顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

秋本番…身の回りの花など

2023年10月30日 | 季節の花

記録的な猛暑が初秋まで続いた2023年、やっと過ごしやすい季節の到来です。
今年の暑さはいろんな植物にも影響を与えたようですが、身の回りではいつものように秋の気配が濃厚になってきました。

ホトトギス(杜鵑草)は、ユリ科の多年草、花弁の斑点が鳥のホトトギス(時鳥)の胸の模様に似ていることから名づけられました。俳句では油染みの斑点のようだという「油点草」でも詠まれていますが、鳥のホトトギスの漢字は他にも杜鵑、杜宇、郭公、蜀魂、田鵑、子規などがあります。


シュウメイギク(秋明菊)は、キク科ではなくキンポウゲ科の植物です。楚々とした花姿ですが大型の多年草で、地中の根は太く長く伸びて、わが狭庭でも大きな顔で増えています。白い花弁のように見えるのは、萼の花弁化したものだそうです。


西日本の海沿いの岩場に自生するというダルマギク(達磨菊)の園芸種です。丸い葉を達磨にたとえたという説などがありますが、ずんぐりむっくりの様子が何となくぴったりです。


散歩道の野菊の群生です。秋の季語にある、まさに「花野」です。


この辺りの野菊はほとんどカントウヨメナ(関東嫁菜)です。若菜を食用とし山に生えるシラヤマギク(白山菊)の「婿菜」に対し、人里にあり女性にも摘みやすいので嫁菜と名付けたという説もあります。 
       

花野の中に混じっていたアザミ(薊)、日本では約100種類ほど見られるそうですので種名は分かりません。秋に咲く代表はノハラアザミと出ていましたが…。


同じく花野の中のヒヨドリバナ(鵯花)、こちらも鳥の名が付いていますが、いたって素直にヒヨドリ(鵯)の鳴く頃に咲くという命名由来です。

秋といえば、キノコ…キンモクセイが匂う頃には初茸が出るとよく聞かされましたが、いつもの散歩道に今年も出ていました。

古くから食用キノコとして知られるハツタケ(初茸)は、芭蕉や一茶の句にも詠まれ名前の通り初秋の早い時期に採れます。特にいい出汁が出ることで知られています。


ハナイグチ(花猪口)は海沿いの松林などにごっそり出ますが、最近この辺ではあまり食べないようです。きのこ蕎麦の店では「ジコボウ」という名で出ていて、我が地方では「アワモチダケ」といっていました。美味しいキノコですが、傘の裏側が管孔状になっているキノコは、食べ過ぎると消化不良を起こすということを体験したことがあります。

公園でも色付いた葉と秋の実を見かけるようになってきました。

ハナミズキ(花水木)はアメリカ原産、今や公園や街路樹として春に咲く花や紅葉、紅い実が好まれているようです。


ナツハゼ(夏櫨)は、「日本のブルーベリー」ともよばれるツツジ科の落葉低木で、紅葉が美しく盆栽などにも人気です。我が少年時代は「はちまきぼんぼ」という名で、山歩きのおやつでした。今摘まんでもまったくその味、酸味は強くてもまさしくブルーベリーです。

油点草紫出過ぎても居らず  中谷楓子
紫の斑の賑しや杜鵑草  轡田進
杜鵑草手にし座興に啼かせみぬ  高澤良一
朝よりも昼の暗さの時鳥草  後藤比奈夫

上田城…徳川の大軍を二度も撃退

2023年10月25日 | 歴史散歩
信濃の旅の続きです。
上田盆地のほぼ中央に位置した簡素な縄張りの城ですが、周りを水堀と土塁で囲み、南側は千曲川に張り出した急崖が天然の要害になっています。

真田昌幸が上田城を建て始めたのは、安土桃山時代の天正11年(1583)のことです。というか、当時この地方は、越後の上杉景勝と関東の徳川家康の勢力の境目で、家康に臣属していた昌幸は上杉への最前線の城として家康の援助で建てていました。

