにこの大理石が一面に敷かれています。拾ってきた石は真っ白でキラキラ輝いています。この石は、弘道館記碑や水戸八景碑にも使われましたが、石質が柔らかく加工しやすい反面、風雨に弱く、風化しやすいため屋外に建てる碑には向かないともいわれています。
弘道館の弘道館記碑は、風化を防ぐため八卦堂という覆堂の中に保存してありますが、戦災で覆堂が消失した際に火炎で痛み、さらに東日本大震災では一部崩落、現在は補修された姿で立っています。    
なお、偕楽園の杉林の崖下一帯は吐玉泉の他に、滲み出すような小さな湧水が数箇所見られます。一般的には広葉樹の方が山の保水力は高いそうですが、市街地の真ん中の公園では大きな杉が充分に水を抱えているようです。

なお、泉は夏の季語です。

胸冷ゆるまで湧泉の奥を見る  千代田葛彦
しんしんと日を押し上げてゐる泉  仲村青彦
掬はれてなほ湧きつづく山泉  鷹羽狩行


鮎四尾

2018年06月24日 | 釣り
知り合いから久慈川で釣ったばかりの鮎をいただきました。
あまりにもきれいな魚体なので、外に出して雨にうたれる姿を撮りました。
日本書紀にも登場し日本人の生活と文化に深く関わってきた鮎は、なぜか魚編に占うと書きます。諸説あるなかで、神武天皇が高倉山で敵に包囲されたとき、「酒を入れた瓶を丹生川に沈め、魚が浮いてくれば大和国を治めることができる」という占いに従ったところ、本当に魚が浮かんできて、その魚がアユであったという話もあります。

柳の葉のような姿と上品な香りと味わい、内臓のほろ苦さが好まれ、万葉集でも鮎の歌が詠まれ、食通で名高い北大路魯山人は「はらわたを抜かず、塩焼きにして、火傷するほど熱いものに蓼酢を絞ってかぶりつくこと」といい残しているそうです。
我が家でもそれしか知らない調理法、塩焼きにて美味しくいただきました。
季語は夏ですが、若鮎は春、落鮎は秋になります。

