本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

震源 真保裕一 講談社文庫

2005-09-30 | 小説

 またまた、社内の廻し読みの真保裕一作品です。今度は気象庁の職員の話です。

  鹿児島県薩摩硫黄島付近の集中観測のために、鹿児島へ行った気象庁の研究員江坂は、現地でその観測が延期になると聞いて、元同僚で、2ヶ月前に左遷され、今は鹿児島勤務の森本を訪ねる。しかし森本は既に退職し、連絡がとれなくなっていた。森本の左遷に少し責任を感じていた江坂は、何があったのか気になって探し始めるのだが、実はそれは海底火山の活動から始まり、それを利用しようとしている国の壮大な陰謀が裏にあった・・・・。

  著者の作品を3冊続けざまに読んで見て、少しこの人の傾向が分かってきました。まず、

   「社会的ななことをネタに書きたい」

   「いろんな職業の人をネタにしたい」

   「科学的なことも入れたい」

 硬派なエンターテイメントという分野があるとすればそれにあたるんじゃないかしら。かなり取材とか調査をしないと書けない内容ですね。この本は1993年刊行です。今では、竹島や尖閣諸島の領有権を巡る問題は一般の人にもかなり認知されていますが、当時はまだそれほどでもなかったのではと思います。(単に私がそういうことに無頓着に生きていただけかもしれませんが)そいういうところに目をつけたのも評価できると思います。  

 あらすじはかなりイケルし、女性問題でつまずいたまじめなベテラン職員とその娘の関係などがんばって書いてる。でも私には何か物足りないのです。これまで読んだこの人の作品はみんな同じ印象です。ありえない度でいえば、もっとありえない話は一杯あるのだけれど、この人のを読むと、ちょっとうまく行きすぎぃ・・・と思ってしまうのは何故でしょうか。

 まだまだ会社で廻ってきそうなので次は期待します。


秘太刀 馬の骨  藤沢周平  文春文庫

2005-09-24 | 小説

 NHKの金曜時代劇でただいま放映中(2005/08/26から)でした。昨日、初めてみましたが来週で最終回でした。まあ、最初から知っていても見られなかったでしょうが。

 6年前の家老暗殺事件の折に、死体の傷口から使われたのは、”馬の骨”と呼ばれる秘伝の剣法だった。現在の家老である小出帯刀から、それが誰の手によるものかを探し出せと下命された、2人の侍。一人は家老の甥で江戸からこのために呼び寄せられた銀次郎。そして、若い銀次郎のお目付け役として選ばれたのが半十郎。銀次郎自身かなりの腕利きで、何人かの候補者と順番に試合をして、その件の使い手を探し出そうとします。最後の最後にはこの使い手がわかるのですが・・・。

  と、藤沢周平にはめずらしいミステリー仕立てです。とはいえ、私自身、これがミステリーだと気がついたのは、読み終えて、”意外な犯人”という出久根達郎氏の解説を読んだときなのでした。えーこれって犯人探しだったのかぁと感心するあたり、自分でも抜けてると思いました。  藤沢周平の作品を読み始めたときに、そういう趣向だとは夢にも思っていないのでうっかりしてたのですね。犯人が誰だろうと言うことはちっとも気にしてなくて、はんなりといい気持ちにさせてくれることだけを期待してたのです。それはちょっと裏切られたかな。でも犯人探しというミステリーの楽しみを期待してもやっぱり物足りないと思います。

  ドラマの方は、きのうチラッとみただけで良くわかりませんが、その辺を少し考えたのか、銀次郎と半十郎の関係や、半十郎と妻の関係なども少し変えているようでした。全体としてドラマが”蝉しぐれ”に比べてあまり話題にならなかったのは、脚本・演出のせいではなく、やはり原作の違いではないかなと思います。 きっと、担当の編集者から”藤沢先生、今度はひとつ趣向をかえてミステリーにしてみませんか”と言われて仕方なくやってみたんじゃないかなぁ・・・・。おかげで、こんな中途半端でなくどっぷりと癒されたくなって、久々に藤沢作品を読んで見たくなりました。

