本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

再生の朝 乃南アサ

2005-12-30 | 小説

  再生の朝 乃南アサ  新潮文庫

 台風が接近している日、10人の乗客と2人の運転手を乗せたバスは、東京から萩に向けて出発するが、大阪を過ぎた頃、乗客の一人にバスジャックされる。他の乗客が気づいたときには既に、一人の運転手は殺害され、その後バスは、何かに突っ込み、10人は闇の中に残される。夜が明けるまでの間に、乗客たちの間に連帯感が生まれて来る・・・・。

 殺人はありますが、ミステリー的な要素はありません。乗員や乗客たちのプロフィールと、それぞれがお互いに助け合うようになるプロセスをがメインです。解説や、あらすじにも”それぞれの事情をかかえて”とか、"それぞれの人生を背負って”とありますが、たいした事情ではなく、ありがちなプロフィールですが、その分、一人一人がなんか自分の身近にいる人にたとえられそうな妙なリアリティもあります。

 ただ、会話からうかがい知れる乗客一人一人の性格表現とは裏腹に、シチュエーションにはリアリティがなくて、すこしバランスが悪い。この内容で、250ページはちょっと短いのではないでしょうか。どうも消化不良でした。解説ではこの長さを、”無駄が無い”と表現されていて、それはそうかもしれないのですが、一人一人のプロフィールも中途半端で誰にも感情移入できないのですよ。どうもこの解説者自身。どこを褒めたらいいのかなぁと苦労して書いたようにも読めるのは、穿ち過ぎでしょうか。

 最近、こういう小説を読んで”おもしろい!!!”と思えないのは、自分に原因があるのかなぁ。あー、面白いミステリーを読みたい。

 


人間臨終図巻 山田風太郎

2005-12-29 | エッセイ

  人間臨終図巻 山田風太郎

 人の死様を面白いと言うのは、少し不謹慎かもしれませんが、こんなに面白いとは・・・。さすが風太郎先生です。

 聖徳太子やネロといった歴史上の人物から植村直己や夏目雅子などのまだリアルタイムで記憶にある人まで、年齢順に並べるというとても奇抜な構成で、なんと300人以上の人の死様を読めるとても”お得”な本です。人間は、どんな生まれ方をしようが、本人に責任はありませんが、どういう死に方をするかは、かなりの部分、本人の責任です。つまり、どういう生き方をしたかの反映なんですね。

 おかしかったのは、ラファエロ。なかなかの男前で性格もよかったらしく、女性にもてすぎて、少し遊びすぎて、高熱を発して寝込んでしまった。本来なら強壮剤が必要なところ、平素の彼の生活を知らない医者が瀉血療法を施したので、衰弱して死んでしまった・・・とか。ワルツの父と呼ばれるヨハンシュトラウスは、生前に音楽家として成功をして、莫大な収入を得ていたのに、死んだときには殆ど遺産もなく、愛人にも見捨てられて、一人寂しく死んでいったとか・・・。(まあ、だいたい芸術家というのは、あまりいい死にかたはしていませんねぇ。私のダーリンも画家なのでちょっと心配)

 ピックアップしておきたい逸話が満載で、一人の人の死様を長くても4,5ページにまとめきる著者の力量は、さすがプロフェッショナルです。いろいろな人の死ぬときの様子を読みながら、自分の身近な人のなくなったときの様子を思い出したり、自分の死に方を想像したりと、楽しみながらもいろいろ考えさせられる一冊でした。


誰か 宮部みゆき

2005-12-18 | 小説

 誰か Somebody 宮部みゆき 光文社

 久しぶりの宮部みゆきでした。やはりこの人は、巧いです。前の3冊では、結構電車で読みながら寝てしまったのですが、これは決して眠くなりませんでした。

 大財閥の会長の娘と結婚した人のよい杉村は、事故で亡くなった義父の元運転手梶田の娘が出版しようとする本の編集をすることになる。梶田の娘は2人で、積極的に本を出そうと言う次女に対して、長女は本をだすために、父の過去を掘り出すことにかなり躊躇している。それでも、当たり障りの無い範囲でということで長女を納得させ、取材をはじめるが、長女が心配した通り、父親には人に言えない秘密があった・・・・。

