顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

紅葉いろいろ 2018 ②

2018年11月28日 | 季節の花

この近辺で見る今年の紅葉は、殊の外きれいに仕上がっている気がします。
偕楽園公園のもみじ谷の入り口では真っ赤な色が迎えてくれます。

もみじ谷最奥の林では、まだ緑色が混じっている木もあり、童謡「秋の夕日に照る山紅葉、濃いも薄いも~♬」のメロディーが自然と口に出てきます。

水戸の桜の名所、桜山のサクラもほとんど散ってしまいましたが、残った真紅の葉を見付けました。

傍らの萩の枝もひかえめに黄葉しています。偕楽園ではこの枝を根元から切って、園内の柴垣(萩垣)の材料にします。

少年地代は口にしたガマズミの赤い実、酸っぱさだけで美味しかった記憶はあまり残っていません。

ツタウルシ(蔦漆)はウルシの何倍もの毒性を持つことがあまり知られていません。幹にからまって樹木を彩る様は、妖艶で美しいのですが…。

ケヤキ(欅)は新緑も黄葉もきれいですが、実家の大木を処分するのに多額の費用がかかった思い出があります。

近頃流行りの公園樹、モミジバフウ(もみじ葉楓)…絵の具箱をひっくり返したようないろんな色が混じっています。

カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)の分厚い葉も太陽に透かせて見ると赤い色素がよく見えます。

実の一つだに無きぞ悲しき…のヤマブキ(山吹)、黄色い花はやはり紅葉でなく黄葉するのでしょうか。

ゴンズイは赤い実のなる落葉樹、魚のゴンズイと同じ名前で、どちらも役に立たないというのが名前の由来という哀れな仲間です。確かに紅葉鑑賞には向いていません。

いわゆる雑木の種類はよくわかりませんが、多分これはミズナラ(水楢)?陽の光を浴びて黄金色に輝いています。

林の中でそこだけ赤い色が陽の光に透かされて手招きしていました。近づいて見ると、ヤマブドウ(ベニヅル)の葉です。

葉を落とす大風も吹かず好天が続きましたが間もなく師走、豪華絢爛なファッションショーも幕を閉じ公園は冬木立の中で眠りにつきます。

夕紅葉わが曳く杖の石に鳴り  大橋櫻坡子
落ち葉ふむこころに草鞋はきながら  松本雨生
しずけさは冬木の瘤に結集す  山田桂三


菊地謙二郎書の大幟

2018年11月23日 | 歴史散歩

水戸市金谷町にある日鷲神社の例祭に揚げる大幟は、水戸の先人菊池謙二郎の書という話を、氏子のTさんから聞き11月23日の朝に拝見してきました。

この地区の50数戸の氏子の皆さんが守る日鷲神社は、茨城県神社誌によると創立は不詳、天保年中に再建、明治初年幹周二丈余の巨杉へ落雷、七日七夜燃え続けたといふ、と出ています。
祭神は天日鷲命(あまのひわしのみこと)で、東日本では紙の祖神として知られています。県北の鷲子山上神社に鎮座しているのが有名で、一帯は烏山を中心とした紙の里としての歴史がありますが、この地区の紙との結びつきはわかりません。

さて、お目当ての大幟は社号が楷書体と行書体で書かれた一対でした。
菊池謙二郎は水戸藩士の家に次男として慶応3年(1967)誕生、帝国大学予備門などでは正岡子規や夏目漱石、秋山真之などと同期でした。明治22年には子規が水戸へ謙二郎を訪ねてきた際に著した「水戸紀行」が知られていますが、結局行き違いで会えず、立ち寄った偕楽園で詠んだ「崖急に梅ことごとく斜なり」の句碑が偕楽園の南崖に建っています。

この幟は大正11年書となっていますが、その1年前には、大正元年(1912)から水戸中学(現水戸一高)の校長をしていた謙二郎が、講演「国民道徳と個人道徳」の内容による舌禍事件で免官され、復職を求める水戸中学生徒全員による「慕菊池謙二郎先生」という幟旗を立てての同盟休校事件がありました。
その後大正13年(1924)から衆議院議員も務め、「藤田東湖伝」「義公伝」「水戸学論藪」など数々の著書を残しました。昭和20年(1945)逝去(享年78歳)

