「小説の周辺(藤沢修平)」1990年1月、文春文庫発行のエッセイに森澄雄の俳句を取り上げていたものがあった。
* チェホフを読むやしぐるる河明り
* 曼沙珠華みな山に消え夜の雨
* 人間の下転や鳥は雲に入る
等を藤沢氏が印象に強く残る句として引用されていたのだが、小生は何故か藤沢氏がそれほど高く評価していない次の句が何時までも頭にこびりついているのである。
* 除夜の妻白鳥の湯浴みをり
愛妻家の森澄雄氏ならではの句である。除夜・妻・白鳥・湯浴みと一見関連がなさそうな言葉を上手つむいで句にまとめている、この一見奇抜とも言えるこの句が始終頭の中に浮かんでいるのである。
* 人間の下転や鳥は雲に入る
の句はいかにも藤沢氏の作品の登場人物の人間性を現しているように思えるのである。
著者自身も書いているように「私が小説を書き始めた動機は暗いものだった・・・ハッピーエンドの小説などは書きたくなかった。その頃の私の小説には毒があった」。
昭和53年以降すなわち「用心棒日月潭」以降といえばよいのであろうが、作風が激変した。軽快で明るい話の運びに変わり=読んで面白い小説に=変わり、ほほえましいなごんだ後味が残るものになった。
先日、第二弾として藤沢周平全集2・4・6巻を借りてきた。作品はいわゆる初期の頃のもので市井物語というジャンルに属する第二巻を読み始めた、特徴的には,明るい読後感ではなくて、やりきれないような暗い庶民の生活のなかの出来事を描いている。よくもこんなに次から次へと話を思いつくものだと感心していると共に、作者の目の付け所が多岐にわたっているのに感心している。