顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

水戸歩兵第二連隊

2015年10月30日 | 散歩


水戸護国神社の左側の階段でない参道の中腹に、ペリリュー島守備隊鎮魂碑が建っています。今年5月に天皇陛下が慰霊訪問されたペリリュー島は、太平洋戦争の激戦地、水戸歩兵第二連隊を主力とした10,931名の守備隊が玉砕しました。圧倒的多数の米軍48,000名の戦死者 1,794名、戦傷者 8,010名、この他に精神に異常をきたした者が数千名いたといわれる凄まじい戦いでした。なお、日本軍の負傷捕虜202名、ほかに戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延びており、終戦後の1947年4月22日に米軍へ投降しました。
地元出身者も多かったであろう、この第二連隊の勇猛さは後々語られて、終戦直前8月2日の水戸大空襲は、他の被災都市に比べ規模が格段に大きく、この部隊の本拠地と軍国主義の思想的背景にある水戸学の発祥地を叩く意図があったとの推測がありましたが、戦後の米軍資料で否定されました。



この護国神社一帯は 古来白雲岡と呼ばれていた景勝の地で、斉昭が偕楽園を造るときの候補地でしたが、地形的に少し狭いので桜の木を数百本植え、好文亭と対の一遊亭を建てたところです。
境内には椎の実などの木の実がたくさん落ちていました。
 
  玉砕の慰霊碑被い木の実降る 顎鬚仙人



碑文に刻まれた言葉の一部です。
 明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して、赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第二聯隊は、大東亜戦争酣(たけなわ)の昭和十九年三月、北満の守りから、中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され、聯隊長中川州男(くにお)大佐は、一万有余名の陸海軍部隊を併せ指揮して同島に布陣し、敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。
九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸用舟艇群を邀撃して大打撃を与えた。爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつ、持久の任務を遂行したが、十一月ニ十四日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し決別電報「サクラ・サクラ」を打電して、自決、残る将兵は遊撃戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。(ルビ追加)

稲刈りのあとの株…ひつじ田は秋の季語

2015年10月26日 | 俳句


稲を刈ったあとの株にまた新しく出てきた茎を「ひつじ」といい、ひつじが萌え出た田がひつじ田といい、秋の季語です。ひつじの字は「禾偏(ノギヘン)+魯」ですが、ブログ上では日本語文字コード(S-JIS)以外の文字は変換されません。別に稲孫田(ひつじた)ともいいますが、こちらの方が言葉の意味が分かりやすいかも知れません。



さて、この辺は米どころ、8月末に稲刈りの終わった田は、切り株のひこばえもすっかり大きく秋の色になり、背丈は短くても稲が垂れ下がり、ちゃんと実が入っています。まるで二期作です。
調べてみると、暖かい早場米地区では二期作も可能で、戦後の食糧難の時には集めて収穫したようですが、現在は手間に会わないので屑米や飼料にも利用しないようです。やがて田起しされて土の中に鋤き込まれてしまうのでしょうか。

ひつじ田の果て無き関東平野かな   篠 藤江
ひつぢ田に紅葉ちりかかる夕日哉   蕪村 
ひつじ田も黄金に実り米どころ    顎鬚仙人



10月なのに…偕楽園の桜2種

2015年10月24日 | 水戸の観光



いま偕楽園では、2種類の桜が満開です。といっても、春爛漫の桜ほど華やかさはありませんが…。
写真の桜は、二季桜で四季桜の仲間、秋から冬にかけてと春の二回咲きます。花は一重咲きです。偕楽園では、東門入って左側の一本と見晴らし広場西側に二本、好文亭中庭に一本あります。



淋しげな一重の白っぽい花が、二季桜です。



似ていますが、表門入り口左側の十月桜、こちらは八重咲きで花弁の数は10から16個、10月頃から開花して、冬の間も小さい花が断続的に咲き続け、春になるとやや大きめの花が咲きます。少しピンク色が入っています。
どちらの桜も、春先にいっせいに咲くあの艶やかさはなく、冬に向かう寂しさが感じられるそそとした咲き方、なぜか魅了されます。

