本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

逃げていく愛 ベルンハルト シュリンク

2011-01-30 | 小説
逃げてゆく愛 (新潮クレスト・ブックス)
ベルンハルト シュリンク
新潮社

 

 『朗読者』のベルンハルト シュリンクの作で、すべて男性が主人公の7編からなる短編集でした。

 朗読者が、私にとっては、ここ10年くらいで読んだ本の中での、トップ10に入る作品のくせに、

 外国文学をやや敬遠してきたため、この作品の存在は全然しりませんでした。

 ここ1年くらい、海外の作家の小説が面白いと思い出して、やっと私のアンテナに引っかかってきたのですが、

  豊かな情感にあふれ、

 長い余韻が残る七つの物語

 なんて、背表紙に書いてあるから、読む前から期待が膨らんでいました。

 でも、その期待はやっぱり、朗読者の延長で、社会派であり、なおかつ心の機微をきちんと表現している作品というようなところにあり、その点では間違いはありませんでした。

 誤算だったのは、ちょっと可笑しかったこと・・・。

 暗くなかったこと。

 7編それぞれの主人公が、みんな、見事に情けないヤツなんです。

 もしかして、作家本人???と思わせてくれるところが、読んでいてホント、楽しかったです。

 

 1つめの「もう一人の男」という作品

 乳がんで亡くなった妻に届いたラブレターの送り主に、元役人だった夫が会いに行きます。自分が役人としても夫としてもそれなりの責任を果たして真面目に生きてきたと信じていた男にとって、妻が昔浮気をしていた相手が、ほら吹きでどうしようもない男だったということが大変なショックだったのですが、それでもこの男が、バイオリニストであった妻の演奏がいかに素晴らしかったかを滔々とスピーチするのを聞き、自分が妻にいかに無関心であったかに気づくというお話。

 この前に読んだ、「自死という生き方」の須原先生にも是非読んでみてほしかった一篇です。

 

 ”割礼”という作品では、

 ニューヨークでユダヤ人の美しい女性と恋に落ちたドイツ人の青年が、彼女の親戚や友人と会うときに、自分がユダヤ人を迫害したドイツ人だということを意識して一人でギクシャクしながらも、彼女を愛し続けようと努力する姿を描いています。

 この可笑しさと悲しさに、日本人だからすごく共感してしまうのでしょうか。

 それとも、二人のことだからもっと素直にいろいろ話せばよいのに、一人で悶々とし、自分だけで決心して割礼までしてしまう、オトコという姿が、万国共通の様に思えて可笑しいのでしょうか。

 二人でドイツを旅行し、ベルリンで青年の伯父さんの家に泊まった翌日、かつてのユダヤ人の強制収容所を見に行こうとする二人に、おじさんは、そんなところに何をしに行くのかをたずねる。

 「当時はどんなふうだったのか、見てみるんです」

 「どんなふうならいいというのかね?ご想像の通りだよ、でもそれは糸人がそんな想像しかしないからそうなっているんだ。二、三年前にアウシュビッツに行ってみたけれど、ほんとになに一つ見るもののないところだった。煉瓦の兵舎がいくつかあって、そのあいだに草と木が生えているだけだ。あとはすべて頭の中の想像なんだよ。」

 という、そしてその後、彼女と少しだけ議論になり、実際にそこを訪ねた印象は、

 オラーニエンブルグでは、おじが言った通りの印象を受けたのだが、それはとても口に出せなかった。彼が見たのは、心を揺さぶるようなものではなかった。頭で想像することの方がよほど衝撃的だった。それはこころを揺さぶるに充分だった。サラとアンディは黙って収容所内を歩きまわった。しばらくしてから手をつないだ。

 という、とても深刻な歴史的な問題と個人、そして生活との不思議な距離感の表現がとても見事だと思いました。

 その他の作品も、どれも面白かったです。

 最近、気が付くとヨーロッパ系、中でもドイツ人の作家をいくつか続けて読んだ気がします。読めば読むほど(ってほどの数でもないのだけれど)、もっと読んでみたいという気になりました。

 しばらくは、海外文学路線で行こうかなぁ・・・。


自死という生き方

2011-01-29 | その他
自死という生き方―覚悟して逝った哲学者
須原 一秀
双葉社

 読んでいる途中は、反感を感じ、 

 読み終わった後、うーんと唸り

 この読後感をどう表現しようかと考え、

 ”いろいろ考えさせれれる一冊でした。”

 くらいしか思い浮かばない自分を、

 グルメ番組で、”うまい!”という感想しか言えないタレントのようだと恥じました。

  

 著者の須原氏は、この本の原稿を仕上げて、”自死” されました。

 彼は、それを哲学的事業と呼び、その”顛末報告として企画されたもの”ということです。

 自死という言葉はあまり使いませんが、本書によると、”自分の人生に十分満足して、もう思い残すこともないというすがすがしい気持ちで、自ら死を選ぶこと”というような意味で使われ、自殺とはあくまでも区別されています。

 須原氏は、65歳で、健康的に、頭脳的にも、そして心理的にもなにも問題はないが、自分の人生に悔いはなく、このままおめおめと老い恥をさらすくらいなら、今、死のうということで、積極的に、機嫌よく自死されたのです。

 この自死に対して、病気や、老衰、事故死など通常の死に方を、「自然死」と呼び、自然死が、実は非常に苦しいものだということを、ヌーランドの「人間らしい死に方」という本を根拠にして主張されます。

