秀吉や利休自身の書状はもとより当時の関係者の日記や書状を多数の引用している珍しい形式の小説、津本陽著「夢のまた夢」文春文庫(1996)である。
古文の苦手な小生にはかなり手こずって読んだ。その小説より印象に残ったものを要約したものである。
高貴な方々が通り抜ける大徳寺三門階上に利休木像を安置したことが問題になり、窮地たたされた利休が茶事の弟子としても親しかった細川忠興に書き送った書状に
「中々に住まずば 又住みてわたらん 浮世のことは とてもかくても」
と詠んでいる狂歌がある。
”浮世はなかなか住みにくいものだが、ともかくも住んでいこう”という苦しい心境を吐露している。この気持ちは、立場や環境こそ違え、我々も日常的に感じていることではないだろうか。
地位・名誉・富等があろうがなかろうが、生きていくうえにはそれなりの苦労があり、重荷を背負って遠き道を行くが如しとは実にうまいことを言ったものである。
茶道を政治・外交の場に持ち込んだのは信長である。秀吉もこれを重宝多用し、利休は茶道のみならず政治の舞台でも秀吉側近として天下の利休であったが、秀吉の逆鱗に触れることがあり、ついには切腹して果てたのであった。
利休の木像は、驚くべきことに京の聚楽の橋の下で磔の刑された。その後利休は堺に追放され、ついには切腹となった。秀吉は、磔の刑にした利休の木像に利休の首を踏ませるような晒しものにしたという。秀吉一流の演出だったが、よほど憎かったのだろうと思う。独裁者の怒りに任せた残酷な処置に驚くばかりであった。
利休が堺へ追放されるときに呼んだ狂歌に
「利休めは とかく果報のものぞかし 菅承相に なると思えば」
利休が菅原道真のように、死んでのち茶道の守護神として祭られるのを期待し、彼も道真と同様に冤罪であると主張したものと推測されている。
プライドの高い人にありがちな、長いものに巻かれるのが不得手でついに身を滅ぼした例なのであろう。大半の人々は、長いものに巻かれどうにか平穏無事に過ごしているのである。いつの時代でも不要な高い誇りを捨て、長いものにうまく巻かれる方策を常に念頭に置かねばならないのである。