スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

第一次世界大戦とスウェーデン

2014-08-18 02:17:07 | スウェーデン・その他の政治
1914年夏に始まった第一次世界大戦からちょうど100年だ。7月終わりにセルビアに対して宣戦布告したオーストリアを支援する形で、ドイツが8月初めにロシアフランスに宣戦布告。露仏に挟まれたドイツは二正面作戦を避けるため、主力を中立国のベルギーに侵攻させ、開戦から6週間でフランスのパリを陥落させ、その勢いで打って返してロシアと戦う、というシュリーフェン計画を実行したものの、イギリスの参戦もあり、パリまであと僅かのところで頓挫。ドイツ東部でも動員に数週間かかると見ていたロシア軍の動きが予想以上に早く、結局、2つの戦線で同時に戦うことを余儀なくされる。一方、フランスもモラルの高い仏軍が負けるはずはないと確信し、普仏戦争で失ったアルザス・ロレーヌ地方を奪還すべく、開戦直後は攻勢に出た。どちらの両陣営でも大勢の若者が戦争にロマンと生きがいを見出し、高揚感に包まれたまま軍隊に志願していく。

「クリスマスまでには帰れる」と、両陣営とも短期決戦を見込んでいたが、戦線が膠着し、塹壕戦に突入。1918年の停戦まで、実に4年も続いた長い総力戦となった。

今年が開戦から100年であるため、公共放送であるスウェーデン・テレビ(SVT)は他のヨーロッパのテレビ局と共同で大きなドキュメンタリー番組を作成し、夏の間に8回にわたって放送した。当時の映像と、手の凝った再現ドラマを交えながら、実際に戦争に加わった各国の将校や兵士、市民などの手紙や日記をもとに、4年にわたって続いた総力戦の全体像を描いていて、非常に興味深かった。登場する実在人物の中には、息子を戦争に送り出して間もなく戦死の知らせを受け取ったドイツ人夫婦、独軍占領下のフランス少年、赤十字の看護婦、コサック兵に加わって従軍したロシア少女、年をごまかしてイギリス軍に入隊したイギリス人の中年ジャーナリストなどがおり、彼らの再現ドラマが同時並行で進んでいく。

スウェーデンは非参戦国であるためあまり登場しないが、それでも、パリのレストランで働いているうちに戦争が始まったためフランス軍に志願してドイツ兵と戦ったスウェーデン青年(途中で戦死)や、ドイツ軍に自分から志願して加わったスウェーデン将校、赤十字看護婦としてロシアで捕虜を看護したスウェーデン女性、女性参政権を求める活動家などが登場する。(日本からは、赤十字看護婦などの日記が少しだけ登場する)


【 スウェーデン 】

当時のスウェーデンがどういう状況だったのか、少し調べてみた。開戦当時のスウェーデンの人口は570万人。その4分の3は農村で暮らし、ストックホルムにはわずか38.6万人しかいなかった。産業革命はイギリスから大きく遅れて1850年代に徐々に始まったが、そんな産業化も1890年代から飛躍的に進んでいった。農業生産でも近代化が進んだ結果、1900年から1914年の間に生産高が倍増。1850年代から19世紀末にかけては貧困のために人口の4分の1がアメリカ大陸に移民するような状況だったが、国民の生活水準が上昇した結果、貧困はもはや過去のものとなり、アメリカへの移民も大きく減少していた。

スウェーデンは、東はロシア、南はドイツ、東はイギリスと、3つの大きな帝国に囲まれた状況の中、第一次世界大戦の勃発に際しては隣国ノルウェーとデンマークとともに中立を宣言した。とはいえ、ベルギーのように中立国であっても侵略される恐れはある。そのため、徴兵中の若者や動員令で集められた35-42歳の予備役が、沿岸部や要塞に配置された。この当時のスウェーデン軍の兵装の特徴はフェルト製の三辺帽だ。





中立宣言と(紆余曲折を経た)外交の結果、スウェーデンは第一次世界大戦に巻き込まれることはなかったが、完全な傍観者でもなかった。戦争開始に伴い、ドイツとロシアの国境地帯は戦場と化したために交通が断絶。開戦時にそれぞれの敵国に滞在していたロシア人やドイツ人・オーストリア人・ハンガリー人がスウェーデン経由で本国に帰国している。また、物流もスウェーデンを介して、東西を行き来することとなった。特に、同盟国であったフランス・イギリスとロシアを東西に結ぶルートとして、スウェーデンは大変重要な位置にあった。