ところが小田原の北条氏直と同盟を結んだ家康から、上州沼田領を北条に渡すように命じられた昌幸がこれを拒絶したため、家康は天正13年(1585)に上田城攻撃を決意、昌幸は徳川軍の攻撃に備え上杉方に次男の幸村を人質として差し出し、上杉景勝に築城途中の工事援助を求め短期間で城を完成させます。やがて7,000人以上の大軍で押し寄せた徳川軍に対し、昌幸は巧みな戦略を用いてわずか2,000人足らずでこれを撃退します。これが第一次上田合戦です。
苦戦していた包囲軍が、家康の重臣石川数正が秀吉に寝返ったとの知らせに、あわてて陣をたたみ撤退を始めたともいわれています。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、真田昌幸と次男の幸村は西軍(石田三成方)につき、長男の信之は東軍(徳川方)に分かれて戦うことになります。昌幸と幸村は上田城に立てこもり、東山道を西上する徳川秀忠率いる東軍38,000人対して、わずか2,500人で籠城し、秀忠軍を7日間も釘付けにして関ヶ原の戦いに遅参させます。これが第二次上田合戦です。

関ヶ原戦後、昌幸と幸村は高野山の麓、九度山に幽閉され、真田氏の上田城は徹底的に破壊されたため、上田領を与えられた長男の信之は城下に屋敷を構え、元和8年(1622)には松代へ移封となります。そのあとに小諸から上田に入封してきた仙石忠政が、堀を再び堀り返して石垣を積み、7基の櫓と2基の櫓門を建てた上田城の姿が明治維新まで残りました。


当時城の直下を流れていた千曲川が造り上げた急峻な河岸段丘にある西櫓は、江戸時代から現存している唯一の建物です。


明治維新後、西櫓以外の櫓、櫓門は取り払われますが、城外に移築されていた2基の櫓は昭和17年(1942)城内に買い戻され、現在の南櫓(左)、北櫓(右)として再建されました。平成6年(1994)には東虎口櫓門(中央)が復元されました。

南櫓です。南側の崖下には当時千曲川が緩やかで深い天然の堀をつくりあげていました。崖面がもろく崩れやすい性質だったことから築城以来保護対策が行われ、大規模な石垣が設置されています。


急峻な崖の上部は砂利や小石が混じる礫層なので、大昔には千曲川の河床だったものが隆起したのかもしれません。現在は一部コンクリート吹き付けされて崩れをを防いでいますが、当時は千曲川に張りだしていたこの崖を見ると、堅固な守りの城を実感しました。


東側の二の丸と三の丸の深い堀は、当時は水堀でした。この堀底を上田丸子鉄道の線路が引かれていた時代もあり、この二の丸橋下辺りには駅があったそうです。


かっての水堀を二の丸橋で渡り、三の丸から二の丸に入ります。二の丸東虎口櫓門跡の石垣が両側に残っています。


城下町の中央にあり上田藩が時刻を伝えていた時鐘櫓が、城址入口の石垣に移され平和の鐘と名づけられています。


さらに二の丸と本丸への間にも水堀で守られています。


本丸手前の東虎口櫓門の石垣にひときわ大きな「真田石」があります。説明板には、真田信之が松代へ移封の際に父の形見として持ち運ぼうとしたが動かせなかったと書かれています。


土塁に囲まれた平坦な一画が本丸です。


本丸西側の水堀と土塁です。千曲川に面した急崖の南面以外の三方は、本丸、二の丸とも二重の水堀で守られています。


唯一当時の建造物の西櫓を裏側から撮りました。


本丸内にある真田神社は、明治維新まで7代166年間上田城主だった松平家の先祖守る松平神社でしたが、のちに歴代の上田城主である真田氏、仙石氏、松平氏を御祭神とするようになりました。徳川の大軍を2度も破ったので、「落ちない城」として受験生に人気の神社になっているそうです。


