本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

無知  ミランクンデラ

2011-10-29 | 小説

 「このような語源に照らしてみると、nostalgie(郷愁、懐かしさ)とは無知の苦しみであることが判明する。あなたが遠くにいるのに、私はあなたがどうなっているのか知らない。故国が遠くにあるので、私はそこで何が起こっているのか知らない。」

無知
ミラン・クンデラ
集英社

 

 この本を読み終わって、なかなか感動した気がして、誰かに話したくなり、

 旦那に聞いてもらおうとしたのですが、

 「チェコ人の女の人がね、フランスに亡命してたんだけど、共産体制が崩壊したずっとあとになってから20年ぶりにチェコに帰ってね、みんなが自分の亡命生活がどんなものだったか聞きたがると思っていたのだけど、誰もそんなことに興味なんかなくてね、自分たちが体制下でどんな苦労をしたかを聞かせようとするのよ・・・」

 と、ここまで言ったら、言葉に詰まりました。

 「で?」 と次の展開を促されても、

 「いや、そういう話」 としか言えなくて、

 二人で一瞬沈黙に陥った後、旦那は笑い出してしまいました。

 あれ、全然理解していないのに、あの、感動した気分はなんだったのでしょうかね。

 他人が自分が思うほど自分になんか興味ないっって、

 そんな当たり前のことだけ???

 多分、本書を深く理解するためには、著者の人生とともに、共産主義の思想と、東ヨーロッパの歴史、そして東西冷戦とソビエトの崩壊といったことなどをきちんと理解してないといけないんでしょうね。

 訳者あとがきによると、

 二十世紀初頭のジェイムズ・ジョイスに倣ってホメーロスの『オデュッセイア』のパロディーの形で祖国への帰還の物語を書きながら、二度、そして永久にエウリュディケ(=祖国)を失ったオルフェイスの悲嘆と絶望を語ることになったとだけ言っておけば足りる

 とあり、歴史認識に加え、世界文学史的な知識も持ち合わせていないといけないようです。

 実は、訳者あとがきも難しいし、読み終わった今は、高すぎるハードルの下を知らない間に通り過ぎてしまったような気分です。

 そういうわけですが、とにかくも面白いなと思ったところをいくつか書き留めておくと、

  主人公の一人イレナが亡命先のフランスで同居するスウェーデン人の恋人グスターヴとプラハで生活したとき、

 ところが、プラハはこのカップルの言語を編成しなおした。彼が英語を話し、イレナはだんだん愛着を感じてきたフランス語に固執しようとするが、外部にどんな支援もない(かつてフランスびいきだったこの町で、フランス語はもう魅力を失ってしまっていた)ので、ついに降参した。ふたりの関係が逆転してしまったのだ。パリではグスターヴが自分自身の言葉に渇いていたイレナのいう事に注意深く耳を傾けていたのに、プラハでは彼の方が饒舌家に、大変な饒舌家になった。 -中略- 

 彼女の大いなる帰還は実に奇妙なものになった。街路でチェコ人たちに取り込まれていると、昔の気楽さの吐息に愛撫され、しばし幸福になった。それから、家に戻ると、無口な外国人になった。

 こういうところ、国際結婚しているせいか、私のツボにはまりました。

 また、

 -ねえ、フランス人というのは経験なんか必要としないの。彼らには、判断が経験の先にくるわけ。わたしたちが向こうについたとき、彼らは情報なんか必要としていなかったわ。もうスターリン主義が悪であり、亡命が悲劇だということはちゃんと知っていた。彼らはわたしたちが何を考えているかに関心がなく、彼ら、彼らのほうが考えていることの生きた証拠として、わたしたちに関心を持ったのよ。共産主義が崩壊した時、ある日、彼らはわたしのことを詮索するようなまなざしでじっと見たわ。そしてそのときに、何かがだめになったの。わたしが彼らが予期していたようにはこうどうしなかったから」

