本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

天使のナイフ  薬丸岳

2006-12-17 | 小説

 おもしろかったです。  

 

 少年犯罪の被害者の立場を、ミステリー、最近ではエンターテーメントとも呼ばれるジャンルの物語を作るというのは、かなり難しいと思いますが、実績がまだあまりない作者だから挑戦できたのかもしれないなぁと思います。

 

 4年前に妻を少年に殺害された桧山は、何もかも割り切れないまま娘との生活を取り戻し、なんとか穏やかとも言える日常をとりもどしつつあった。そんな彼の経営するカフェの近くで、妻を殺した犯人の一人である少年が殺害さる。容疑を晴らすためというよりも、再び彼の中で湧き上がった真実を知りたい気持ちにつき動かされて、事件を調べ始める。そこで、本当に思いもかけなかった事実が、彼の前に浮かび上がってくる・・・。

 

 というようなあらすじです。設定などに少し都合が良すぎるような部分もあることは否めませんが、それでも乃南アサ氏の評を借りれば、”多少のアラならエネルギーの方が勝るのだ”と言うことだと思います。

 

 少年犯罪については、立場によって様々な意見があり、それらは永遠に白黒をつけられるようなことではないですよね。昨今のマスコミは、比較的被害者(遺族)寄りの立場を取っているように見えます。それは多くの人にとっても、感情移入しやすい側でもあるので、世論もそちらによっているのではないでしょうか。そんな中で、この物語を読むことで、加害者への感情移入も体験できました。

 

 そんな風にどちらともいえない問題を扱いながら、物語としては事件を解決してオチをつけなければいけないのですが、本当に意外な結末でしたが、あー、そうか・・・・と納得しました。

 

 東野圭吾さんの、”手紙”という作品もやはり殺人事件と贖罪というテーマを扱っていましたが、手紙では、圭吾さんのそれに対する答えが比較的はっきりしていました。確かにそれに比べると、この作品の作者は、贖罪についてまだ彼の答えをもっていないですね。だけれど、まだ分からないながらも、果敢に挑戦し、感動させてくれるよい作品だと思います。今後どんな作品を作られるのかとても楽しみです。

 


E=mc2 世界一有名な方程式の「伝記」

2006-12-13 | 小説

 科学音痴の私に読めるかなとちょっと心配でしたが、とても面白く、ワクワクしながら読むことが出来ました。

 

 先日読んだ、”99.9%は仮説”に紹介されていた本です。小学校から理科にはあまり興味がありませんでした。高校になると、理科系の科目では化学、物理には殆どついていけず、なんとか生物で点を稼いでいたような私で、もちろん学校を出てからは、そういう分野には全く興味ももてず生きて来ました。

 

 とりあえずアインシュタインは、有名な人だとは知ってました。とはいえ、彼の発見したことが、原爆に繋がったということ位で、何がどうすごい人なのかは全然わかっていませんでした。実はE=mc2という方程式も知りませんでした。

 

 この本が、そんな私でも楽しく読めた一つの理由は、これは伝記なのですね。ただアインシュタインという人物の伝記ではなくて、E=mc2という方程式の伝記です。この方程式はもちろん、アインシュタインが生み出したのですが、それはもちろん、それ以前の数多くの研究者達の成果の上に成り立ち、また、彼の手を離れた後、いろいろな人たちが関わって、応用されます。そういう歴史が書かれている本なのでした。

 

 本当に沢山の研究者が登場します。こうやって歴史に名前を残した人たちですから、天才達なのですが、彼らを取り巻く世界はごく普通の人間社会です。足の引っ張り合いも沢山ある。天才とは99%の努力であるというような言葉がありますが、確かにそうかもしれない。そして、最初の1%はもしかしたら、”宝物を見つける目”ではないでしょうか。それは、千里眼のような超能力でなく、”人の意見に惑わされない目”。そして、99%の努力が出来る情熱なのかなぁ・・・・。

 

 アインシュタインの話も面白かったですが、その後原爆開発を巡る物語も感動しました。あくまでも技術的な側面から語られた物語なのに、広島に原爆が投下される所では、胸がつまりました。それは、読み手である私自身が、落とす側の人間でも落とされる人間でもなく、爆弾そのものになって広島に落ちていくような・・・そんな不思議な恐ろしさでした。

 

 その後の章の宇宙を巡るこの方程式の伝記も、とても面白いのですが、ちょっと私には分からないところもありました。あー、知りたい!!分かりたい!!

