本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

名画の言い分

2009-08-22 | 評論
名画の言い分―数百年の時を超えて、今、解き明かされる「秘められたメッセージ」
木村 泰司
集英社

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 西洋人(オーストラリア人だけど一応英国系なので)の画家である私の夫が、自分の絵について、いつも見てくれる人に説明しようとするし、人の展覧会に行き、画家がいれば、必ず”この絵について説明してください”と言うので、いつも私は、”絵は見るもんじゃないの?言葉で補うってちょっと姑息じゃないの?”って思っていた。

 

 

 だから、この本を図書館で手に取り、ぱらぱらとめくったページに、

 

 

美術は見るものではなく読むものです

 

現代の日本では、やたら「感性で美術を見る」-好きか嫌いか、感動するかしないか、といった尺度で見る-などと言いますが、感性で近代以前の西洋美術を見ることなど不可能です。なぜなら、西洋美術は当然西洋文明のなかで生まれてきたもので、この西洋文明自体が、「人間の感性などあてにならない。理性的でなければ」というところからはじまっているからです。

 

 

という文章に、ちょっと喰いついてしまいました。

 

本書の内容としては、西洋美術の楽しみ方の入門書です。読んでみて、確かに、近世以前の絵画についての認識が少し変わりましたし、これからは展覧会なんかにいっても、今までよりもう少し楽しめそうです。

 

 西洋美術は裕福なパトロン(王侯貴族や宗教指導者、ブルジョア階級)がいてこそ、発展してきたものというのは理解していたつもりだが、その意味を考えていなかった。美術館で絵を見る感覚とは違うですよね。買う側は、突飛なものを望んでいるのではなく、その時代にふさわしいものを所有することで、自分の財力や知性を示そうという気持ち。

 

 

 画家は、それに応える職人集団。独自の世界を追求することは基本的に求められていない。大工なんかと同じ。それでも、その中で技術に秀で、世界を広げて名前を残す人が出てくるのは、まあ当然といえば当然ですが・・・。

 

 そういうわけだから、その時代を知らないと絵は理解できないという意味で、こういう読みやすい入門書は大変ありがたい。

 

 

 もちろん、近世以降、現代美術に至るまで、それらの状況は少し変わったとはいえ、やはり西洋美術の評価は、こういった歴史を踏まえて、個々の芸術家がそれぞれの世界をそこからどう広げたかというところに価値を置こうとするのかもしれない。

 

 

 だから、うちの夫は、絵を見たときに、説明を聞こうとするし、自分の絵についても説明をしようとするのかなぁ・・・と思うし、日本人の芸術家が欧米で認めてもらおうとするときの壁になっているのかとも思う。

 

 

 ところで、著者の木村泰司氏の文章は、”XXされませんように。”とか、”XXいたしましょう”とか、なんか、お上品な奥様へ話しかけているような感じ。決して読みにくいわけではないのだけれど、ちょっと違和感があり、それにどこでこういうことを勉強したのだろうとプロフィールをみてみると、

 

 

 1966年愛知県生まれ。カリフォルニア大学バークレー校で美術史学士号を修得後、ロンドンサザビーズの美術教養講座にてWORKS OF ART 修了。

 

 

 とあり、まあ、私なんかからしたら尊敬に値するキャリアだけど、”学士号”ってちょっとびっくり。当然、phD(ドクター)か、日本のどこかの大学の準教授くらいかと思ってました。日本の大学で教えているというわけではなさそうで、どういう人なんだろうと、ネットで”公式ホームページ”を見てみると、どうもカルチャーセンターで講師などをなさっているようだ。

 

 

  まあ、別に学歴がないと知識が無いというわけではないのだけれど、彼が専門としているのが西洋美術であり、その世界で専門家として生きていくのであれば、このプロフィールはいかにも物足りないのではと思う。

 

 目指しているところは、

 

 楽しみつつも知的好奇心を満たす「エンターテイメントとしての西洋美術史」ということなので、それで十分なのかもしれないが、

 

