やってみると食べ物という主題はまさに国境をやすやすと越え、
自在に、それでいて頑固に保守的に、同時に驚くほど柔軟に、
文化というあいまいなことばそのもののように、
ひとびとの異なる暮らしの細部に入り込んでいくのでした。
地上の飯―皿めぐり航海記 | |
中村 和恵 | |
平凡社 |
東大大学院で「比較文学比較文化専攻」という著者は、研究のため世界中あちこちに行かれるようで、その先で出会ったおいしいものを通じて文化を語り、文学を通じて食を語るというような内容。
「心残りの一皿」という一篇、
父親の仕事の関係でモスクワで暮らし、日本人学校に通っていた著者は、「修学旅行」でエストニアに行き、モスクワではついぞお目にかかれないようなおいしい料理とサービスに感激したが、デザートのケーキが出たときはもう満腹でとても食べられなかった。サクランボとクリームで飾られたそのケーキをそのまま手つかずにするのが残念で、みんなでそのケーキにお茶をかけてダメにして、クスクス笑っていた子供たち。
このケーキ皿を思い出すと、今でも心が痛いという著者は、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』とういう本に反応してしまいます。
ナチスの強制収容所から解放されたばかりのひとがわざわざ畑を横切り麦の新芽を踏みつぶして歩く場面に、あの皿を思い出してしまった。これはたしかに考えすぎだ。でも、わたしにとってタリンのケーキ皿はいわば、解放された人間の狼藉のシンボルみたいになってしまったのだ。
このエピソードが、とっても心に残りました。
どこがいいの?と言われたら難しいんですけど。
食べ物に関して私に同じような思い出があるわけでないですが、子供の頃の自分の行いの中で思い出すと今でも心がチクチクするようなことを、今でも自分の心の中にきちんと場所を作って置いているというところに、あぁ、わかるわかるって思ってしまったんですかね。
チクチクだけじゃなくて、赤面してしまうような著者の思い出も自分のことのように感じてしまいました。好きな男の子に好きな食べ物は何と訊かれて、あまり子供っぽいことを言ってはつまらないと考えて「きくらげ」と答えてしまった後悔とか。
うーんわかります。
ただ、とっても軽妙なタッチで書かれたエッセイなのに、読み終わるった時にちょっと哀しい感じがしてしまったのは私が変なのかしら・・・。
それは、著者が
自分でもこれはわかりにくい珍妙ないきものであることよともてあましている。しかしいまさら自分をなにかもともらしいものにせねばと考えているとしたら、これは愚かであろう
と書いておられるように、自分の存在自体を100%受け入れられないというところに、私の何かが反応してしまったのか、
それとも各地の特有の文化が、
断片化され、デジタル情報になり商品化され、もとの歴史的文化的文脈と切り離されて、しばしば意味不明のスタイルや気分だけがコピー&ペーストで伝搬していく。
と指摘されたその気分に自分もグラグラしていることに気づかされたためなのか。よくわからないのですが、もしかしたら本書とは関係なく、単に更年期の落ち込みかもしれませんが。
台風4号・・・。予報より東にそれてこの辺は既にピークを越えたかも
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