最後の水戸藩主の…戸定邸

2018年11月22日 | 歴史散歩

徳川斉昭公の18男で最後の水戸藩主の昭武は、家督を甥の篤敬に譲って隠居し明治17年(1884)に、水戸街道の宿場町で水戸藩とのつながりの深いこの地(千葉県松戸市)に2年かけて建築した屋敷に移りました。

比高約20mの舌状台地は、千葉大学園芸学部とともに中世の城郭松戸城の跡で、築城時期は明らかでありませんが、小田原の役で廃城になり、江戸時代は天領で旗本知行地や将軍の鹿狩の休息地にもなったそうです。

かつて7haを超えていた敷地の約1/3の2.3haが現在、戸定が丘歴史公園となっており、戸定邸と庭園、戸定歴史館から構成されています。

明治時代の徳川家の建物がほぼ完全に残る、純和風、木造平屋一部2階建ての邸宅は増築を経て、現在は9棟が廊下で結ばれ、部屋数は23に及びます。旧大名家の生活空間を伝える歴史的価値が高く評価され重要文化財に指定されています。

大名屋敷の系譜上にありながら、徳川家は権力の座を離れたため、規模を縮小し最上級の杉材を多用しながら華美な装飾を意識的に排除した空間になっています。
ここは表座敷の客間で実兄である元将軍徳川慶喜や多くの皇族も何度か訪れています。

客間の欄間には徳川家の三つ葉葵紋でなく、原型である賀茂神社の二葉葵が彫られています

この部屋からは、南西に庭園が広がり、西奥には富士山が遠望できます。

奥座敷は、戸定邸の主昭武の部屋ですが、昭武は客間棟の一室を居間にしていたので、後妻となった斎藤八重の居間として使われ、夜にご寝所となったと推測され八重の間とも呼ばれています。八重は幕府御家人斉藤貫之の三女で当初側女中として仕え、後に後妻として入籍し三男三女をもうけました。

戸定邸の一番奥にある離れ座敷は、昭武の生母、秋庭(しゅうてい)の居間です。南西が開かれ、欄間には蝶や雀があしらわれ軽やかな雰囲気を出しています。秋庭は万里小路建房の六女、睦子(ちかこ)で斉昭公の側室になり五男一女をもうけました。

邸内は、来客用の公的スペース、家族の私的スペース、使用人の使うスペースと3つに別れ、廊下で繋がれています。

釘隠しの葵紋も、何故か控えめな意匠になっているような気がしました。

洋風技法による芝生面の庭は我が国現存最古で、樹木の木立を主要景観に採り入れる手法も類例がないそうです。
なお、毎月の「戸定の日」(5の倍数の日)には、普段入れない庭園に建物から降りて見学できるそうです。

戸定が丘歴史公園は江戸川や富士山を眺められる高台で、昭武の植えたコウヤマキなどの巨木や四季折々の花を楽しむことができます。

なお、戸定歴史館では、12月24日まで企画展明治150年 「忘れられた維新 静かな明治」が開かれています。戸定邸の主、徳川昭武の幕末から明治かけて時代の波に翻弄された生涯が斬新な視点で記述されていましたので、全文を下記に引用させていただきました。

第1章:プリンスの覚悟-パリへの旅立ち
 慶応2(1866)年11月、昭武は、幕府から思いがけない命を受けます。将軍家の一員である清水家を相続すること、翌年の万国博覧会に参加することでした。
 将軍・慶喜は13歳の弟、昭武を将軍名代(代理)としてパリ万博に派遣しました。慶喜は幕府再生の切り札としてフランスから巨額の資金調達を行おうとしていました。それを確実なものとするため、昭武に、各国君主が集う最高の外交舞台である万博で幕府の威信を示し、ナポレオン三世との親交を結ぶことを期待したのです。重責を果たすため、昭武は、2か月も要する命がけの航海を経てパリに赴きました。当時の航海技術では遭難の危険は避けられません。将軍候補を外国へ派遣する前例のない決断でした。
 少年昭武は、フランス皇帝、ロシア皇帝たちと華麗なる宮廷外交を行いました。しかし、フランスの外交政策の変更により資金調達は不調に終わります。追い討ちをかけるように幕府瓦解の知らせが昭武のもとに届きました。ヨーロッパのマスコミで次期将軍と華々しく報じられた昭武は幻の将軍となったのです。

