茨城町宮ケ崎の涸沼右岸に突き出した台地突端部、いわゆる「崎」の場所で涸沼の水運を管理する重要な拠点でした。今は畑地になっている城跡は、土砂採取などで一部消滅したところもありますが、残った堀や土塁などが800年前の歴史を語ってくれます。
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築城は鎌倉時代初期、常陸大掾一族の鹿島三郎成幹の孫、三郎家幹がこの地に土着し宮ヶ崎氏を名乗り、南北朝から室町初期には近在に領地を広げ、宗家の鹿島氏に並ぶ勢力を持ったといわれます。応永23年(1416)上杉禅秀の乱に連座して宮ケ崎氏は滅亡し、9代200年の支配を終えますが、重要な拠点のため当時の水戸城主だった江戸氏の時代(1550年頃)に拡張整備し、対立する府中の大掾氏に備えたといわれています。
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地元の高齢者クラブが建てた大きな案内板があります。史跡としてまだ行政の指定は受けていませんが、地元の歴史を後世に伝えるという意気込みが伝わってきます。
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案内板のあるⅣ郭からⅡ郭へは、2,3m高くなっています。航空写真②の場所
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一段上がると広いⅡ郭は薩摩芋などの畑で、奥に1郭が見えます。農作業をしていた方が親切に説明いただき、掘りたての芋までいただきました。
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Ⅱ郭とⅠ郭の間には、堀と土塁の跡が一部残っています。航空写真③
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1郭奥には城址の標柱と保存整備の記念碑が地元有志によって建てられています。航空写真④
右手奥の一段と高い場所(国土地理地図で25.1mの三角点)には涸沼のどこからも見える櫓が建っていて、権威を示していたのではという説もあります。
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Ⅱ郭の西側に見える山並み、左手の先には筑波山があります。
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汽水湖の涸沼はほぼ海抜0m、そこに突き出した比高約25mの城は、左右を浸食谷に守られた要害の地であることがわかります。当時は城の直下まで涸沼があったと思われます。⑤
ラサール条約登録の涸沼は野鳥の宝庫で、オオワシも飛来すると農作業をしていた方の話です。
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城主の居館は鹿島神社の南にある「古館、きゅうでん堀」と呼ばれる場所にあり、南北約140m、東西約100m、宮ケ崎氏の勢力がうかがえる県内最大級の館跡で、北東の2辺には堀、土塁が残っています。①
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城と館の間の鹿島神社は、大掾一族が信奉する鹿島神宮の分祀で、長い杉並木の参道はなんと400mもあります。
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薄暗い境内に白い野菊が群生していました。
歴史にはあまり登場しなかったとはいえ、近くにこんなに広い城跡が眠っていたとは驚きでした。
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