またたぐひ長良の川の鮎鱠   芭蕉
鮎くれて よらで過ぎ行く夜半の門  蕪村
姿よく焼かれし鮎に膝ただす  吉屋信子

水の都…、水戸の湧水を訪ねて ①

2018年06月20日 | 歴史散歩
馬の背状に東に張り出した比高20m前後の水戸の台地は、水を透しにくい第三紀層の凝灰質泥岩(水戸層)の上に、水を透しやすい礫(小石)や砂などの上市礫層が覆い、その間に蓄えられたきれいな地下水が数十年の月日を経て斜面から湧き出している所が数多く見られます。
現在でも残っている水戸台地北側の湧水の一部を訪ねてみました。なお、水温はどこも15度前後とされています。
水戸城三の丸に近い北見町北側の崖下にある「小沢の滝」は、明治7年に水戸藩の剣術指南役小沢寅吉が創設した東武館の敷地内に湧き出していたので、そう呼ばれています。
古来より涸れることのなかったこの湧水は、光圀公の笠原水道を完成させた永田勘衛門円水が台地の下へ給水する田見小路泉水に利用したとの記録も残っています。
また第5代藩主宗翰公がこの台地上に田見御殿をつくり、火災で焼失後は原南陽が朝鮮人参などを植えた薬草園にしましたが、嫡子の原昌綏は石州流の茶人で好文亭設計にも関わっているため、陸羽の茶経やこの湧水を吐玉泉の参考にしたかもしれないと網代茂著「水府綺談」に書かれています。
現在この滝へは、台地上の官庁街と下の那珂川沿いを結ぶひぐらし坂と呼ばれる歩道があり、一帯は、水戸市の保全地区に指定され小さな緑地公園として整備されています。なお、水戸市で年一回行われる湧水の水質検査では、大腸菌陰性、一般細菌ゼロのきれいな水質が証明されています。
「洗心泉」という湧水は昔から知られていますが、今は五軒小学校の校庭にあるので、五軒小ホームページより写真は借用しました。この場所には茨城県女子師範学校が明治44年に開校し、昭和20年8月の大空襲で全焼後は、茨城県警察学校がおかれていましたが、昭和60年、水戸芸術館建設のため五軒小学校が移転してきました。
水戸八幡宮の崖下にある神明宮は水害の多いこの土地の鎮守の守として建てられました。また、ここに湧き出す「神明宮の湧水」は、八幡宮のみそぎ所として参拝する人はここで身を清めたといわれています。
この泉は、昔から近辺の人たちの生活に大切な水としても利用されてきました。ただ現在では、水戸市の水質調査表を見ると、飲用にはちょっと難しい結果が出ていました。
周辺はいま八幡池緑地として整備されています。
七曲り坂は松本町の茨城高校の西脇から那珂川方面に降りる昔からの細い道で、その降りきった一帯には湧水群があります。
「七曲り湧水」は現地看板には「弓道場下湧水」となっていました。斜面の中腹に弓道場とサッカー場がありました。
「お茶の水湧水群」は水戸藩の重役などが領内巡視で馬口労町や松本町で休憩するときに、この水でお茶を点てて接待したことから、土地の人々はお茶の水と言い伝えてきました。(案内板より)
この辺一帯は湧水群になっており、近所の人たちが見守っているようです。
「祇園寺下湧水」は、その名の通り、心越禅師の開山、光圀公の開基による曹洞宗の古刹、祇園寺の崖下に湧き出しています。
713年に編纂された常陸国風土記や759年編纂の万葉集にも載っている「曝井(さらしい)」は、1200年の歴史を秘めた湧き水です。
常陸國風土記には「坂の中程に水量豊富で清い泉が出ており、これを曝井といって付近に住む村の乙女達が夏月に集い、布を洗い、曝し、乾した」とあります。
また万葉集の巻九に、高橋連虫麻呂(むらじむしまろ)の作と伝えられている「三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむ彼所に妻もが」が詠われています。(※三栗は那賀に掛かる枕詞)
近辺最大の愛宕山古墳の西側、通称滝坂の斜面にある曝井一帯は、現在「萬葉曝井の森」という公園として整備されており、かっての藪の中のようなイメージは一新されました。
遊歩道を上がっていくと国指定史跡の愛宕山古墳があります。
全長136.5mに達する大きな前方後円墳で、那珂川流域では最大規模、5世紀初頭に(6世紀という説も)築造された、那珂国造(くにのみやつこ)の祖である建借間命(たけかしまのみこと)の墳墓と考えられています。
なお、さらに西方にある飯富町の1000年以上の歴史を持つ延喜式内社・大井神社の御祭神はこの建借間命です。
後円部の頂上には愛宕神社が鎮座し、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祀っています。
平国香が山城の愛宕神社から分霊し、常陸大掾が常陸府中を経て水戸城内に遷座、天正8年(1580)、佐竹義宣が現在地に移したと伝えられています。社殿は東方の水戸城を守護するとともに、火伏せの神様として広く信仰されています。


水戸城址の大シイノキ

2018年06月16日 | 水戸の観光
現在の城跡というと大体桜の名所ですが、これは明治6年の廃城令以降のことで、それまでの城には城攻めの敵兵が樹木の陰に隠れたり、樹木に手をかけて登られてしまうので、防御上樹木は植えられず、籠城に役立つ樹木が城内に少しあるだけのようでした。
例えば樹脂を含み燃料、松明にもなる松、いざという時の食料になる椎ノ木、建材や竹槍になる竹などです。