 というところなども、フランス人に限らず、いくつかの欧米諸国が、外国やその国の人々についてどうしてそんなに自信をもって善悪を判断できるのか常々不思議に思っていたけれど、そうなのか・・・とちょっと納得。

 いろいろ難しいことはわからなくても、背負ってきた背景は違っても、こうやって、書かれた言葉によって「共感しあえない孤独」が共感できるというのが、不思議だなと思った一冊でした。

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寄り道ビアホール 篠田節子

2011-10-22 | エッセイ
寄り道ビアホール (講談社文庫)
篠田 節子
講談社

 久しぶりに、篠田節子の作品を読んでみたくなったのですが、未読で、図書館で借りられたのは本書だけでした。

 篠田節子は私のすごく好きな作家の一人なんですが、あまり多作ではないので、一通り読んだら、その後新作を待っている間に意識から消えてしまって、気が付いたらまた読んでいない作品が結構あったりするのです。

 で、本書はそういう小説の一つかと思ったのですが、開いてみるとエッセイでした。(-_-;)

 この作家への私のイメージは、「フィクションで勝負!」する書き手。

 いわば、テレビには出ないシンガーソングライター。(っていうのがミステリアスでかっこよかった時代ももう過去になりましたが・・・)

 だから、エッセイを書くというのがちょっと意外でした。

 そして読んでみた感想は、やっぱり「フィクションで勝負!」してもらった方がいいかな。

 なんかね、おやじくさいのです。

 「社会派エッセイ」と裏表紙の紹介にあるとおり、世の中のことを憂ってみたり、批判してみたり。

 もちろん、文章力は間違いないから、読めるのだけれど、

 これが、篠田節子である必要を感じない。

 フィクションでは、なかなかほかの人には書けない世界を作る人なのにちょっと残念。  

 最終章の重松清との対談が衆力されているのですが、それを読んでいると、なんか重松清も私と同じような感想もったのじゃないかな・・・と思ってしまいます。

 

 ちなみに、私が好きな篠田作品は、ちょっと古いけど

 「神鳥(イビス)」

 「絹の変容

 です。

 ほかも結構好きだったものがあるのですが、必死で読んでいたのは10年くらい前の事で、記憶の底に沈んでしまって思い出せません。

 せっかく読んだのにもったいないことです。(=_=)

 そうそう、「アクアリウム」は、ストーリーは忘れてしまったのだけれど、地底湖のイメージだけは明確に脳裏に焼き付いて、時々ふっとその場面がよみがえってくる不思議な作品です。

 でも、Wikipediaで確認すると、ここ10年くらいの作品はあまり読んでいないなぁ・・・。

 その10年の間に私の読んでいない著者の長編小説がいっぱい溜まっていたので、次はやっぱり小説にしよう。

 

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充たされざる者 カズオ・イシグロ

2011-10-16 | 小説

充たされざる者〈上〉

充たされざる者〈下〉

カズオ・イシグロ
中央公論社

 

 なんとなく、久しぶりにカズオ・イシグロを読んでみたくなり、図書館で借りたのですが、結構しんどかった・・・。

 長い悪夢を見させられたような感じ、とでもいえばよいのでしょうか。

 でも途中でやめる気にならなかったのは、たぶん、自分の見る夢はいつも尻切れトンボで目が覚めてしまうので、この夢は最後まで見届けてみたいという気持ちがあったから。

 世界的に有名なピアニストのライダーは、ある町にやってきた。そこで、人々が演奏以外の何かを自分に期待しているのを感じて戸惑う。あったこともない人々が、自分に次々と頼みごとをするので、それに応える責任をいつのまにか負ってしまい、どんどん時間が過ぎていく。そして、他人のトラブルだと思っていたことが、なぜか自分の過去に深く結びついている。

 「次にしなければいけない」ことが、次々と現れ、なに一つ自分の思うとおりにならなずに、流されていく不安感と、流されて置き去りにしたことへの罪悪感が最初から最後までこの物語を覆っていました。