第2章:もうひとつの維新-為政者としての昭武 
慶応4年(1868)3月の時点で、慶喜以下、国内にいる主だった徳川家の人物は新政府に恭順を示していました。しかし、一人だけ、意思を確認できない人物がいました。パリにいる徳川昭武です。当時の通信手段では意思確認に4ヶ月近くを要したからです。新政府首脳の三条実美は岩倉具視への書翰で昭武がフランスにいることに対して「後患深く可畏候」つまり、後の患を深く畏れるべきだと書いています。抵抗を続ける旧幕府勢力が、昭武を旗頭に迎えることを恐れたのでしょう。まだ脆弱であった新政府にとって、徳川昭武は危険人物と見られていたのです。懸念材料を払拭するため、新政府は昭武に帰国命令を出しました。帰国後の罪は問わないという含意も込めて、水戸藩主の座を用意した上での命でした。
 兄が謹慎処分を受け入れたことを確かめた上で、昭武は帰国を決意します。海外にいた徳川家の主要人物を巡るこの動きは忘れられた維新とも言えるでしょう。
 元号が明治となったこの年の11月、昭武は帰国しました。明治4年まで、彼は水戸藩主、同藩知事として地域の為政者ではありましたが、この後は政治に係わることはなく、新しい道を歩むことになるのです。

第3章:見出した夢-文化財を創る 
政治と係わらなくなった徳川昭武は、大名家ではなくなった水戸徳川家の家政運営を担い、明治年9年からは約5年のパリ再留学を行いました。維新の混乱により、充分な勉学が出来なかったという思いがあったのでしょう。
 帰国翌年の明治15年、彼は牧場開発と松戸に彼の私邸・戸定邸建設を同時に進めます。建物建設途中の明治16年には家督を譲り隠居、翌年6月には戸定邸に移住しました。建物完成後は3期に及ぶ作庭を陣頭指揮し、同23年に庭園を完成しました。ここを拠点とした狩猟、釣り、園芸、作陶、そして写真などの趣味は各分野の専門家との交わりを伴いながら深みを増していきました。
作庭には海外で見聞した知識と共に大名家に生まれ育った感性が反映され、写真には東洋西洋両方の絵画技法に基づいた構図と巧みな陰影表現が見られます。彼が好んでレンズを向けた働く庶民の姿は、作品として結実し、貴重な歴史資料ともなったのです。彼が心血を注いで完成させた戸定邸の建物と庭園は、国の重要文化財と名勝に指定されています。
 明治になり、政治を生きた昭武は、独自の美意識で新しい文化を創り出したといえるでしょう。

エピローグ:維新、閉幕-兄弟の絆
 明治維新の栄光の影で、かつて為政者だった兄弟は、政治とは一線を画すべく自らを律し、静かに暮らすことで徳川家を明治新国家へソフトランディングさせました。両者が趣味に没頭する姿は政治とは無縁であることの暗喩のようにも見えます。
 明治31年3月、兄・慶喜は維新後初めて明治天皇に謁見し、実質的な名誉回復を遂げます。昭武は2度にわたり兄を戸定邸に招き、お祝いをします。将軍であった慶喜の心中を最も深く共有できた人物は弟・昭武だったのでしょう。当事者にしか知りえない景色が見えたでしょう。
 明治43年7月、徳川昭武は兄に先立ち亡くなります。明治35年6月に公爵を授かっていた兄は、この年の12月に隠居をしました。2人の維新の区切りを感じたのでしょうか。                         (戸定邸のホームページより)

稲田御坊西念寺   笠間市

2018年11月18日 | 歴史散歩

稲田御坊の名で親しまれている稲田山西念寺は、親鸞が妻の恵信尼公や子供たちとともに40歳~60歳位までの約20年間住んで、教行信證を執筆し関東一円への布教も行った浄土真宗の聖地です。
建保2年(1214)この地に親鸞を招き本人も入信した稲田頼重は、厚く仏教に帰依した初代笠間城主の笠間時朝の叔父で、宇都宮氏の一族です。

