顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

江戸氏…戦国時代の水戸城主 

2024年02月23日 | 歴史散歩

平安末期に平将門の伯父国香の子孫馬場小次郎資幹が城館を築いたのが始まりとされる水戸城は、その後三度の城主一族の交代がありました。水戸市立博物館ではいま、戦国時代にかけて水戸城を領した江戸氏についての特別展示が開催されています。(3月10日まで)


江戸氏の祖といわれる那珂氏は、平安時代末期(1090年頃)藤原秀郷の子孫公通が太田太夫として久慈郡太田郷に着任し、その孫通資が那珂川北部の那珂郡を領して、那珂氏を名乗ったというのが通説ですが、詳細は不明のようです。

(那珂氏の居城があった那珂城は、常陸大宮市那賀の緒川右岸の河岸段丘上にありました)

鎌倉時代を経て約240年間この地に勢力を持っていた那賀氏は、南北朝の争乱では南朝方に立ち、北朝方に与した佐竹家と争うことになります。一時は優勢になったこともありましたが、この地の南朝の拠点で楠木正成の甥、楠正家が籠った瓜連城が落とされ、金砂山城に佐竹氏を攻めていた那賀通辰は背後を突かれ、一族34人(43人とも)が自刃したとも切られたともいわれます。これによって那珂氏は滅亡し領土も佐竹氏のものになりました。
(常陸太田市にある那珂一族の墓所です)

一族のうち逃れて生き残った那珂通辰の子通泰は、やがて再起して北朝方に服属し戦功を挙げ、足利尊氏から常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を名乗るようになったといわれます。この通高は佐竹氏9代義篤の娘を娶り、嘉慶2年(1388)には南朝方の難台城攻めで戦死し、その褒賞として子の通景は鎌倉公方氏満から河和田、鯉淵、赤尾関などを与えられます。

(河和田城域は東西500m、南北600mと規模が大きく、市街地の中に今でも土塁や堀が残っています)

河和田へ本拠を移した江戸氏はやがて応永33年(1426)大掾氏の水戸城も攻め取り、水戸城主として約160年間水戸を支配下に置くようになりました。


今回の特別展は、ほぼ戦国時代にあたるこの期間に水戸城を治めた江戸氏の拠点と地域支配、信仰と文化、佐竹氏との関係と滅亡に関する資料などが展示されました。


江戸氏時代の水戸城周辺図を見ると、青柳から海老窪の渡し(現水府橋付近)で那珂川を渡り水戸城を抜けて見川、小吹、小幡へつながる主要街道(黄線)が城内を通っていて、水陸交通の重要な拠点に江戸氏の勢力基盤を置いたことがわかります。


支配地は一族や重臣の春秋氏などの支城で水戸城を囲み万全の構えを構築していました、


大掾氏時代は「内城」という本丸主体だったのが、江戸氏は重臣や町屋などの「宿城」としての二の丸整備にも力を注ぎ、発掘調査では幾重もの堀跡が発見され、複数回の整備を物語っています。


発見された1346枚の埋納銭は江戸氏の二の丸整備の際に地鎮のために埋められたと思われます。

さて、15世紀中期以降、全国に広まった戦乱の中で所領を拡大し自力で支配する地域権力が各地に誕生するいわゆる戦国時代を迎えますが、江戸氏の権力基盤は佐竹氏との抗争の中で確立していきました。

(佐竹義舜と交わした起請文です)
15世紀に起こった佐竹氏の内乱「山入の乱」では間隙を縫って那珂川流域の佐竹氏や近臣たちの所領を力づくで占拠しますが、16世紀初頭には乱を収めた佐竹義舜への従属を決断し起請文を交わしています。その後も離反、従属を繰り返し、したたかな外交政策をとりますが16世紀半ばには和議を締結し軍事的、政治的にも佐竹氏に従属することになりました。


天正16年(1588)には江戸氏の内乱、神生の乱が起こり、水戸城内の戦闘で命を落とした江戸氏家臣や近在居住の武士の名前と死因などが記されている和光院過去帳が展示されていました。

しかし、府中合戦やこの江戸氏内紛に佐竹氏の力を借りたため、次第に江戸氏に対する佐竹氏の影響力が強まっていきます。
そして天正18年(1590)小田原城を攻め落とした秀吉に常陸国の所領を安堵された佐竹氏が、水戸城など江戸氏の諸城を瞬時に攻め落として江戸氏は滅亡、常陸54万石の領主になった佐竹氏も水戸城主わずか12年で家康により出羽国に移封され、御三家の水戸藩が誕生するという歴史の波が押し寄せました。


江戸氏、佐竹氏の整備で出来上がった水戸城は、やがて家康公11男の頼房公が水戸藩を立藩して入封し、さらに城下町を含めた大修築と整備を行い、御三家水戸城の形が出来上がりました。

水戸城落城後、江戸重通は妻の父である結城晴朝のもとに身を寄せます。関ヶ原合戦後に結城氏当主の秀康(家康の次男で晴朝の養子)が越前75万石を受領すると、重通の子宣通も随従し千石の知行で客分として厚遇され、「水戸氏」と姓を変え越前松平家に永く仕えました。


江戸氏の祈願寺だった和光院に残る江戸氏歴代の位牌です。


水戸城内にあった和光院は、その後水戸市田島町の現在の地に移されました。ここに残る和光院過去帳は「群書類従」に記載されている著名な古文書で、天正13年(1586)から寛永年間に書き継がれた貴重な資料です。


江戸氏家臣の多くは水戸や周辺に残って水戸藩士になるものもいたようですが、今でもその姓を見かけると、つい末裔の方かと想像を膨らましてしまいます。

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