本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

柔らかな頬 桐野夏生

2011-05-28 | 小説
柔らかな頬〈上下〉 (文春文庫)
桐野夏生
文藝春秋

  

  前の記事に引き続き、友人からどっさりもらった本の中の1冊いや、2冊。

 桐野夏生さんもちょっと久しぶりに読みました。

 この世代の女性作家の中でも、一番好きというのでもないけれど、なんか気になる作家ではあります。

 前に読んだのは、確か『魂萌え!』でしたが、主人公の年代的に、本作品よりそちらの方が面白かったです。

 この作品の主人公は、森脇カスミ。

 北海道の寒村に生まれ育ち高校を卒業したのち、家出をして東京に出てきた彼女は、就職した小さな製版所の社長と結婚し今は2児の母親。

 不幸ではないが、心の渇きから顧客の石山という男と関係にのめりこむ。

 そして、その石山の別荘で、娘の有香が行方不明になり、カスミの心はますます居場所をなくして、さまよい始める。

 

 グイグイ読ませるのですが、私にはちょっと感情移入できない作品でした。

 まず、心にぽっかりと空洞をもっているという主人公の生い立ちから現在に至る人物設定に必然を感じない。

 ま、それでもそういう性格なんだと納得して読んでも、自分と不倫相手の家族全員が集まった別荘で、周りの目を盗んでセックスしちゃうその神経がわからない。

 スリルがある方が燃えるというような、おバカな二人という設定ならわかるんだけど・・・・。

 脳天気ではないけれど、おバカな二人と思えばいいんでしょうか。

 それとも、単に私がエロティシズムの本質を理解できないだけなのでしょうか。

 それと、私が東京と東京に何かを求めて出てくる地方の出身の人たちのことをわかっていないということもあるのかもしれません。

 大阪はもとより関西の都市には、カスミの様に家族も何もかも捨ててやみくもに何かを求めるひとを引き付ける要素は弱いような気がします。

 どうしても娘のことをあきらめられないカスミは夫とも別れ、ひょんなことから末期の胃癌で警察を退職し、余命数か月という内海という元刑事と一緒に娘を探すことになりますが、成績を上げて出世する道具としてしか事件を扱ってこなかった男が、はじめて一人の人間として事件に向き合うというところは、面白かったです。ただ、内海の年齢が30代前半というところが、ちょっと想像できなくて、自分の中では45歳くらいに修正して読みました。

 結末が知りたくて、一気に読みましたが、読み終えてみたら、別に読まなくてもよい作品だったなぁ・・・というのが、正直なところです。

 

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千日紅の恋人 帚木蓬生

2011-05-28 | 小説
千日紅の恋人 (新潮文庫)
帚木蓬生
新潮社

 

 本好きの友達が、そのおばさんからどっさりもらった本を読み終えたのでと、そのままどっさり回してくれた中の一冊。

 帚木氏の作品は、『閉鎖病棟』しか読んだことなかったのですが、なにか読みたいなと思っていましたので、まずこの本を選んでみました。

 まあ、なんと、後味の好い作品。

 2度の結婚は、死別、離別に終わり、今は独身の時子さんは、アラフォー。

 亡くなった父親が残した、扇荘の管理人を母にかわってやっている。

 扇荘は、20年前のドラマに出てきそうなアパート。古いが、家賃が安いせいか空室はない。

 困った住人もいるが、ここを追い出されたらどこにも行くところがないだろうと、時子は辛抱強く面倒をみている。

 そんな扇荘に、新しく有馬さんという青年が入居した。

 若いのに、とてもまじめな青年に、時子さんは少しづつ惹かれていく・・・・。

 というような、シンプルな恋愛小説です。

 ドロドロしたものがなくて、ほのぼのとした世界が広がっていて、なんか70年代のドラマを思わせます。

 深く考えさせるとか、目からウロコが落ちるなんてことは絶対にないけれど、読んだらちょっと嬉しくなるような小説でした。

 帚木蓬生って、こういう小説書く人なんでしょうか?

 確かに『閉鎖病棟』も、そのタイトルや精神病院という舞台から想像するより、ずっと心温まるような小説だったような気もしますけどね。

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サラの鍵 タチアナ・ド・ロネ 著

2011-05-21 | 小説
サラの鍵 (新潮クレスト・ブックス)

タチアナ・ド・ロネ 著

高見 浩訳

新潮社

 

 1942年ナチス占領下のパリで起こった、フランス警察によるユダヤ人の一斉検挙を題材にした小説です。

 サラはパリに住む10歳の少女。

 平和な生活に影がさしたのは、ユダヤ人だということを示す星を、胸に縫い付けされられたこと。

 それまでは普通に付き合っていた人たちから違った視線を向けられ始めたこと。

 そして、ある日、警察がやってきて、彼らはどこかへ連れて行くという。

 一緒に行くのを嫌がる弟を、いつもかくれんぼをしていた、クローゼットに隠して鍵をかけた。

 すぐに帰ってこられると思ったから。

 それまでの間、ここに隠れているのよと言って。

 必ず、帰ってきて開けてあげるからね。

 そして、彼女と両親は、1万人以上のユダヤ人と一緒に、ヴェルディブと呼ばれる競輪場に収容される。

 彼らのほとんどは、その後アウシュビッツに送られて戻ってこられなかったという、フランス人たちが忘れようとしている歴史上の事実に、アメリカ人でパリに住むジャーナリストのジュリアは向き合うことになる。

 歴史上の悲劇と、彼女の人生が交差し、彼女の人生を大きく変え始める・・・。

 最初は、サラの物語と、ジュリアの物語が交互に語られるのですが、50年以上の時空を超えて物語の後半に、結びついていくあたりから、ぐいぐい引き込まれてしまいます。

 サラと弟がその後どうなったのかというそのことを、調べ続けずにはいられないジュリアと自分の気持ちが一体となるような感じで、読み終わってみると、ほんと、構成で読ませる作品だったなぁと思います。(内容がないという意味ではありません)

