茨城県北の山間部には約500年間この地を治めた佐竹一族の山城がたくさんあります。とはいってもかすかに残る堀や土塁もほとんど山の中に埋もれていますが、中には地元の有志の方々が草刈りや案内板設置などの整備をしている所もあります。
その中で何度も訪れたお気に入りの山入城は、百年戦争といわれた佐竹氏の内乱「山入の乱」の首謀山入氏の居城でした。標高185mの要害山頂から標高100mくらいまでの尾根に階段状の連郭式山城が築かれています。
地元の国安げんき会が建てた城の想定図をgoogle航空写真に当てはめてみました。本丸は一番下の郭になっていますが、茨城城郭研究会の「茨城の城郭」では一番高いところがⅠ郭、一番下がⅤ郭とされています。いずれにしても頂上部分は詰めの城で、主要部分は下の廓だったのではないでしょうか。
土橋と竪堀の案内板がある遺構は、クルマを停めてすぐのところです。
郭の周りをまわって上り道が造られています。
ここは「茨城の城郭」では2郭とされ、さらに一段高いところが1郭です。
1郭には山中にしては立派な案内板が建っています。
1郭の奥にある櫓台が要害山の山頂で国土地理院地形図では185.3mになっています。
櫓台にある祠は、荒れ放題でしたが整理されてしめ縄が張られていました。
櫓台から見下ろした1郭、桜が散り始めていました。
クルマで下山途中には段々状の廓が続きますが、農地や、道路などで改変されていて遺構とは断定できないようです。
下の廓付近から見た地元の国安地区の集落です。
下山した県道33号から見た要害山の全景です。手前に流れる山田川は鍋足山を源に37キロ流下して久慈川に合流し太平洋に注ぎます。
ところで山入の乱とは―
常陸源氏の名門佐竹氏8代貞義の七男師義は足利尊氏に従って転戦し、観応2年(1351)に播磨国で討ち死にしますが、その戦功により子の与義が国安郷一帯などを与えられ、山入氏を称したといわれます。やがて小田野や高柿、依上などの庶家を周辺に独立させ、佐竹宗家と肩を並べる勢力を持つようになりました。
その後応永14年(1407)11代宗家の佐竹義盛に子がなく、関東管領上杉憲定の子を養子に迎えようとしたとき、山入与義、長倉義景などの有力支族がこれに反発し、宗家との間で山入の乱が起こりました。一旦鎮圧されましたが、山入氏はたびたび佐竹本家と対立し、延徳2年(1490)山入義藤、氏義の代には宗家15代佐竹義舜の太田城を奪い14年も占拠したこともありますが、のちに義舜の反撃に遭い、永正3年(1506)に山入城は落城してしまいます。
山入氏義はその子義盛と共に一族の小田野義正のもとに身を寄せますが裏切られて斬られ、5代約100年の山入の乱はようやく終結、庶流の小田野氏、高柿氏、国安氏などは生き残り、佐竹宗家の家臣として存続したとも伝わります。
まさに、「花散るや兵どもの夢の跡」の城址で、攻防の鬨の声が聞こえるようなひとときを過ごしました。
後日、常陸太田市郷土資料館で撮った「山入城址出土の磁器、カワラケ」の写真です。
さて、近くにある「竜神大吊り橋」を久しぶりに訪れてみました。
30年前にオープンの時、名称募集で「ビッグ375」(橋の長さに因んで)というのを応募した仙人ですが見事に外れました。
ちょうど男女4人のグループが高さ100mの橋からのバンジージャンプに挑戦していました。遠すぎた写真ですが、人間と繋がれたロープの落下速度が異なるため、ロープは緩んで落ちてゆくのが写っています。上がってきた4人は笑顔で楽しかったと…、なんと女性が3人でした。なお、料金は19,000円と掲示されていました。
500年前の落城の城址と令和時代の女性バンジージャンプ、なんともタイムスリップをしたような麗らかな春の日になりました。
城跡に咲いていたマムシグサ(蝮草)です。茎の周りの葉鞘の色がマムシに似ているので命名され果実は猛毒とされます。
桜の花びらが散っていました…。
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