 一般的に人はどんな夢を見るのかわかりませんが、私の場合は、やろうと思ったことがちっともできずに、このままでは困ったことになるというような焦りを感じて、目が覚めても胸がザワザワしているような、そんな夢をよく見ます。

 ライダーが、自分の演奏会が行われる会場へ向かい、建物が目の前に見えていながら、入口が見つからず彷徨う間に、ホテルのポーターのグスタフが仲間たちと集うカフェに迷い込み、そこでまた新たなトラブルに巻き込まれる・・・。

 こんな展開とその時々の主人公のライダーの不安感には、強い共感を覚えてしまうのですが、物語としては、まとまりがなく、読み続けるのは「辛い」。

 訳者あとがきの文章を借りると、

 これは語り手の不安や自責の念が引き寄せた現実なのか、それともそれらが投影された夢なのか?あるいはベルリンの壁が崩壊し、イデオロギーをはじめ絶対的な価値観が消えて、すべてが相対化したこの二十世紀末の状況-混迷した社会は先が見えず、あるけどあるけど目的地にたどりつけないこの時代の不安と閉塞感(それを示唆するかのように建物の多くは円形、物語は循環的だ)を象徴的にとらえたメタファーなのか?・・・(中略) ざっと心に浮かんでくる疑問を挙げてみるだけでも、これはおそらく読者によってどのような読みも可能な、興味のつきない小説である。

 ということになります。

 私たちは、自分の経験のみならずあらゆるメディアを通じて知らされる社会の出来事に何らかの影響を受けながらも、それを明確に理解することもなく生きている。

 だから、リアリズムというのは、こういう解り難さの中にあるのかもしれないと、少し「物語」の見方を変えてくれたともいえる一冊で、そういう点では最後まで読んでよかった・・・。

 ところで、”将来の夢”などに使う夢と、睡眠中にみる”夢”は、私には全く別物に思えるのですが、英語でも日本語でも同じ言葉を使いますよね。不思議・・・。

 

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アメリカにいる、きみ C.N.アディーチェ

2011-10-09 | 小説
アメリカにいる、きみ (Modern&Classic)
C.N.アディーチェ 著 くぼたのぞみ訳
河出書房新社

 

 この前読んだ、「半分のぼった黄色い太陽」の短編版を含むアディーチェの10編の短編集す。

 ナイジェリアで60年代に起こったビアフラ戦争をベースにして、戦後、ナイジェリアに残った人たちとアメリカなどにわたった人たちの人生を描いた作品集です。戦争で何かを心に負ってしまった人たちが、アメリカやイギリス、そして戦後のナイジェリアの中で抱える周囲への違和感を様々な角度から描き出していて、平和な日本で育って不幸らしい不幸の経験のない私にはもちろん想像するのも難しいものなのですが、不思議に共感もできるのです。

 政府に追われる活動家の夫は新聞に反政府的な記事を書き内戦終了直前に亡命したが、その夫を探しにきた兵士に目の前で息子を虐殺された妻が主人公の「アメリカ大使館」という作品。

 突然、彼女はヴィザ面接官に、「ニュー・ナイジェリア」の記事は子供の命を犠牲にするほどの価値があるのか、とききたい衝動にかられた。彼女の夫がしたことは勇敢な行いなのか、ただの無鉄砲なのか。でも彼女はきかなかった。ヴィザ面接が民主制を擁護する新聞のことを知っているかどうか疑わしかったから。大使館の門の外の交通遮断区域にできた長蛇の列ことを。木陰ひとつなく、容赦なく照りつける太陽が友情と頭痛と絶望をつくりだしていることを、このヴィザ面接官が知っているかどうか疑わしかったから。

 この場面は、「アメリカ」に象徴される先進国の、上から目線の「正義」を批判的に描いているようでもあるし、民主化の名のもとに英雄だったのに息子を死なせた夫への押さえきれない怒りがベースにあります。それは「おしん」が世界各地で支持されたことと無縁ではないかもしれないとふと思いました。(確かおしんも、息子の戦死の悲しみを夫とは共有できなかったはず)