 誇り高いフランス人たちにとっては、フランス警察が自らナチに協力したという点で、認めたくない歴史上の出来事なのでしょう。

 歴史には必ずダークサイドがあると、この前に記事にした、”逝きし日の面影”の中で著者が何度も書いておられました。

 ナチを題材にした物語は多くあり、ドイツの歴史上のダークサイドは、影というより殆ど表と一体になってしまっています。

 また、日本は、戦争に負けたために、自分たちの行った行為を内外から、告発され、ダークサイドにばかり目が行ってしまう時代がありました。(それでもまだ足りないという人も多くいます。)

 しかし、戦争に勝ってしまったら、なかなかダークサイドをまともにみるということは難しいのですね。

 そういう意味で、戦争は勝ったらよいというようなものではないのだと、当たり前のことですが、感じました。

 本書はジュリアという一人の現代女性の物語としてもとても面白いですし、歴史小説としてみてもとても興味深い本です。

 何の予備知識もなく、たまたま図書館で目についたので借りて、GWにオーストラリアに旅行(里帰り?)に行くのに持って行って読んでいたのですが、現地の新聞にこの映画のDVDの広告を見つけてビックリしました。

 映画のサイトはこちら 

 配役が、小説のイメージ通りで、是非見てみたいのですが、日本では販売されてないのかなぁ。

 <=オリジナルバナー作ってみました。サラの鍵のDVD広告を見つけたオーストラリアゴールドコーストの海岸です。


逝きし世の面影 渡辺京二著

2011-05-20 | 評論
逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
渡辺京二 著
平凡社

 1900円の本なんて、めったに買わないのだけれど、本屋で、ふっと手に取って、衝動買いしてしまいました。

 帯にあった、江戸文化研究者の田中優子氏の「ここに出現している江戸時代日本に、私は渦に巻き込まれるが如き引き込まれ、酔いしれる」という推薦文に惹かれたのですが、本当に、酔いしれるという言葉の通り、読み終わった今は、甘い夢から覚めたような気分です。

 著者は言います。

 われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではないだろうか。つまりすべては、日本文化という持続する実態の変容の過程にすぎないと、おめでたくも錯覚してきたのではあるまいか。

 実は、一回限りの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。それは、江戸文明とか徳川文明とか俗称されるもので、十八世紀初頭に確立し、十九世紀を通じて持続した古い日本の生活様式である。

 文化は滅びないし、ある民族の特性も滅びはしない。それはただ変容するだけだ。滅びるのは文明である。つまり歴史的個性としての生活相対のありようである。

 

 そして、

 

 滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らねばならない。

 

 として、江戸末期から明治初めにかけて来日した主に欧米人の著者を通じて、当時の日本人の”生活相対のありよう”を描き出しているのが本書の内容です。

 

 そこで描かれる日本人ののびやかで、活き活きとしている姿や風景の美しさに、確かに私たちが失ったものを考えさせられると同時に、江戸時代や、明治維新についての認識を新たにさせられました。

 

 何もない本当にシンプルな家、混浴の習慣、社会全体で子供を甘やかしているのではと思えるほど子供が王様なのに、ある年をすぎれば、皆礼儀正しい大人になっていること。女性は抑圧されておらず、父親が子供をあやしている姿も頻繁に目にするし、外国人とみれば、みんなが集まってきてからかう。

 

  貧しいけれど、生活を楽しんでいる様子がうかがい知れます。

 

 読んでいて羨ましくてたまらないのです。

 

 私は近代以前の文明と現代は1945年を境に断絶があるのだと思っていました。

 

 けれど、それより前の明治維新を境に、文明の断絶があったのですね。開国によってもたらされたのは、産業革命後の資本主義社会と、それを支えるプロテスタント的価値観。

 

 例えば、おしんの子供時代が悲惨だったのは、江戸時代の農村の様子となんら変わらず、戦後の農地解放により日本の農民がやっとまともな暮らしができるようになったと思っていましたが、どうもそういうわけではなさそうです。もしかしたら、おしんは、日清、日露戦争による国内の疲弊の象徴だったのでしょうか。

 

 著者の指摘を正しく理解しているかどうか自信はありませんが、私自身、歴史は前に向かって進歩しているものだと、なんとなく考えていました。つまり人類は”進歩”していると思い込んでいたのです。

 

 しかし、そうではなく、歴史はある文明が生まれ育っては滅び、という繰り返しでしかなく、確かに科学は進歩し、近代にいたって”生産力”が飛躍的に伸びたことは間違いないのですが、その裏で滅び去った文明の中で、生きていた人たちに比べて自分たちの方が恵まれているだなんて、どうしてそんな風に思いこんだものか・・・。

 

 本書を読んでいると、この時代の日本人の何も持たないが故に、軽やかに生も死も受け入れ、大きな災難にもしなやかに対応する姿に、当時の異邦人と同じ気持ちで、感動せずにはおられませんでした。

 

 東日本大震災のあと、自然の脅威を見せつけられ、人の傲慢さの極致ともいえる、原子力に牙をむかれ翻弄されている今の日本で、将来を考えるうえで、まず過去をもう少しきちんと理解するために、これほどの最適な本はないと思います。

 

 しかし、日本人というのは、外国からどう見られているかというのをよくよく気になる国民性だと思っていたのに、悪く言われた話は語り継がれるのに、これほど日本人のことを褒めてくれた人たちがいたのに、こういう著作は、あまり語り継がれないんですねぇ・・・・。不思議な国民だわ。(といって、わかる気がする私も日本人です)

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