欅などの大木に囲まれた長い石畳の参道を抜けた山門は茅葺きで、鎌倉~室町期の建立とされています。「浄土真宗別格本山」の大きな石碑に、親鸞聖人教行信證御製作地と記されています。

現在の本堂は1995年の建立、旧本堂は1721年に建てられましたが天狗党の乱の余波で明治4年(1841)に焼失したとされています。しかし明治になってからの乱の詳細は調べてもわかりませんでした。

ご本尊は阿弥陀如来像は、慶長2年(1597)宇都宮国綱の代で断絶した際、宇都宮城から持ち出して奉納されたと伝わっています。なお宇都宮氏は国綱の嫡男義綱が寛永年間に水戸藩に仕え、その子隆綱は藩主頼房の娘梅子を室とし、1000石を賜り家老も務めました。



境内の「お葉付き銀杏」の巨木は、県の天然記念物になっています。
親鸞聖人お手植えと伝わりますが、明治4年の大火で類焼し後に樹勢が回復したそうで樹齢300年、樹高約35m、幹囲約7.5mと記されています。銀杏の変種で葉の上に実をつけますが、なかなか実物を目にすることは困難です。

京都で亡くなった親鸞は火葬されて大谷に埋葬された後、遺骨の一部は稲田に戻って御頂骨堂に治められました。これは妻の恵信尼公が京都で親鸞の世話をしていた末娘の覚信尼公に墓を暴かれる心配を伝えて分骨したと伝わっています。

境内の山腹には、太子堂、太鼓堂、鐘楼、墓標碑などが散在しており、この一帯が厳かな雰囲気を漂わせている空間になっています。

柴又帝釈天と寅さん

2018年11月15日 | 旅行
柴又帝釈天は正式な名は経栄山題経寺という寛永6年(1629)開山の日蓮宗の寺院です。帝釈天は本来仏教の守護神である天部(インドの古来の神が仏教に取り入れられて護法神となったもの)ですが、この寺の通称として有名になりました。

寺院縁起によると、宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊が長年所在不明になっていたところ、安永8年(1779)本堂の修理の際、棟木の上から発見されました。これが庚申の日であったことから、60日に一度の庚申の日が縁日となり、江戸時代から庚申講の聖地として関東一円から信者が集まったそうです。

二天門は入母屋造瓦葺の楼門で、増長天および広目天の二天像を左右に安置しているのが名の由来です。

二天門を入った境内中央には、樹齢400年、四方に張り出した瑞龍の松を配した帝釈堂の拝殿と内殿があります。

内殿は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、彫刻ギャラリーとしてこの寺の人気スポット(有料)になっています。

法華経の代表的な説話10話を大正11年(1922)から昭和9年(1934)の長い年月をかけて、10人の名人彫刻師が横227×縦127×厚さ20センチの欅の一枚板に1面ずつ分担制作したもので、思わず見とれてしまいます。

日蓮宗寺院としての本来の本堂は何故かひっそりしています。本尊は日蓮宗の本尊、大曼荼羅です。

本堂裏の大客殿に面した池泉庭園の邃渓園(すいけいえん)は、向島の庭師永井楽山の設計で、外周を廻る回廊を通っていろんな角度から鑑賞できます。

大客殿の頂経の間にある「南天の床柱」は、滋賀県伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用したという直径30センチで、日本一といわれています。

さて、帝釈天は松竹映画「男はつらいよ」で一躍有名になりました。この大鐘楼も佐藤蛾次郎演ずる源ちゃんが時を知らせる鐘を鳴らす場面に出てきました。

京成柴又駅から約200mの参道は下町情緒いっぱいの古い町並みで、名物草団子の店などが並んでいますが、映画に出てくる場面は松竹撮影所のセットで撮影したそうです。

柴又駅には等身大の寅さんの銅像が撮影スポット、左足を触ると願いが叶うとかで、左足だけが異常に輝いていました。なお昨年、寅さんの視線の先に妹さくらの銅像も加わりました。