 

 とにかく、科学なんて、知らなくても日常生活には困らない。でも、こういうことを知らないのは絶対に損だ!と認識しました。あー、知りたいことが増えて増えて困るぅ

 

 


外套・鼻  ゴーゴリ

2006-12-06 | 小説

 ゴーゴリは意外にユーモアがあると、最近読んだ本にかいてあったので、買ってみました。ちなみに、岩波文庫版ですが、裏表紙の定価を見てみると、300円です。アマゾンでは、同じ本が483円になっているのは、どうしたわけなんでしょうか。

 

 ”外套”は、ある小役人アカーキエウィッチの哀しい物語です。彼は、書類を写すことしか能がない。これといった趣味もなく、楽しみもないが、養う家族もない一人暮らしなので、安い給料でもなんとかやっていっている。

 

 ついぞどこかの夜会で彼を見かけたなどということのできる者は、誰一人なかった。心行くまで書き物をすると、彼は神様が明日はどんな写しものを下さるだろうかと、翌日の日のことを今から楽しみに、にこにこほほえみながら寝につくのであった。このようにして、年に四百ルーブルの俸給にあまんじながら自分の運命に安んずることのできる人間の平和な生活は流れていった。

 

 そんな、彼がいよいよ着古した外套を新調せざるを得なくなった時、最初は年収の1/3以上の値段に驚愕し、あたふたするが、腹を決めて新調することにすると、今度はそのこと自体が、彼の生活のハリになっていく。

 

 毎晩の空腹にすら、彼はすっかり慣れっこになった。けれど、そのかわりにやがて新しい外套ができるという常住不断の想いをその心に懐いて、いわば精神的に身を養っていたのである。

 

 そして、いよいよその外套が出来上がり、それを着て役所に出た日には、役所じゅうの話題となり、いつも彼のことをバカにしている同僚達が入れ替わりにやってきては、その外套を誉めそやした。しまいには、副課長がやってきて、その日の夜の夜会に彼を招待する。新しい外套を着て出かけられる嬉しさに、普段なら決して承諾することのないその誘いも受けるのだが、その夜会の帰りに、追剥ぎに、その外套を盗まれてしまうのだ。その後、そのショックで、生きる気力を失い、死んでしまう・・・・。

 

 なんて哀しい物語。人はまじめに生きれば生きるほど滑稽に見えてしまうのですねぇ。いまから150年前の世界ですが、役人の世界は、驚くほど変わっていない。ロシアという独特の雰囲気はかもし出していますが、日本の当時のお役人だって、そして今だって、似たようなもんだと思います。

 

 のアカーキエウィッチのような、”能”もないが、”罪”もない人間というのは、当時でも生きにくかったのですね。それでも、今の時代なら、彼がやっていたような仕事は、機械に代替され、居場所がないでしょう。だけど、人間の本性がさほど変わっていないと言うことは、アカーキエウィッチは現代にも結構存在するはずだと思います。そういう人たちは、今、社会の中で、どんな風に生き延びているのかと心配になります。

 

 多くを望まれても応えられないが、多くも望まない。実は、そんな人間は決して少なくないはず。個性を求められ、クリエイティブな人間こそが、価値があると信じさせられている今の社会で、こういう人たちがもしかしたら、引きこもったり、ホームレスになったりしているのでなければよいのですが・・・・。

 

 もう1篇の”鼻”は実に荒唐無稽なお話。これも役人を主人公にしたロシアの雰囲気漂う、古くて新しい、面白い作品でした。

 


昨日 アゴタ・クリストフ

2006-12-02 | 小説

 悪童日記を含む3部作を読み終えて、彼女の作品にもう少し触れたいと思いました。

 

 本作もまた、彼女自身の人生や、人生観が強く投影された作品でした。主人公のサンドールは、亡命先の国で、工場労働者として働いている。自由になるために、国を捨て、工場労働者になったのに、

 

 それに、この人生は何なのか?