行方市の歴史遺産

2015年10月22日 | 水戸の観光
行方市へ観光ボランティアの研修で出かけました。水戸から約30キロの距離、まずは旧玉造町にある水戸藩の大山守(おおやまもり)大塲家郷士屋敷、「場」の字が「塲」となっていますが現当主家の表札は、「場」でした。
全行程、行方市の観光課、生涯学習課などの方々が一緒に歩いて下さり、丁寧なご説明をいただきました。



大場家は代々水戸藩の大山守を務め、20数カ村の藩有林を管理するとともに、各村の庄屋の上に立ち、勧農、税の徴収・訴公・治安等、広域にわたる藩行政にたずさわりました。また水戸藩初代藩主・徳川頼房を始め歴代藩主の領内巡視の際の宿泊所として使われました。



藩主の宿泊所としての御殿部分は、式台、玄関、次の間付きの数奇屋造りです。東蔵の資料館には、9代藩主斉昭の竹を描いた水墨画など、貴重な資料がいろいろ展示されています。



次は、旧麻生町の麻生藩家老屋敷です。外様大名ながら江戸に近い関東に配置された麻生藩新庄氏1万石が、移封もなく267年も存続したのは、藩内一の家禄270石の家老畑家の功績が多かったと思います。
陣屋跡の麻生小学校東側に建つ、その家老の屋敷は、屋根は基本的には寄棟造になっていますが、正面の式台玄関及び主屋東方の土間上にあたる大棟部を入母屋造りとする規模の大きく重厚な茅葺屋根で安政4年(1857年)の建築です。



同じく旧玉造町の西連寺、延暦元年(782年)の開創の天台宗古刹、古くから「常陸高野」として有名との説明を受けて、高野山といえば真言宗ではと言う声あり、これは9月に行われる「常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)」の行事が、「この法要が宗派に関係なく近隣、遠隔地からも新仏の供養に参拝者が訪れる」と言われていることからきているようです。
天文12年(1543年)建立の仁王門は室町時代後期の間斗塚、蟇股などの特徴を持ち、境内の相輪とう(木偏に棠)とともに、重要文化財に指定されています。
近在にこんなに貴重な歴史遺産があることに感激した数時間でした。

涸沼のハゼ

2015年10月18日 | サイクリング


涸沼は海に近く、海水の混ざる汽水湖で、シジミとハゼで有名です。ハゼは、以前は職場の釣り大会などでたくさん釣れたのを覚えていますが、年々魚影が薄くなり、特に震災後はさっぱり、ただ一昨年は当たり年で、従弟たちと乗った釣り船で各人100匹くらい釣りました。釣れていた頃のハゼの数え方、1束(そく)=100匹の再来です。
しかし、去年はだめ、今年も自転車を止めて釣り人に確認するのですが、可哀想な釣果です。この写真は、10月6日、現在釣り船はほとんど見かけません。岸からのハゼ釣りの他に、アングラー、無線器を竿に取り付けたハイテク鯉ハンター、へら仕掛けの太公望が小数見られるだけです。

曇りしがそのまま日暮鯊の潟   橋本 風車
釣り船の連なり戻り秋驟雨    顎鬚仙人



今年5月、ラムサール条約に登録された涸沼は野鳥の宝庫、沼が涸沼川に変わる辺りには葦原が残されており、カメラマンの絶好のポイントのようです。カメラを手にした何組かの中に、山の仲間だったSさん夫婦に出会いました。装備、服装など野戦の兵士のように決まっており、500㎜+テレコン200㎜の超望遠レンズにもびっくり、遠くの飛行機を撮って見せてくれましたが、すばらしい解像度でした。
同じ「とる(獲る)」でも、こちらの「とる(撮る)」は、まったく自然にやさしい行為です。