 巧いと言いましたが、本音は、巧さのみで書いているという印象を拭えないのです。まあ、これだけの人気作家ですから、あちこちから仕事を頼まれて、すべてが渾身の作と言うわけには行かないですよね。

 大財閥の会長と言う立場を決して崩さないが、非常に人間味がある義父、正妻の子どもで無いので、決して苦労知らずなワガママ娘ではないが、品はしっかりある妻。そしてその妻を愛し、娘を愛する杉村。シリーズ物にも出来そうな設定です。2時間ドラマには結構いいかもしれませんね。 大きな仕事が無くなって来た女優が2時間ドラマをやるように、作家にもそういう手があるのかもしれません。でも、どうか宮部さんにはもう少し彼女にしか出来ない作品を少なくてもいいから書いて欲しいなぁと願って止まないのです。

 


月の裏側 恩田陸

2005-12-14 | 小説

 

 そろそろ面白くなりそうと期待させながら、最後まで読み終えてしまったというのが本音です。つまり最後まで、のめりこめなかった。 ”夜のピクニック”を読んだ時に自分には合わないなあと思いましたが、今回はその評価は返上しようかなと読みながら期待したときも結構あったんですけどねぇ。

 箭納倉という柳川を思わせる堀割が有名な架空の町で、町の住民が失踪する事件が多発していた。しかし失踪した住民は、必ずしばらくすると戻ってきて、その間の記憶はないものの、なんら外傷などはなく、普通の生活に戻っている。このことに疑問をもった、三隅、その娘の藍子、教え子の多聞、そして新聞記者の高安の4人が調査を始める。そして、予想もしなかったようなことに・・・・   

 いろいろその後、インターネットで人が感想を書いているのを読ませていただくと、これは”SF"もしくは”ホラー”というようなジャンルに入るらしいのです。どちらにしても自分にはあまり馴染みのない分野なのですが、こういうのってSFっていえるのですかね。なんかSFというとたとえ荒唐無稽な論理であっても、読者を無理やり納得させられる論理展開が必要だろうし、ホラーにしては、全然怖くない。謎解きの楽しみも、結論が中途半端で・・・。途中の記述にしても、辻褄が合わないなぁというところや、登場人物の言動に必然性が感じられないところなど、つっこみたくなるところがいっぱいあります。

 でも、この人は人気作家なので、多分、残念ながら自分には合わないというだけのことですね。  

 作品の中で共感できる文章があったので、自分の覚書に引用しておきます。 新聞記者の高安の独白(?)です。  

取材をして、いろいろな話を聞いて、それを枠の中に収めたときに感じているあの違和感。活字になったときに感じていたことがバッサリと削げ落ちていて、何も伝わっていないと感じる無力感。その癖、一旦活字になってしまうと、それがたちまち事実となってくっきりと刻み込まれてしまう恐ろしさ。

  私のようなものでも、本を読んでいるときにいろいろ感じていたのに、いざブログとしてある程度の長さに収めようとしたときに、たったこれだけしか書けなかった・・・ということをよく感じます。それはもちろん、自分の文章力のなさなのですが、作家でもそういうことを感じることがあるからこそこういう独白を登場人物にさせたくなるのでしょうかね。

 


遠い海の声 菊村到

2005-12-10 | 小説
 少し前に”古本屋おやじ”というの本を読んだので、古本屋を見つけたらつい、入ってしまいました。そこで、これまた少し前に読んだ、”硫黄島”の作者である菊村到の作品を見つけて400円で購入しました。

 硫黄島は、戦場を経験した人間の物語で、その残酷さを静かに描いた短編集で、とても胸に迫ったのですが、その後著者が官能小説作家になったのを知り、その経緯にちょっと興味がありました。この「遠い海の声」は、昭和38年に初版がでているようですが、カバーに「純文学書き下ろし」とありますので、まだ官能小説ではありませんが、セックスが重要な意味を持っていると言う点で、ベクトルは少しそちらの方向に向いてきているようです。

 ある業界紙の記者をしている矢吹は、息子の誕生日に、愛人が妊娠中絶手術を受け、翌日急死してしまう。その愛人といつも会っていた部屋で、主人公はこれまでの自分の人生などをずっと辿りながらその死を受け止めていく、という内容です。