スウェーデンの東の隣国はフィンランドであるが、当時はロシア帝国に属していた。スウェーデンとフィンランド(ロシア)の間にはバルト海が横たわるが、バルト海も戦場となっていたため、物資の輸送に海路は避けたい。そのため、スウェーデン北部の陸路が使われることとなった。開戦当時、フィンランドに面した国境のうち、スウェーデンの幹線鉄道が伸びていたのはKarungi(カルンギ)という小さな村のみだった。Karungiの南にはHaparanda(ハパランダ)という町があったが鉄道は伸びていなかった。そもそも、スウェーデン政府はロシア国境まで鉄道を伸ばすことには戦略上の理由から消極的だった。ロシアと戦争になった場合にロシア軍に鉄道を利用され、スウェーデン侵攻を容易にしてしまうことを恐れていたためである。しかし、国境貿易に鉄道はあったほうが良い。そんなジレンマの中での一つの妥協として、小さなKarungiまでは鉄道を敷いていたのである。






このKarungiがロシアとドイツおよび西ヨーロッパを結ぶ重要な拠点となったのである。スウェーデン南部の港に着いた物資や郵便物は、鉄道を使ってKarungiまで運ばれた。Karungiでは2000頭の馬が待ち構え、冬の間は凍ったトルネ川の上をソリでフィンランド側の村Karunki(カルンキ)まで届け、夏になると船に取って代わられた。同様に、ロシアからの物資・郵便物は鉄道で国境の村Karunkiまで届けられ、スウェーデン側のKarungiに運ばれ、鉄道でスウェーデン南部の港まで輸送された。




そのため、もともと寒村だったKarungiには開戦からまもなく数多くの掘っ立て小屋が建てられ、税関や郵便局のほか、銀行、ホテルや喫茶店が設けられた。ヨーロッパのあちこちから商人のほか、外交官やスパイ、密輸集団、そして、一攫千金を夢見る人々が集まり、その賑わいはまるで国際都市、いやゴールデン・ラッシュ時のクロンダイクのようだったという。Karungi郵便局が一日に取り扱う郵便物は13トンに達し、取扱量で見るとヨーロッパで最大となった。戦争難民も毎日500人のペースでこの国境を通過したらしい。

一夜にして始まったそんな賑わいも、また一夜にして終わりを告げる。1915年7月に幹線鉄道が南のHaparandaの町まで延伸すると、国境取引はHaparandaに舞台を移して続けられることになる。物資の行き来があまりに多いため、そのうち、スウェーデンとフィンランド(ロシア)の間に川をまたぐケーブルが張られ、ケーブルづたいに物資が運ばれるようになっていく。





【 スウェーデンを介した捕虜交換 】

戦争が長引くにつれ、参戦各国は大量の捕虜を抱えていく。物資不足で自軍の食糧にすらこと欠く中、捕虜は粗末に扱われ、非常に悲惨な状況だった。1915年、スウェーデン赤十字はストックホルムで国際会議を開催。ロシア、ドイツ、オーストリア、ハンガリーから政府代表団が招かれ、捕虜待遇を改善すべきであることが合意される。その後、スウェーデン政府は、ロシア軍によってシベリアに送致されたドイツ兵捕虜のもとに看護婦と救援物資を届ける活動を始めていく。

また、1915年8月にはスウェーデン外務省の仲介によって、ドイツ・オーストリア軍とロシア軍の間で捕虜交換を行うことが決定される。この時の経路も、やはりスウェーデン北部の陸路(Haparanda)であった。国境でロシア軍から引き渡された捕虜は、用意されたベッド付きの特別列車に乗せられ、スウェーデンを縦断し、南部の港町Trelleborg(トレレボリ)から赤十字船でドイツに搬送された。ドイツ軍に捕らえられたロシア兵捕虜はその逆ルートでスウェーデン北部へ運ばれ、ロシアへ帰国していった。こうして、スウェーデンを介して交換された捕虜の数は、ドイツ兵3500人、オーストリア兵・ハンガリー兵22000人、ロシア兵37000人、トルコ兵400人と、合計63000人になる。






ちなみに、レーニンは1917年4月に滞在先のスイスからスウェーデンに入国。ストックホルムで共産主義活動家を訪ねたあと、鉄道でスウェーデン北部のHaparandaに行き、国境を超えてロシアに帰国し、ロシア革命に加わっている。