 ロンドンでは、歴史的なアート、インテリア、食器等本物に触れながら学び、同時にヨーロッパのマナーや社交術も身につける。

 

 

 なんて、プロフィールに書いているので、私も大人げなくちょっと反発しちゃったかな・・・。(それに、拍子にスキンヘッドの自分の写真入りで登場しているのがちょっと。。。) 


黒髪の魔女 6TEEN  石田衣良

2009-08-22 | 小説
 携帯小説を初めて読みました。



 新潮のケータイDXというサイトで、au限定で無料配信とあったので、どんなものかと試してみたのですが、



 まあ、そんなもんでした。


 

 いくら携帯小説だからって、そこまでレベル落としてもいいんでしょうか。



 読み手のレベルを小学生くらいに想定しているんでしょうか・・・。いくら本を読まない若者でも、ストーリーのあるマンガを読んでいれば、この程度では評価しないと思うんだけどなぁ・・・。



 ま、内容については特に書くべきこともないけれど、初”携帯読書”の感想を・・。



 まず、意外に読みやすかったけれど、少し前の文章に戻って確認という時に、普通の文庫だったら見開きで、ページをめくる必要が無い程度でも、かなり戻らないといけないのがちょっと面倒。今回は超短編だから大したことないけれど、長い小説なら結構面倒かなぁ・・・。




 私の携帯に入っている読書用のアプリではしおりを2つまでしかつけることができないけれど、この辺は普及したらどんどんよくなりそう。逆に、”えーっと前に出てきたあの文章・・・なんて書いてあったかなぁ”とか言う時に、こういう電子書籍なら覚えている単語を入れて検索できれば便利だろうなぁ。今回はできなかったけど、きっと本格的なアプリならできるんだろう。




 ただ、1ページを読み終わらないうちに画面が省エネモードで暗くなるのがちょっとせからしい。設定で暗くなるまでの時間を変えることができるのかもしれないが、普段メールを読んだりするときにはそんなに気にならなかったから、携帯そのものの設定ではなくて、読書用アプリから設定できるといいなぁと思う。が、このあたり、詳しくないので実現性については、全く知識が無いのでわからない。




 コンテンツの方は、”新潮のケータイDX”というサイトを見てみると、読んでみたいなぁというタイトルがいくつかあり、これは今後ドンドン充実していくだろうから期待はできそう。特に、星新一のショートショートが毎日1本読めるっていうのが特に魅力的で、登録しちゃおうかという誘惑にかられた。月々、最低210円なんだから、コーヒー代より安いし、と登録画面に名前を入れ始めたのだけれど・・・ふっと、あのレベルの低い小説で釣られる自分に気が付き、ちょっと情けなくなって、やっぱりやめた。




 それでも、一度は登録してみようかとまだ未練もあって、そう考えると今回の無料ダウンロードの宣伝戦略はバッチリだなぁなんて思ったのでした。




 このブログで、もしまた携帯小説のレビューをしたら、誘惑に屈したなと笑ってやってください。

醜い日本の私

2009-08-12 | 評論
醜い日本の私 (新潮選書)
中島 義道
新潮社

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 この中島義道先生、かなりうるさい親父ですねぇ・・・。

 

 日本の醜い姿に怒ってます。

 

 

 20年ほど前はしょっちゅうお目にかかったタイプの、”西洋はよい、日本は悪い”というタイプの日本人批判論だなぁ・・・とやや嫌悪感を感じながら読む進んでいくと、どうも少し違う。

 

 

 うざい親父の愚痴に聞こえて、実は、感性の”マイノリティ”問題なのです。障害者にとって、この社会が生きにくいかというのと同質の訴えであり、マジョリティにとっての”あたりまえ”や”普通”の前に、ねじ伏せられてしまう人たちの怒りなんですね。

 

 

 とにかく、ずーんと考えさせられる本でした。

 

 