おなじみ真田幸村が、六文銭の陣幕の前に槍を構えて立っていました。三途の川での渡し賃「六文銭」を旗印にすることで、常に決死の覚悟で戦場に出たともいわれています。


本丸唯一のこの井戸には抜け穴があり、城の北側の太郎山砦や藩主居館に通じていたという「真田井戸」、覗き込んでも中は真っ暗でした。


やはりここは北国街道の信州…、城内の大きなナナカマドの木に真っ赤な実がびっしり付いていました。


車窓から撮りました。盆地の中心を流れる千曲川は、城を守る重要な堀として、また有名な川中島の戦いの場にもなりました。現在でも暴れ川の歴史を繰り返し、この地の人々の暮らしに大きく関わっています。やがてこの千曲川は越後の国に入ると信濃川と名を変え、日本最長367㎞の一級河川として日本海に流れ込みます。

長野善光寺…1400年の歴史を経て

2023年10月19日 | 歴史散歩

町内の団体旅行で「一生に一度は」の長野善光寺へ…高齢化で参加者も激減し大型バスに14人のゆったり旅でした。
さて、善光寺縁起によると、本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インド、百済を経て欽明天皇13年(552)に仏教伝来とともに日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれています。当時廃仏派の物部氏によって打ち捨てられたものを信濃国司の従者本田善光が信濃国飯田に祀り、その後この地に遷座され、皇極天皇3年(644)に勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられたと伝わります。


国宝の本堂は江戸時代中期の宝永4年(1707)の再建で、高さ約29m間口約24m奥行約54mという東日本最大級の大きさは、国宝建造物のなかでは、東大寺大仏殿、三十三間堂、知恩院に次いで4番目だそうです。

本堂の幕にある葵の紋は、善光寺を開いたと伝わる本田家の家紋「立葵」で、善光寺の寺紋となっています。徳川家の家臣、本多家も同じ紋ですので何らかのつながりがあるのでしょうか。


同じく江戸時代中期の寛延3年(1750)に建立された栩(とち)葺の山門は、国の重要文化財に指定されています。


経蔵は、宝暦9年(1759)に建立された五間四方宝形造りのお堂で、江戸時代を代表する経蔵建築として国の重要文化財に指定されています。

経蔵内部中央にある八角の輪蔵の中には仏教経典が収められており、時計回りに一周押し回すと、収められた一切経を全て読んだことになるといわれ、回している姿も見えました。


鐘楼は弘化4年(1847)の善光寺地震で大破し、嘉永6年(1853)に再建されました。柱が6本ある珍しい姿ですが、南無阿弥陀仏の六字名号に因んだといわれています。

無宗派の単立仏教寺院といわれる善光寺の住職は、天台宗の「大勧進貫主」と浄土宗の「大本願上人」の二人が務めています。

その天台宗の「大勧進」の貫主は、御貫主(おかんす)様と呼ばれ、代々比叡山延暦寺から推挙された僧侶が務めています。

同じく浄土宗の「大本願」は尼寺で、住職は御上人(おしょうにん)様と呼ばれ、創建以来皇室、五摂家関係の方々が務め、現在は鷹司家の方だそうです。


宝暦2年(1752)に建立された仁王門は善光寺大地震などにより焼失し、大正7年(1918)にケヤキ造りで再建されました。

仁王像と背後の三宝荒神、三面大黒天は、近代彫刻家として著名な高村光雲と米原雲海による作です。一般的な配置と逆で口を開いた阿形像が左の仁王像は、金網に覆われていましたが、筋肉の盛り上がりが分かるでしょうか。
最近の調査で、この像には支柱などが無く、重心のバランスを取った作品自体で自立していることが判明したそうです。


境内入り口から本堂までの長さ約400mに敷かれた石畳は7,777枚あるとされ、正徳4年(1714)に江戸で石屋を経営していた豪商の大竹屋平兵衛より寄進されたものです。