 単調な仕事。

 情けなくなるほどの薄給。

 孤独。

 

 彼には、人に言えない過去はあるが、亡命先での生活そのものは、住む場所も仕事もとりあえずはあり、客観的に見れば悲惨というほどではなかったが、圧倒的に孤独だった。実際、アゴタの周りでも多くの亡命者が孤独のために、精神を病み、自殺していったのでしょう。主人公も、そういう人たちと紙一重のところで、精神を保っている。そして、リーヌという思い出の女性を理想化し、その人に会って結ばれるのだということを支えに生きている。そして、ある日偶然、その思い出の女性が、現れ、二人は愛し合うのだが・・・・。

 

 アゴタは、夫と子供と一緒に亡命したわけだけれど、孤独だったんですね。故郷とは人間にとって何なのでしょうか。彼女にとっては、周囲との”言葉の壁”が大きかったのはたしかですね。言葉と感情は強く結びついているのですから・・・・。そして、読めない。

 

 ふつう、私は自分の頭の中に書くことで満足している。そのほうが紙に書くより易しい。頭の中では、すべてが易々と展開する。しかし書くやいなや、考えは変化し、変形し、そしてすべてが嘘になる。言葉のせいだ。

 

厄介なことがある。私は書くべきことを書かない。私はでたらめを書く。誰も理解することのできないこと、自分自身わけの分からないことを書く。夜、その日の日中ずっと頭の中に書いていたことを筆者するとき、私は、我ながらいったいなぜこんなことを書いたのかと自問する。誰のために、どんな理由で。

 

 これは、主人公の言葉として書かれているけれども、アゴタ自身の言葉ですよね。この作品の中にも、わけの分からないことが書かれた章がいくつかあります。だけれども、それらは、決して読者である私の関心を物語からそらす様なことはありませんでした。それも不思議ですが、この感覚は、最近読んだ本でも感じたなと、思い出したのが、、”アパシー”です。

 作家になる夢と孤独という点に物語のそして、作家の共通点が見出せるのですが、アパシーの作者は、死んでしまいましたが、アゴタは死ななかった。主人公が、 医者に「自分の死を書くことはできないよ」と言われるシーンがあります。彼は結局多くの人の死は書いたけれど、自分の死を書かなかった。でも自分の死も書けるということをアパシーの作者は証明しましたね。

 

 この本で、作者が何をいいたかったのか、それがまとまった何かであるのだとしたら、私には受け止められませんでした。ただ、この中に書かれた、作者自身の叫びは聞こえたように思います。

 

 


帰ってきたもてない男  小谷野敦

2006-12-02 | 小説

 

 「もてない男」の第二弾。ちょっとパワーダウンしているのが、物足りない、ただそのお陰で(?)、かなり読み物としては軽くて読みやすい物になっていました。

 

 氏がいうように、恋愛至上主義とも言える、現代社会は、殆どの人が見合い結婚をしていた時代にくらべて、”もてない男”にとって受難の時代ですね。私も、そんなに年をとっているわけではないですが、思い返してみると、以前は、ただ男であるというだけで、プライドを保っている男性がいましたね。

 

 男性は、”選ぶ”立場であって、”選ばれる”必要はなかった。それに比べて、”選ばれる”存在だったわけで、ということは、”選ばれない”女性も存在したわけです。現代は、男女平等のお陰なのでしょうか、女性も”選ぶ”ことができるようになり、同時に、”選ばれない”男性=”もてない男”が生まれてきたわけですね。

 

 とにかく、小谷野氏の主張は、男を選ぶほど傲慢になってきた女性達への恨みつらみなのですが、あまりにも正直なのでちょっと笑えるのに加え、教養と嫌味な性格とが、うまく絡み合っていい味を出しているように思えます。

 

 氏が主張されるように、男性と女性とで性欲の質が違うのかもしれませんね。フェミニストなどは、それは社会的に違う感覚を植えつけられたのであって、根本は同じで、あるのは個人差だというような主張をされているように小谷野氏の本から読み取れますが、男女の身体が見た目に違うのだから、脳の方の反応も違っていても不思議はないと思います。

 

 と思いますが、それが社会的な通念に大きく影響されるものであるなら、今後、男女ともに変わっていくのかもしれません。実は、その一つの兆候が、少子化だったりするのかも・・・・。

 

 だとすれば、”結局のところ、どうでもいい”ような氏の主張も、実は真剣に耳を傾けてみる価値のあるものなのかもしれませんね。政府は、少子化対策委員(そんなものがあるかどうか知りませんが)のメンバーに、彼を指名してはどうでしょうか。