 まず、先生は、日本の街並みを徹底的に批判されます。看板や幟、ネオン、そして何より乱立する電信柱と張り巡らされている電線。これらは、そう言われてみれば醜いのだけれど、私を含め大方の日本人にとっては、あまりに慣れすぎてその醜さに気がつかない。私が行ったことがあるヨーロッパの国は、イタリアだけだけれど、確かに町としての美しさは段違いだと思う。

 

  

 アジアとヨーロッパの違いだわねぇとのほほんと思っていて、それは本書を読み終えた今でも変わらないのだけれど、これを日本人の考え方に投影していろいろ考察されているのが面白い。

  

 

 

 日本語で、「おのずから」と「みずから」をどちらも”自から”と書くことから、日本人には、”自然になる”ことと、”自らの意思でなる”ことに、はっきりとした意識の境界線がなかったというのです。

 

 

  人為を超えた”おのずからなる”ものを尊ぶ傾向も強いことから、街並みを人間の意図でコントロールしなかった結果、混沌としたものになっても、大方の日本人にとってもそれはそれで心地よい・・・というわけです。そしてだから危ない。

 

 

 この自然な運動を導く原理原則は何もない。誰も正確に自分がどこに向かっているかは知らない。だから人々は危機的状況に直面すると、みんな一緒に一丸となっていっさいのはからいを捨てて自然にある方向に動いていく。太平洋開戦前夜でもそうであったし、石油危機とのきのトイレットペーパー争奪戦もそうである。

 

 

 だからこそ、われわれは自他の行為に対して責任追及の手が緩んでしまうのである。太平洋戦争は「おのずから」 成ってしまったのであり、山本七平のいう「空気支配」を当てはめてみれば 、開戦当時の「空気」に対してもはや誰も抵抗できなかったのだ。

 

 

 、私たちは、”世間”(マジョリティ)が認めたものを、”自然”に受け入れてしまう。別の価値観や感性からみると、おかしいと思われることも、疑いもなく受け入れて、そして賞賛し、感動さえしてしまうのですね。

 

 

 古来、日本人は自然に親しんできたといっても、その自然とは客体としての自然ではなく、「観念」あるいは「言葉」という人工膜をとおして現出してくる自然なのだ。われわれ日本人は、あくまでも観念や言葉を通じて自然を楽しむのである。

 

 

 うーん、自分に当てはめて100%否定できないし、外国人で障害者というマイノリティの夫との間に日々感じる違和感についても、当てはめてみれば納得できる説明です。

 

 

 先生は、景観のほか、町中にあふれるアナウンスや、日本人特有の、言葉をそのとおりに受け取らない態度にもひどく怒っておられて、血管が切れるのではないかと心配になるほどです。

 

 

 でも、この先生が自分の隣人だったらうまくやっていける自信はないし、友達になりたくはないし、一緒に仕事をしたくもないです。(すみません。臆病ものです)

 

 

 実際、日本人だけれど、大方の日本人と違った感性を持っている人で、海外逃亡してしまった人は多いと思う。それはそれでお互いにとって最も幸せな方法かもしれないけれど、社会がこういうマイノリティをはじき出す傾向を持っているとするなら、それは、国や組織が間違った方向へ進もうとするとき、”何も言わない”人ばかりになり、悪い結果に終わった時、”最初からおかしいと思っていたんだ”とか、”自分たちに責任はなかった”ということになるのではないかと・・・不安です。

  

 が、自分がうるさいおばさんと思われるのもやっぱりいやなのだけれど・・・・。

 

けれど、とりあえずこの手のことで耐えられない人は、すでに海外に逃亡されているのではないかと思う。


いじめの構造

2009-08-08 | 評論
いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)
内藤 朝雄
講談社

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 これもまた、NHKの週刊ブックレビューで紹介されていた本です。

 

 いじめは、現代の子供たちだけの問題ではない。いつの時代にもあり、子供大人を問わない。特に日本人は、かつて武力で占領した地域で、現地の人たちに対して行った行為は60年以上たった今でも責められているし、国内や軍隊内部での行われてきたことも、いじめと根は同じだろうと思う。

