「このような語源に照らしてみると、nostalgie(郷愁、懐かしさ)とは無知の苦しみであることが判明する。あなたが遠くにいるのに、私はあなたがどうなっているのか知らない。故国が遠くにあるので、私はそこで何が起こっているのか知らない。」
無知 | |
ミラン・クンデラ | |
集英社 |
この本を読み終わって、なかなか感動した気がして、誰かに話したくなり、
旦那に聞いてもらおうとしたのですが、
「チェコ人の女の人がね、フランスに亡命してたんだけど、共産体制が崩壊したずっとあとになってから20年ぶりにチェコに帰ってね、みんなが自分の亡命生活がどんなものだったか聞きたがると思っていたのだけど、誰もそんなことに興味なんかなくてね、自分たちが体制下でどんな苦労をしたかを聞かせようとするのよ・・・」
と、ここまで言ったら、言葉に詰まりました。
「で?」 と次の展開を促されても、
「いや、そういう話」 としか言えなくて、
二人で一瞬沈黙に陥った後、旦那は笑い出してしまいました。
あれ、全然理解していないのに、あの、感動した気分はなんだったのでしょうかね。
他人が自分が思うほど自分になんか興味ないっって、
そんな当たり前のことだけ???
多分、本書を深く理解するためには、著者の人生とともに、共産主義の思想と、東ヨーロッパの歴史、そして東西冷戦とソビエトの崩壊といったことなどをきちんと理解してないといけないんでしょうね。
訳者あとがきによると、
二十世紀初頭のジェイムズ・ジョイスに倣ってホメーロスの『オデュッセイア』のパロディーの形で祖国への帰還の物語を書きながら、二度、そして永久にエウリュディケ(=祖国)を失ったオルフェイスの悲嘆と絶望を語ることになったとだけ言っておけば足りる
とあり、歴史認識に加え、世界文学史的な知識も持ち合わせていないといけないようです。
実は、訳者あとがきも難しいし、読み終わった今は、高すぎるハードルの下を知らない間に通り過ぎてしまったような気分です。
そういうわけですが、とにかくも面白いなと思ったところをいくつか書き留めておくと、
主人公の一人イレナが亡命先のフランスで同居するスウェーデン人の恋人グスターヴとプラハで生活したとき、
ところが、プラハはこのカップルの言語を編成しなおした。彼が英語を話し、イレナはだんだん愛着を感じてきたフランス語に固執しようとするが、外部にどんな支援もない(かつてフランスびいきだったこの町で、フランス語はもう魅力を失ってしまっていた)ので、ついに降参した。ふたりの関係が逆転してしまったのだ。パリではグスターヴが自分自身の言葉に渇いていたイレナのいう事に注意深く耳を傾けていたのに、プラハでは彼の方が饒舌家に、大変な饒舌家になった。 -中略-
彼女の大いなる帰還は実に奇妙なものになった。街路でチェコ人たちに取り込まれていると、昔の気楽さの吐息に愛撫され、しばし幸福になった。それから、家に戻ると、無口な外国人になった。
こういうところ、国際結婚しているせいか、私のツボにはまりました。
また、
-ねえ、フランス人というのは経験なんか必要としないの。彼らには、判断が経験の先にくるわけ。わたしたちが向こうについたとき、彼らは情報なんか必要としていなかったわ。もうスターリン主義が悪であり、亡命が悲劇だということはちゃんと知っていた。彼らはわたしたちが何を考えているかに関心がなく、彼ら、彼らのほうが考えていることの生きた証拠として、わたしたちに関心を持ったのよ。共産主義が崩壊した時、ある日、彼らはわたしのことを詮索するようなまなざしでじっと見たわ。そしてそのときに、何かがだめになったの。わたしが彼らが予期していたようにはこうどうしなかったから」
というところなども、フランス人に限らず、いくつかの欧米諸国が、外国やその国の人々についてどうしてそんなに自信をもって善悪を判断できるのか常々不思議に思っていたけれど、そうなのか・・・とちょっと納得。
いろいろ難しいことはわからなくても、背負ってきた背景は違っても、こうやって、書かれた言葉によって「共感しあえない孤独」が共感できるというのが、不思議だなと思った一冊でした。