 


我が妻との闘争 呉エイジ 

2005-09-21 | エッセイ

 ずーっと以前に同僚がおもしろいですよって貸してくれた本です。なんとなく思い出して紹介したくなりました。

 作者の呉エイジさんは、確か兵庫県の姫路あたりの県住にすむサラリーマン。Macの魅力に取り付かれて、家ではそのMacでホームページ作成に夢中・・・・と言いたいのですが、旦那の趣味に全く理解のない嫁のお陰で、思うようにはいきません。そんな毎日の日記のような形で書かれています。毎回最後に、独身者にむかって教訓を一言書いているのですが、これがまたパンチが聞いています。

 ちなみに、この本は買わなくても、ホームページで読めます。呉さんのページの中の1コーナーが我妻との闘争になっています。このコーナーに書かれた教訓は、

妻とは男の情熱を無効にする存在である

というもの。これだけ読んでも何がぁって感じかもしれませんが、話と一緒になるとプッと噴出さずにおあられないのです。

 

 また”ワガツマ”とは違うコーナーですが、雑文の中で、面接にやってきたかなりヤバイ人の話があり、これまた抱腹絶倒です。呉さんの会社の面接に約束の1時間半まえに履歴書も持たずにやってきたぶっ飛び新人。これはホント何度読んでもおかしいです。

 

 


日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ちくま新書

2005-09-19 | 評論

 以前、実家で両親と中東で繰り広げられる戦争やテロのニュースを見ながら、”あー、私は仏教でよかった”とつぶやいたところ、父に、”お前は仏教徒なのか?”と突っ込まれて、言葉に詰まってしまった経験があります。ウチは日蓮宗なので、それで自分が仏教徒と思っていたわけではなく、あえていえば、日本人として人々が信仰してきた仏像がとても好きなこと、 また外国の人と話す機会も多かったので、自分が、無宗教といったときの外国の人たちの反応は知っていて、とりあえずそういう場合の答えを自分なりに決めておこうと思った時に、神道より仏教だなと思っていたというのが自分が仏教徒とつぶやいてしまった理由だと思います。

 著者は、日本人が自分のことを無宗教だというその中身は、特定の宗派を信じていないと言う意味であり、日本の歴史や伝統とともにある”自然宗教”というものの信者であるといえば、否定しない人が多いであろうと考えておられ、またこの独特の宗教感のはぐくまれた歴史を丁寧に辿っておられます。

 私は、神道は、天皇家の歴史とともに何千年もあるものと思っていたのですが、概ね今の神道のイメージは明治以降に作られたものだったのですね。それ以前では、日本各地の村々の小さなお社に祭られている神様たちは、もっともっと人々の生活と結びついた身近なものだったのだと書かれており、認識を新たにしました。

 また、特定の宗教に対する大方の人々の忌避する気持ちというのが、実は「人生という不条理に正面から向き合い、これまで平穏無事にすごしてきた日常が危機に晒されるかもしれない事への本能的な恐怖」であったのだという所も、その章を読んだ時は、感覚的に同意できませんでしたが、、読み進むうちに納得してしまっていました。

 結局の所、「日本人は、人生の救済を必要とする病める心の持ち主が少なく、むしろ世界ははじめから調和した美しい物と捉えており、神は人間を罰する審判者ではなく、慈悲の持ち主と考え、自分の人生についても特に救済の必要を感じない”健全な心”の持ち主が多い」ところが、”無宗教”を標榜する人が多い理由であるという結論が書かれているのですが、私はこれについては少し?です。日本人は自然宗教を信じているから、”回心”の必要を感じない”健全な心”を持っているのであり、カソリックのように”人間は生まれながらにして罪深い”というように教えられると、それは”回心”を必要とする人間になっていくのではないかなぁと思うのですが・・・・。

 


7年目のセキララ結婚生活 けらえいこ メディアファクトリー

2005-09-11 | エッセイ
 ウチはもう何年も読売新聞なんですが、その理由が2つあります。人生相談と、日曜版の漫画、”あたしんち”(けらさんの作品)です。この本は随分前に友人に貸してもらった事があったのですが、古本屋で400円で見つけてつい買ってしまいました。またちょっと前に新婚の頃の話を書いた”セキララ結婚生活”が文庫で出ていたので買ったのですが、7年目となると、よりパワーアップしていて面白かった。