今年は明治維新150年ですが、水戸城は廃城令前の明治5年に不審火により二の丸御殿が燃え、昭和20年の大空襲により城郭内のその他の施設もほとんど燃えてしまい、樹木がどれほど残っているかは分かりませんが、目に触れる場所では、樹齢400年とされるスダジイという品種の大きなシイノキがあります。佐竹か徳川の初め頃に、籠城の際の燃料と食料確保のために植えられていたのでしょうか。

まず①スダジイです。二の丸の水戸二中の運動場南端、見晴台の入り口にあります。
案内板によると、2株の大シイは戦国時代から自生していたと伝えられ、その樹齢は約400年と推定され、2株のうち1株は根回り4.1m、目通り3.3m、樹高18.6mで、もう一方は根回り6.8m目通り4.3m、樹高20.0m、水戸市指定記念物とあります。

②スダジイは、弘道館の対試場に三の丸小学校敷地より張り出しています。弘道館が建つ前は重臣屋敷があった場所なので、その頃から藩の歴史を見てきたことでしょう。① と同じくらいの樹齢とされています。

同じくらいの樹齢とされる③スダジイは、弘道館の梅林の中にありますが、ここにあった弘道館の文館は明治元年の藩内抗争で消失してしまいました。いま、その再建計画もありますし、椎茸が出たことがあると樹木管理の方が言っていたので、この老木はそろそろ寿命かも知れません。

②スダジイの椎の実を秋に撮りました。どんぐりの中では生でも食することができる種類で、少年時代は貴重なおやつでした。

また、弘道館公園内の要石碑の脇にあるクスノキも樹齢300年といわれる大木ですが、弘道館以前の三の丸重臣屋敷に植えられていたのか、177年前の弘道館建立時に新たに植えられたのかは不明です。

なお、弘道館公園内の梅林には約700本の梅樹がありますが、この一帯は大空襲の焼夷弾で燃えており、当時のものは残っていないとされています。

中生代白亜紀層海岸

2018年06月11日 | 歴史散歩

ひたちなか市の平磯から磯崎の海岸一帯は、湘南のような海辺のドライブウェイともいわれ、また家族連れの磯遊びでも人気のスポットです。

よく見ると、北に傾斜した岩礁の地層が続いています。これは8000万年前の中生代白亜紀の地層で、県の天然記念物に指定されています。当時この周辺は深い海の底で、陸では恐竜達が闊歩し、海ではアンモナイトや海棲爬虫類が繁栄していました。

その太古の地層が褶曲、隆起して、砂岩、泥岩、礫岩からなる岩石が、柔かい部分は波に侵食され、硬い部分が残って鋸の刃のように連なっています。この地層からはアンモナイト・ウニ・二枚貝・サメなどの化石も発見されています。

水戸藩2代藩主光圀公が命名したとされる清浄石の石碑が建っています。このこぎり歯状の海岸一帯は古来より神磯とよばれ神聖な場所とされ、酒列磯前神社の酒列(さかつら)とはこの神磯を指しています。

先端の四角の平らな岩が清浄石で、約3.6m四方の形から護摩壇石、阿字石ともよばれ弘法大師、親鸞聖人により護摩祈祷が行われていたとの伝えまで残っています。なお、海水浴場として有名な阿字ヶ浦は、阿字石前の浦なので名付けられたそうです。

岩礁地帯を過ぎた高台には、水戸藩第6代藩主治保公が、当時白砂青松の海岸と西に阿武隈の山を望む風光明媚なこの地を賞賛し、寛政2年(1791)に比観亭と名付けた「お日除け」(東屋)を建てさせたとの碑があります。

この比観亭に掲げられた扁額は、彰考館総裁立原翠軒が筆をとり桜の板に彫刻したもので、隣地の酒列磯前神社に保管されているそうです。

現在の比観亭跡からは、眼下に小さな漁港、磯崎港が一望できます。右方が白亜紀層の岩礁地帯、左方が阿字ヶ浦海水浴場とその先に常陸那珂港があります。