その石畳の参道沿いにある仲見世通りには、土産物店、飲食店などが連なり、賑やかな門前町の風景です。ここには善光寺如来堂(金堂)がありましたが、移転に伴い広い空き地となり、次第に露店や見世物小屋などが集まりにぎわうようになり、善光寺名物である「八幡屋唐辛子」の八幡屋磯五郎も御高札前に露店を出していたといわれています。


同じく南側の参道両側には、39の宿坊があります。宿坊も二つの宗派に分かれていて、名前に「院」がつく宿坊は天台宗の宿坊で25院、「坊」がつく宿坊は浄土宗で14坊、それぞれに仏様を安置する御堂があり、善光寺如来に奉仕する住職がいます。


7年に一度の御開帳では、絶対秘仏である本尊の代わりに、本尊を模鋳した前立本尊中央の阿弥陀如来の右手中指に結ばれた金の糸が、本堂前に立てられた回向柱に結ばれ、回向柱に触れると、前立本尊に触れることと同じ御利益があるとされています。その回向柱はその後、この歴代納所に立てられ長い年月を経て土に還っていくそうです。

いま全国では善光寺を名乗っている200近い寺院があるそうです。というのは鎌倉時代善光寺聖(ひじり)という半僧半俗の遊行僧が、遠く離れた地域にまで善光寺如来の分身仏を背負って出かけ、信仰を広げました。常陸の国でも、鎌倉の御家人八田知家やその一族は篤い善光寺信仰を持っており、知家は「新善光寺殿」という法号で呼ばれることもあり、今でも善光寺という名の寺や廃寺跡を近辺で見かけます。
写真は、文亀元年(1501)に小田城主が建てた石岡市の善光寺(廃寺)の楼門、重要文化財です。

その後、信玄、信長、秀吉などの時の権力者が本尊を祀るため領地に持ち去り、寺院も門前町も荒廃した時代もありましたが、現在は年間約700万人もの方々がこの地を訪れます。また長野善光寺とゆかりの深い寺院や神社によって「第1回善光寺サミット」が平成5年に開催され、以後全国善光寺会が全国の会員寺社との交流の場になっているそうです。


周辺は果樹園が多く、紅く色付き始めたリンゴが鈴なりです。真っ赤なこのリンゴは早生の「ピッコロ」という品種だそうです。

好文亭奥御殿の襖絵…偕楽園の植物

2023年10月13日 | 水戸の観光

記録的な猛暑も過ぎ、さすがに秋の気配が濃厚になってきた偕楽園です。萩も今年は長く暑い気候の影響で開花が遅れて短期間の咲き方で終わってしまい、今はちらほらと花をつけている二季桜が見られるくらいで、春の梅まで花の一休みの季節に入りました。
しかし好文亭の奥御殿では、部屋ごとの襖に描かれた四季の花が満開…、その襖絵の花を園内で探した写真を並べてみました。



水戸藩9代藩主徳川斉昭公が、天保13年(1842)に偕楽園を開設した時に、文人墨客や家臣、領民を招き、養老の会や詩歌の会を催した二層三階の好文亭を建て、その北側につなげて藩主夫人と御付の婦人方のために奥御殿を造りました。
残念ながら昭和20年(1945)の大空襲でどちらも焼失し再建されたときには、奥御殿の襖絵は東京芸大の須田珙中、田中青坪両画伯が植物に因んだ部屋名に合わせて描きました。

左手の杮葺き二層三階建ての好文亭に対し右手にあるのが茅葺の奥御殿で、一部杮(こけら)葺きの部分が明治になって水戸城中屋敷から移築した斉昭公夫人の貞芳院の居室だった所です。

