顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

通字(とおりじ)と偏諱(へんき)…歴代の水戸城主と常陸国

2021年08月14日 | 歴史散歩

通字(とおりじ)とは、先祖から代々にわたって付けられる漢字二字からなる名前の一字です。また、偏諱(へんき)とは、将軍や大名が自分の名前の通字でない方の一字を、臣下などに与えることです。
中世からの武家社会に多く見られたこの通字、偏諱を、歴代の水戸城主など常陸国に見てみました。
(写真は復元された水戸城二の丸大手門です)


大掾氏  家紋 「対い蝶(むかいちょう)」
平安時代、桓武平氏の平国香が常陸の大掾となって土着し、3代目の維幹からの「(もと)」の字が通字になりました。維幹の直系子孫は常陸平氏の本家となり、南東部に大きな勢力を持った多くの庶家もすべて「幹(もと)」を使用しました。

水戸近辺に土着した一族、石川家幹の次男が後の水戸城となる台地東端に館を構え、馬場資幹を名乗りました。大掾職も引き継いだ資幹の子孫は約240年この地を治めましたが、応永33年(1426)、大掾満幹の時に江戸通房が水戸城を攻め落としてしまいます。府中に本拠を移した大掾氏は、天正18年(1590)には佐竹義宣に攻められ、大掾清幹が府中城で自刃して約400年の歴史を閉じました。

(写真は現在の水戸城址、大掾氏の時代の居館は本丸の東端、東二の丸(下の丸)付近にあった小規模なものだったといわれます)

江戸氏    家紋 「左三つ巴」
大掾満幹を府中に追いやって水戸城に入った江戸氏は、藤原秀郷五代の孫公道の子通直を祖とする那珂市の一族と伝わり、通字は「(みち)」です。水戸城居留164年、天正18年(1590)佐竹義宣に攻められて水戸城は落城、江戸重通は姻戚関係の結城氏に身を寄せました。

(江戸氏の水戸進攻の拠点だった河和田城址です)

佐竹氏   家紋 「五本骨扇に月丸」
江戸氏の後に水戸城に入った佐竹氏は清和源氏の正統で、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の孫である源昌義が常陸国佐竹郷に土着し佐竹氏を名乗り勢力を伸ばしました。通字は源氏で用いられる「(よし)」です。その後常陸国守護として大田城を本拠に領地を拡げて約450年、小田原の戦後に秀吉より常陸国548,000石を安堵され水戸城を攻め取りますが、関ヶ原の戦いで去就を明らかにしなかったため家康により慶長7年(1602)秋田に移封となり、わずか12年で水戸城を去りました。

(佐竹昌義が最初に築城したとされる馬坂城址です)

水戸徳川家  家紋 「水戸葵紋」
関ヶ原の戦いの後、秋田に移封された佐竹氏に代わって水戸城に入ったのは、徳川家康64歳の時の11男、頼房です。「」も源氏の家系で用いられる通字ですが、2代目光圀は、3代将軍家光から「光」の偏諱を享け、その後当時将軍からの偏諱が代々の通例となりました。

(水戸城本丸にある薬医門です)

3代藩主徳川綱條(4代将軍家綱から偏諱)、4代藩主宗堯,5代藩主宗堯(8代将軍吉宗から偏諱)、6代藩主治保、7代藩主治紀(10代将軍家治より偏諱)、8代藩主斉脩、9代藩主斉昭(11代将軍家斉より偏諱)、10代藩主慶篤(12代将軍家慶より偏諱)、11代藩主昭武(9代藩主斉昭より偏諱)…と10代までは当時の将軍からの偏諱で、11代からは父祖の偏諱を享けています。

因みに将軍家は、徳川家康からの通字「家」が代々使われましたが、2代秀忠(秀吉より)、5代綱吉(家綱より)、8代吉宗(綱吉より)、15代慶喜(家慶より)はそれぞれ偏諱を享け「家」は使用していません。


小田氏  家紋 「洲浜(すはま)紋」 ※河口にできた三角洲などの島形の洲を図案化したもの
小田氏は、中世常陸国の筑波地方に勢力を持った豪族で、藤原北家八田流が祖とされます。常陸における南朝方の中心として活躍した小田治久が後醍醐天皇(諱は尊治)から偏諱を享けた(はる)や父祖の一字、(とも)を通字としました。北条、結城、上杉、佐竹などの周辺勢力との争いを重ね、戦国時代末期、居城小田城を何度も落とされ敗走したことから、「戦国最弱」ともいわれる小田氏治の代に終焉を迎えました。

(写真は小田城址です)


真壁氏  家紋 「橘」
桓武平氏大掾氏の一族で多気直幹の四男長幹が、承安2年(1172)真壁郷に築城し真壁氏を称しました。大掾一族なので通字は「(もと)」です。
鎌倉~室町時代には近在に一族を分立させて勢力を伸ばし、「夜叉真壁」として勇名を馳せた真壁久幹などの名も残っています。やがて戦国時代には佐竹氏に臣従しますが、佐竹氏の秋田移封に伴い430年間、19代の治世は終わりを迎えました。
真壁氏は当主房幹と弟の重幹が出羽国へと移りますが、減封を伴っため家臣の多くはこの地に残らざるを得ませんでした。

(写真は真壁城址です)

笠間氏 家紋 「藤巴」
藤原北家道兼流を祖とする宇都宮氏の庶流、笠間氏は、鎌倉時代の元久2年(1205)初代笠間時朝以来385年笠間を領しました。通字は「(とも)」、宇都宮氏の通字「」を使ったこともありました。戦国末期の小田原北条攻めに参陣せよとの本家宇都宮国綱の命に反したため、18代笠間幹綱は攻め滅ぼされてしまいました。

(笠間城本丸郭跡です)

このように中世の武家時代では通字による一族の結束や、偏諱を与えて主従関係の強化を図りましたが、常陸大掾一族の「幹」の通字を持つ一族同志の多くの争いや、陶隆房(後の陶晴賢(すえのはるたか))が偏諱を享けた主君大内義隆を攻め滅ぼすなど、親兄弟でさえ殺し合いをした世の中では、目論見通りにならなかった例も数多くあるようです。

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