 キリスト教を信じながら、決して古来のご先祖を敬い、土着の神をも信じていた祖母の思い出をベースに展開する「ママ・ンクウの神様」や、戦前はスッカの大学で数学を教えていた老人が、亡くした妻のゴーストを生きがいにして生きている話「ゴースト」などを読むと、そっくり日本の話に置き換えられそうで、ハッとします。

 アフリカがとても近く感じられ、一つ一つの作品を全部書き留めておきたくなるような、そんな素晴らしい短編集でした。

 訳者あとがきを読むと、著者のアディーチェがインタビューなどメディアに積極的に発言していることも紹介されていて、彼女が決してヤワな女性でないことが伺い知れます。

  つい先日アフリカの女性3人がノーベル平和賞を受賞したことなども頭をよぎり、これからはアフリカの女性たちを注目したいですね。

 また、インド系アメリカ人ジュンパ ラヒリ作の「停電の夜に」や、中国からアメリカに渡ったイーユン・リーの「千年の祈り」と並んで、アディーチェが、私のお気に入りのアメリカ移民文学作家(と勝手にジャンル分けしてよいかどうかはわかりませんが)に加わりました。やはり、異文化が触れ合った時にアートは生まれるんだなぁ・・・。

 

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エコ論争の真贋 藤倉良

2011-10-01 | 評論
エコ論争の真贋 (新潮新書)
藤倉 良
新潮社

 

 ”はじめに”の中で、著者は、

 それぞれの問題について、現在は百家争鳴の状態です。本書はできる限り、さまざまな立場の考えをフェアに扱って解説することを心がけました。そのため「一刀両断、快刀乱麻」を期待されると、ちょっとあてが外れるかもしれません。

 と、宣言されています。

 だから、カバーの折り返しには、「何を信じたらいいか迷ったら読む本」との紹介文はありますが、、読み終わっても結局何を信じたらよいかわからないことには変わりませんでした。

 けれど、エコを考えるためのきっかけとしては、とてもよい本だと思います。

 第一章の”レジ袋はどんどん使い捨てるべきか -ゴミとリサイクルについて考える”は、基本的にテレビで人気者の武田 邦彦氏への反論かな?

 それも、”正統派科学者の矜恃”とでもいうのでしょうか、大人の態度での反論です。

 「彼の言っていることも一部正しいですが、常識的に考えれば、こうですよ・・・」みたいな感じですから、武田氏にくらべて、インパクトが弱く、面白さにも欠けてしまいます。

 第二章は、地球温暖化とCO2削減についてで、これは基本的にIPCCのレポートを正しいという立場で書かれています。

 レジ袋やリサイクルの話は自分の生活から考えることができますが、こっちは、もう科学の話で、氏の解説を読んでもさっぱりでした。

 私は、この章で紹介されていた、懐疑論者の丸山茂徳氏の主張をYOUTUBEで見て、IPCCのメンバーに環境科学者が意外に少ないことを含め、私自身がそのわかりやすい話にすっかり影響されていたこともあって、斜に構えて読んでしまいました。

 だけど、”大丈夫だ”という説に立って世の中が動いてしまって、本当の答えが目に見えるようになったときにはもう遅いという可能性も十分あるわけで、そこのところが難しい。

 そして、著者が何度も言っているように、「エコにはお金がかかる」ことが、環境問題を経済問題にしてしまって、こうなると、当然のことながら、「経済界」といわれる世界から口を挟みたい人がたくさん出て来てしまう。

 でも、「フクシマ」の事を考えてみれば、「危ない」という警告を、「経済性」という魔法の言葉で覆い隠して、この始末。

 地球温暖化も、生物多様性も、「快適」、「便利」、「経済的」とは、別の方向にあるので、科学としてはわからなくても、聞く人の耳に快い「一刀両断、快刀乱麻」は、おかしいという感覚を持たないといけないということだけは、肝に銘じました。

 

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