 

  

 私自身は、中学時代に、”仲間はずれ”といういじめを経験した。幸い私の場合は、進級してクラスが変わったことで別の仲間ができたが、その後、別のクラスメートが仲間はずれになったときに、いじめの仲間には加わらなかったが、自ら彼女に手を差し伸べなかった。

 

 

 自分が仲間はずれにされたとき、学習したのだ。そのとき、誰がその場を支配しているかを確認して、その人に楯突いてはいけないんだと・・・。流されておけ・・・と。

 

 

 だから、こういうタイトルの本を見ると、手に取らずにいられない。

 

 

  今は、一人の”善良な”市民であると思っている私が、いつ怪物になってしまうかもしれないと思うから・・・。

 

 著者は1962年生まれ(なんと私と同い年)、専門は社会学ということで、紹介文によれば、本人もいじめられた経験を持つようだ。

 

 

 著者は、学校では 

 

「みんな」と「仲良く」し、その学校の「みんな」のきずなをアイデンティティとして生きることが無理強いされる。

 

 ことが問題だという。

 

 こういう閉鎖的な場では、”人をコントロールする全能感”を求める人間が力を持つことが容易で、”コントロール”は、”教育”や”しつけ”という言葉と区別がつかなくなり、そこでは、普通の生徒たちのこころが、簡単に”誰かを痛めつけることを容認してしまうモード”に切り替わってしまうという。

 

 

 モードが変わるという言葉には納得できる気がする。

 

 

 オウム真理教の事件がおこった時、私たちは、組織が人を変えるという事実を目の当たりにしたのに、これが身近な学校でも同じだといわれるととても信じられない気がする。

 

 

 私には子供がいないので、今の学校の様子はわからないし、本書で示されている例がどれくらい普遍的なのかよくわからない。それでも学校のある一面を捉えているんだろうなと思われるところはたくさんあり、興味深かった。

 

 

 いじめは社会の構造的な問題なのだ。だから解決するために著者は教育改革を提案する。

 

 新しい体制では、親は子供を学校に行かせる義務があるのではなく、「日本社会で生活していくのに必要最低限の知識を習得しているかどうかをチェックする国家試験を子供に受けさせる」義務のみがあり、その知識を習得するための方法は、自由に選択できる。

 

 であるから、学習の場は、学校とは限らず、さまざまな選択肢ができる。とはいえ、人間の集団だからさまざまな問題はあるだろうが、要は親にも子にも選択の自由があるということが、いじめを構造として成り立ちにくくするということのようだ。

 

 

 基本的には賛成だ。多分、これで不登校の問題もずいぶん解決するだろう。

 

 ただ、ある人には、”選択肢”があるということが非常に価値のあるものだというのは分かるのだが、自分の学生時代を考えると、豊富な選択肢と選択する権利をどう使ったらよいかまったく分からないで、立ちすくんで進めなくなるような気がする。まあ、そのときには学校だけでなく社会も変わっているから、きっと違うんだろうなぁ・・・とは思うが。

 

 

 と、本当に興味深い本ではあったが、実はとても分かりにくかった。もしかしたら典型的な社会学的アプローチなのかもしれないが、事象をモデル化し、それぞれに難しげな名前をつけるのだが、それが一般の読者向けには、説得力の向上につながっていない気がする。

 

 

 ところで、本書を読みながら、たまたま、並行して”カムイ伝”を読んでいたのだけれど、江戸時代、農民を支配するため、彼らより蔑まれる立場の””という集団を作って対立させたということがこの物語のベースにあるようで、”いじめ”の問題と私の中でピーっとつながった。

 

 

 まったく、何の意図もなく選んだ2つの本の間をつなぐ線を引けたというのは、読書の楽しみの極み・・・と私は思っています。だからちょっとワクワクしてしまいました。(本の内容は暗いですが・・・)