 最近では小栗佐多里さんの”ダーリンは外国人”が、家庭の中の異文化ってことで生まれてくる日常のコメディで笑わせて頂きましたが、このセキララ結婚生活を読むと、たとえ相手は日本人でも、男と女が生活すればそこは異文化が触れ合う場所なのねと思いました。 ちなみに、ウチもダーリンは外国人ですが、本を読んで”あるある”って思ったのは、ダーリンは外国人よりセキララ結婚生活のほうでした。
 
 やっぱり、女の方が家の中をコントロールしたいっていう気持ちが強いのかなぁ。だから相手のやることがちょっと信じられないわって腹をたてたりしている。でも実は男もそうなんだけど、コントロールしようっていう意識が低いから、まあ見逃してくれてるのかなと思ったりしました。とにかくこの夫婦がおかしい過ぎるのではなく、日常生活ってホントコメディなのよね。

 

バカのための読書術 小谷野敦 ちくま新書

2005-09-11 | 評論

 

 楽しめました。著者が想定しているバカとは、”哲学とか数学とか、抽象的なことが苦手な人たち”です。この本を立ち読みした時に、「それって私のことじゃない!」と思って買いました。が私はまだまだこの著者の想定しているバカのレベルにも達していないようで、まだまだ手の出そうもない本もかなり紹介されてはいました。

 とはいえ、この著者の圧倒的な読書量は、尊敬に値するし、自分自身の価値観を明確にもって、これまで”名作”、”まずは読むべき本”とされていたものを、バシバシ切り捨てるその切れ味は読んでいて心地よかったです。もちろん、かなり辛口で、ひねくれ者にも見えますから友達にはなりたくないタイプですね。

 例えば、”書評を信用しないこと”とあります。もちろん私自身も新聞や雑誌の書評は見ますが、さほど信用してはいません。とはいえ何故信用してはいけないかという説明が面白い。

「今谷(書評をした人)は、以前から井上(書評をされた本の作者)の書くものを面白いと思っていて、どこかで、どこかで褒めたいと思っていた。書評委員をやっていたときにたまたま出版されたのが『狂気と王権』だったので、この本の出来はともかく、井上を褒めたい一心で絶賛書評を書いてしまった」

 言われて見れば、そういうこともあるのかと納得してしまいます。またやはり新刊本の書評はあまり悪いことをかくと、売り上げに関わるから、やはり同じ物書きとして、そいういうことはしたくないというのも理解できますね。 また、ブックガイドなど新刊に限らず自由に推薦できるものは、まだましだけれど、推薦者が実は一般の読者よりも、同業者や専門家の目を意識してしまって、「変に奇を衒ってしまう」ということがあるのだそうです。これも、納得。

 最後にざっと推薦書を年齢、男女別に書きあげられていますが、この部分はホント、順番に読んでみようかなと思われるほど、そこそこ有名な人たちのさほど難解とは思われない作品が、並んでいて嬉しくなってしまいます。この手の本なら結構、古本屋などで安く入手できたり、図書館でも簡単に見つけられたりしそうで、お財布にも嬉しいです。

 なんか今読んでいる本とは違うジャンルのものを読んで見たいけど、何を読めばいいのかなと思うときには、このの本の一番後ろの部分を本屋で立ち読みしてみるといいんじゃないでしょうか。

 


やっぱり・・・ 清水先生のおっしゃる通り

2005-09-06 | Weblog

 先日”行儀よくしろ”という本の感想を書いた時に、著者が、「教育が悪い=学校が悪い」という世間の風潮にかなり怒っておられるのに、世間でそんな風に言う人が多いのかしら?と疑問を感じたとかいたのですが、やはりそういうもんなんだなという記事が5日の読売新聞に出ていました。