菊の間

奥御殿入ってすぐの菊の間は、12畳相当の松板張りで、厨として使用されていました。10枚の襖に、咲き乱れるいろんな菊が描かれています。

園内で探してみると、南崖の七曲り坂の下に野菊が咲いていました。多分カントウヨメ(関東嫁菜)という品種で、この辺で一番多くみられる野菊です。

桃の間

同じく厨として使われた桃の間も松板張りの18畳の広さです。襖いっぱいに紅白の桃の林が描かれています。

桃の木は偕楽園公園の窈窕梅林の近くに、花桃が植えてあります。

躑躅の間

躑躅の間は藩主夫人お付の婦人たちが詰めたお休み処で10畳間…、向かい合わせの襖8枚に紅白の躑躅(つつじ)の絵が描かれています。

園内にはツツジやサツキなどが約250株あり、ゴールデンウイークの時期に華やかに咲き誇ります。写真の見晴らし広場の真っ赤なキリシマツツジ(霧島躑躅)は、樹齢約300年のものもあるといわれています。

紅葉の間

紅葉の間は、松の間の控えの間(次の間)として使用されました。真っ赤なモミジが床の間付き9畳の襖8枚いっぱいに描かれています。

ちょうど「紅葉の間」の外には、いつも鮮やかな色を見せてくれる紅葉の木があります。

松の間

松の間は床の間付きの9畳、藩主夫人や高貴の方の御座所や奥対面所として使用されました

園内には手入れの行き届いた黒松、赤松、多行松など見事な松が約250本あります。

さて、茅葺の奥御殿の中で東側に張り出した一画だけが屋根が杮葺きになっています。ここにある竹の間、梅の間は、もと水戸城下柵町の中屋敷にあったものを斉昭公の正室貞芳院の住まいとして明治2年(1869)にこの奥御殿に移築したものです。南側に一間の入側を付け「清の間」を付属した奥御殿内の最も高貴な部屋で、貞芳院は明治6年(1873)までここに居住し、その後水戸藩下屋敷(向島小梅邸)に移って余生を送りました。

竹の間

竹の間は11畳、隣の梅の間とここは藩主夫人貞芳院の居住空間でした。梅の間との境の欄間には、節枝付きの自然のままの丸竹が並べられています。

偕楽園表門を入ってすぐにある竹林は、開園時に京都の嵯峨、男山地方から移植したモウソウ竹が約1000本植えられており、大杉林とともに「陰の世界」を表しています。

梅の間

紅白の梅が描かれた梅の間は床の間付きですが、藩主夫人の住まいにしては狭い葵紋縁付きの畳6枚のスペース、水戸城を立ち退いてここでの生活はいかばかりだったでしょうか。

もちろん梅で知られる偕楽園、100種3000本という梅が春に先駆けて咲く梅まつりが盛大に行われます。

清の間

3畳の清の間は梅の間の付属で、配膳のための部屋というのが通説になっています。


なお、貞芳院の居住空間であった3部屋の南側には、入側という濡れ縁と座敷の間にある1間(1.8m)幅の畳敷き通路があります。

萩の間

萩の間は藩主夫人お付の婦人たちが詰めた畳10畳のお休み処で、襖14枚に萩の絵が描かれています。この天袋の小襖4枚については拙ブログ「萩の偕楽園…好文亭奥御殿「萩の間」2022.9.12」で紹介いたしました。

園内にはいろんなハギが約750株、ミヤギノハギ(宮城の萩)は伊達家(仙台藩)から頂いたといわれています。のちに斉昭公の9女八代姫が仙台藩主に嫁いでいます。

桜の間

桜の間も藩主夫人お付の婦人たちの詰めたお休み処で、8畳の襖に満開の桜が描かれています。

園内には山桜、二季桜、十月桜などがありますが、見晴らし広場にあった由緒ある「左近の桜」は残念ながら2019年9月の台風で倒伏してしまいました。今年3月には宮内省から同じ系統の苗をいただき、佳子さまがお手植えされたので、数十年後にはまた雄姿を見せてくれることでしょう。

(写真は倒伏前の左近の桜と、3月に植えられた苗木の現状です)

なお、「左近の桜」は、貞芳院が水戸家に御降嫁の際、仁考天皇から下賜された京都御所の桜の鉢植を弘道館に植えたものが枯朽してしまい、昭和38年に宮内庁から再び苗をいただいて植えたものでした。