 主人公は、戦争で、乗っていた艦が撃沈されて、海に投げ出され暫く漂流していた経験をもつ。その経験や、また自分の艦から日本軍の兵士の死体が海を流されていくそういう情景の描写は、さすが経験者でしか語りえない迫力があります。

 カバーには、「愛するということは、何かを犯すことに他ならない。(中略)この作品から「犯したもの」の重さを受けとめてほしい」という作者の言葉が印刷されています。このような作品から、人間の普遍性を読み取る力は私にはありませんので、戦争体験以外の主人公の体験や考えが、読者である私の胸に迫るということはありませんでした。

 もしかしたら著者は、戦争体験を背景に人間に迫る文学が、時代に求められなくなっていくのをこの後、ひしひしと感じながらも、戦後の社会から文学として描く意味のあることを見つけられなかったのではないかということです。その中で自分が作家と言う仕事を続けていくのに”官能小説”を選択していったのではないでしょうか。2冊読んだ位で断定するのは無茶ですが。

 またこの本である意味新鮮だったのは、兵隊を経験した世代が、愛人とあうために部屋を借りたりという、現代的な(といっても昭和30年代ですが)風景の中で、現代的な悩みをもって生きていたことです。終戦でなんとなく時代がパっと入れ替わったように思っていたのですが、一人一人の人生はその前後で続いているんだという当たり前のことに気がついたりしたのでした。

 

奔馬 三島由紀夫

2005-12-04 | 小説

 奔馬 豊饒の海・第二巻  三島由紀夫

 「春の雪」を読みながら、三島由紀夫は若い時でないとなかなか、受け入れにくいなぁと思ったとこのブログにも書きましたが、前言撤回。豊饒の海シリーズで、ひとつの作品であり、春の海1冊読んだだけで、そのような結論を出してはいけなかったことに気がつきました。

 「春の海」の主人公清顕が死んでから19年たった昭和7年から物語が再開します。昔、松枝家の書生だった飯沼の息子勲が、主人公です。彼は、明治時代の神風連の乱という勤皇志士の話に傾倒し、自らの若く、純粋なエネルギーを、社会正義の実現に向けることによって、破滅へとひた走って行きます。この勲が、清顕の生まれ変わりなのですが、その純粋さという点では共通点があるものの、まったく別のタイプの若者になっています。それを、清顕の親友であった本多が、常に見つめています。

 この本も読みながらしんどいなぁと思うところが沢山ありました。せっかく、”ブンガク”を読んでいるんだから、読み飛ばしてはいけない・・・と思いながら、かなり読み飛ばしました。ごめんなさい三島さん。

 「春の海」では、主人公も本多も19歳だったため、少年の感性が中心で、青臭くて、この年でこんな価値観を押し付けられるのはしんどいなぁと思ったのですが、今回は主人公は若いものの、本多は38才。自分の19歳の頃を思い出してさまざまな感慨にふけります。それを読んで、私はやっと、「春の海」の意味を少し理解できたように思います。

 社会の正義をあまりにも純粋に実践しようとした勲と、その周りの大人達の関わり。大人達は、それぞれがそれぞれの立場で、勲の純粋さを愛していて、守ってやりたいとおもうのだけれど、結局最後は自分を守る側にたってしまうのです。そのセコい大人達を、筆者は決して悪人としては扱っていない。すべて、どこかにいそうな人たちです。

 三島本人は、この本を書いた時に、19歳の勲の純粋を持ち合わせ、なおかつ大人でもあったのに、結局は、このシリーズを書き終えてすぐに、自刃してしまいますよね。彼は、一体勲にどの程度自分を投影したのでしょうか。また、この時代に純粋に社会を憂い、結局は反社会的な計画を企てた若者の精神性と、オウム真理教の若者とはどこが違うのだろうか・・・・ということも頭をよぎりました。その答えはもちろん、どこにもありませんが。

 結局続きを買ってしまいましたから、また読むことになりそうです。次は女性に生まれ変わるそうで、少し楽しみですが、ブンガクには少し疲れたので、宮部みゆきなどで、頭を休めてから、また続きを読みたいと思います。

 しかし、三島由紀夫という人はやはり変わってるけど、すごいですねぇ・・・。自分が文学部の学生だったら一度取り組んで見たい作家ですなぁ。(いつ文学部の学生になるねん