 記事は、ある自治体は不登校ゼロをめざし、数値目標を示したため、先生たちは、とにかく不登校の生徒の心のケアをしようというより、なんでもいいから学校に来させて数字を達成することが目標のようになり、単に子供に無理強いをしていると親が反発している。 というような内容です。

 そのなかである不登校の中一の娘を持つ母親の話がのっています。

娘が学校に行けなくなったのは中1の時。どう接したらいいかわからず、混乱しているさなかに、教師が家庭訪問し、娘を学校に連れて行くようになった。母親自身も仕事を持っており、気にかけつつも娘を残して出勤していた。訪れた教師とどんなやりとりを交わしているのか、学校ではどうやってすごしているのか不安だったが当時は教師に任せていた。がそんな時期が3か月ほど続くと娘はまったく学校に行かなくなった。先生も姿をみせなくなった。「もう少しじっくりと子供と向き合ってほしかった」と母親は振り返る。(読売 9月5日 教育欄)

 この場合、母親はまるで被害者であり、責められるのは教師のみですが、やはりこの場合は、母親は先生を責める前に、自分が娘としっかり向き合わずに教師に任せきりにして仕事に逃げていたことを責めるべきだと思うんですけどねぇ。

 清水義範氏が本のなかで、

先生には期待するな

ドラマの中にでてくるような、情熱があって、子供に対して親身になってくれ、しかも教え方のうまい先生には、小・中・高等学校、それから大学まで含めても、出会えないのが普通だと考えた方がよい。

 と、書かれていたのを読んだときは、そんな当たり前のことを何を目くじら立てて仰っているのかと思いましたが、やはり世間ではこんな風に考える親もあり、マスコミも基本的にはそういうスタンスなんですねぇ。おみそれしました。。。。

 


行儀よくしろ。 清水義則  ちくま新書

2005-09-03 | 評論

 さすが清水義範氏の作品で、「教育論」といっても、とても読みやすいです。最終章に、「とりとめのない雑談を繰り広げてきたような気もするが」とありますが、まさに話し上手のおじ様の話を、ついつい聞き入ってしまったのような読後感です。

 「教育論というと、世間では真っ先に学校が悪いというが、学校で教えるのは知識であり教育は家庭でそして社会がするものだ。もし今の若者たちが本当に酷くなっているとしたら、それは日本が長く培ってきた文化が壊れようとしていることの反映でしかない。」というような主旨でした。  まさに、”俘虜記”で引用した大岡昇平氏の言葉の通り、過去の真実を否定することは現在の自分を愚かにするということなのですね。即ち、敗戦によって日本人が過去を否定してしまったため、新しい価値を見出すこともできず、結局は経済的な勝ち負けでしか、価値を評価できない社会になってしまった。そんな社会がどんな風に次世代を教育できるのだろうか? ということなんですね。  

 著者は、「教育が悪い=学校が悪い」という風潮にかなり怒っておられるように見えます。私は、子供もいなくて、学校にも縁のない生活をしているため、そういう議論にふれる事がなく良くわからないのですが、一般的な考え方はそうなのでしょうか? 街でお行儀の悪い若者見ても、学校はおかしいぞなんて思わないですけどね。親が悪いという人が大半のように思い込んでいましたけど・・・。

  まあ日本人は、戦争に負けたのでかなり早い段階で自分たちの文化を捨ててしまったのですが、遅かれ早かれ我々の文化は、”グローバライゼーション”の看板に押しつぶされていたかもしれませんね。

  ただ若者たちは、自分たちの親の世代が失ったものに対して、なにか気がついているのではないでしょうか。静かな”沖縄ブーム”は、自分たちが失ってしまった固有の文化を守り続けている身近な人たちに対する憧れのように私には見えます。

 アメリカのハリケーンによる大惨事のニュースをみても、日本人の若者が震災などの災害時に示した反応との違いは際立っています。(もちろん、ニュースにはならないが、人のために一生懸命働いている若者はあちらにもいるに違いないでしょうが)。

  今の若者だからこそ、60年前の敗戦のトラウマから抜け出して、新しい日本人としての価値観を作れるのではないかと思います。頑張って!若者!!!