ところで天保13年の開設時の襖絵は、藩絵師の萩谷遷喬や三好守真、岡田一琢が描きましたが、水墨画のようで弘道館の襖絵に似ていたという話が残っています。

戦災を免れた弘道館の正席の間の袋戸にある萩谷遷喬によって描かれたこの梅の絵で想像するしかありません。

出雲大社が常陸国に…樹木葬でも知られています。

2023年10月07日 | 日記

常陸国出雲大社は、平成4年(1992)に島根県出雲大社より分霊し笠間市福原に建立されました。ご祭神は、国造り、縁結びで知られている大国主命(おおくにぬしのみこと)です。
※その後2014年にお守りなどの商用利用を禁じる「神社本庁」の通達を守らなかったことにより出雲大社との関係が解消されて、現在は単立の宗教法人となり名前も出雲大社常陸分社から常陸国出雲大社に変わったそうです。

この福原の地は、島根県出雲大社から、大国主大神の第二子建御名方大神(たけみなかたのおおかみ)が鎮まる長野県諏訪大社を通り、常陸国(日が立ち上る国)へと直線上で結ばれているご神縁の地とホームページに出ていたので、地図で確かめてみました。


小高い山の斜面を利用して建物が散在しているので、境内は自然の中に囲まれています。


大鳥居は、石の山地として有名な地元稲田の御影石で造られた明神鳥居、高さ約11m、笠木長さ約14mという国内最大級の大きさです。急なこの石段は登らずに左手の坂を登る参拝者が多いのですが、そちらも思ったよりは急坂で息が切れました。

急坂を登ると諏訪大社本宮の脇拝殿様式を取り入れたという拝殿と大きなしめ縄が見えます。


ここは圧倒される大きさのものが多い神社です。国内最大級といわれるしめ縄は、なんと長さ16m、重さ6tonもあるそうです。


この大しめ縄に下からコインを投げ銭して藁の間に刺さると縁起が良いといわれており、たくさん刺さったコインが見えるでしょうか。神社では神様に失礼な行為としているようですが…


本殿は、日本最古の建築様式である大社造りです。切妻造の屋根が三角に見える方に入り口がある大社造りの構造が分かるように、この写真は大社のホームページよりお借りしました。


総檜による拝殿の高い天井には、奥田浩堂氏の「常陸の雲」が描かれておりますが、これもなんと42畳の大きさだそうです。


総木彫りの大国主命像も国内最大級の大きさで、出雲一刀彫藤井孝三氏の作です。右の手の上に載っているのが、大国主命と一緒に国づくりをしたという身体が小さい少名彦命(すくなひこのみこと)です。


巨木文化の最たるものは拝殿内に置かれたこの大國柱、実際には天井を支えているわけではないようですが樹齢2650年、直径は2.5mの大檜です。通常の表記は「大黒柱」でも、ここではやはり「大國柱」でした。
もっとも国を支える柱という意味の「大國柱」が転化して「大黒柱」になったという説もありますし、大言海では「大國柱」を採用しているようです。


御鎮座三十周年の看板のある林彩館は、秋田の豪農畠山家の米蔵として使用していたものを譲り受け移築したギャラリースペースです。


大きさで圧倒される境内で、その割にはつつましい大きさの手水舎でした。


見晴らし台から見えるのは、燕山(701m)や加波山(709m)などの筑波連山、その先に関東の名峰筑波山(877m)があります。


さて、最近ここがよく話題になるのは、神社の後ろに平がる山の一部を樹木葬霊園として造成し販売していることです。

知り合いの方でもすでに利用されている方もおり、その一画を訪れてみました。ちょうど曼殊沙華が咲いていました。

林の中には墓石などの重厚なものはなく、小さな杭があるだけで、墓というイメージではありせん。遺骨は土に直接埋葬するそうですから、まさしく自然に帰るという状況そのものです。

これからの時代、核家族も増えると先祖の墓を維持するという考え方も変わってくるでしょうし、個人的にはこういう形態の墓所もいいかなと思いました。