 要するに、自分は、これ以上老い衰えていく自分自身を見るのも嫌だし、病気で苦しんで死ぬのもいやなんだから、その前に自分で死ぬんだけれど、それは自然死に比べて非難されるようなものじゃないんだ、だからこういう死に方を認めてくれ!ということを、豊富な知識で、滔々と述べられているのが本書といえば辛口過ぎるでしょうか。

 氏の主張も納得できるところも多いし、頭から否定する気はない。

 それに、私はクリスチャンではないので、ご自身が幸せに逝かれたのなら、それはそれでよかったと思います。

 しかし、この逝き方を、ソクラテス、三島由紀夫、伊丹十三の死と共通するものがあるとし、「葉隠」に見られる武士の命への執着の希薄さに照らし合わせて述べたうえで、社会的に認めてほしいという主張に対しては、反発を感じました。

 自分は、健康な時はやっぱり生き続けたいと思う。

 人生、いくつになってもまだまだいいことがあると思いたい。

 私自身が、若くはないとはいえ、48歳で、本当の意味での老いをまだ感じ取れず、死について、真剣に考えたことがないからだと言われれば、それまでだけれど。

 でも、私が氏の意見に同意できないのは、自分自身を信用していないからかもしれない。

 私の父は、”ボケたりしたら、施設にでもどこでも入れてくれ”とか言うし、

 旦那は、”そうなったら殺してくれ”とか言う。

 けれど、施設に入れるにはお金がかかるし、いくら頼まれても殺したら、私が犯罪者になる。

 でも、本当にそんなことになったら、その時に家族に”自死”してくれ!って思ってしまうかもしれないから。

 それに、自分が、もう少し年を取って、年金制度が崩壊し、健康保険制度も崩壊し、苦しい生活になったとき、自分より上の世代にもっと”自死”してくれと呪ったりする自分を正当化してしまいそうだから。

 だから、反対したいのです。

 そして、自分自身の死に関しては、病気になって、苦しかったりした時には、安楽死させてほしいと願っています。

 だけど、”それが受け入れられないのがわかっているから、今死ぬんでしょ!”って著者に怒られそうだなあと自分で可笑しくなってしまいました。


46年目の光 -視力を取り戻した男の奇跡の人生

2011-01-23 | ノンフィクション
46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生
ロバート・カーソン
エヌティティ出版

 

 分厚いけれど、読みやすい本でした。

 3歳の時に、事故で視力を失い、46年後に、視力を取り戻したマイク・メイという人物伝です。

 私自身は、”脳の働き”に結構魅せられていて、オリバーサックスの著書やまた、そのものずばり、”見る” というような本を通じて、目が見えないひとの感覚や、見えるようになったことの戸惑いや悲劇などを読んだことがあり、その時に十分衝撃を受け、本書にもとても期待していたのですが、既にそういった本で紹介されたこと以上の驚きはなく、ちょっとがっかりでした。

 むしろこの本は、マイク・メイという人が、盲人としても超ポジティブで、活動的。その後、目が見えるようになったことで、直面した問題を、どれだけ前向きに乗り越えたかということが、テーマなのであって、脳の働きがどうのこうのということが語られている本ではなかったので、私の勝手な期待をしたのが間違いだったのですけどね。

 結局、彼は見えるようにはなったのだけれど、見えるものを解釈する脳の部位が反応せず、人の顔をみても表情は読み取れず、歩いていても階段と、道の上に書かれているただの線との区別がつかないなど、決して私たちが単純に想像するほど、いいことばかりではないのだけれど、同様の経験をした人たちのように、鬱にはならず、持ち前のポジティブ精神で乗り越えていくところなどは、尊敬に値します。

 が・・・・、あまりにもポジティブ過ぎて、共感しにくいというか、本当かなぁという気がしてしまいました。

 これは、ノンフィクションだからこんなことを感じることの方が間違っているのですが、物語としては、少し深みがなくて、物足りない。

 アメリカという国では、こうやって”身障者”でも、”弱者”として生きるのではなく、自分で道を切り開くということが特に好まれるのだと思いますし、前向きはもちろん決して悪いことではないのだけれど、こういう物語が好まれることと、全国民が入る健康保険制度が成立させられないこととは、深い関係があるのではと思わずにおられませんでした。


灰の庭 デニス ボック

2011-01-22 | 小説
灰の庭
デニス ボック
河出書房新社

 

ドイツ系カナダ人作家による、原爆を扱った小説。

図書館で手に取って表紙をめくって

一九四五年八月六日、広島。一人の少女が被爆した。

五十年後、少女は原爆投下に関わった亡命ドイツ人科学者と

ユダヤ系移民である彼の妻に出会う。

巧みな設定と絶妙な語りで「善悪の是非」を問う大傑作!

とあるのを見れば、借りないわけにはいかない。

少女の名前はエミコ。

彼女は、顔面に酷いやけどを負ったが、その後アメリカで治療を受ける機会を得て渡米。

原爆投下に関わった亡命ドイツ人の名前はアントン。

ドイツで原爆開発に関わっていたが、同僚と意見の喰い違いに、研究の限界を感じて亡命し、アメリカでマンハッタン計画に参加し、原爆の完成、そして投下に関わった。終戦後ヒロシマに調査に入り、惨状を目の当たりにし、心を閉ざす。

彼の妻の名は、ソフィー。オーストリア系ユダヤ人で、大戦中に両親が、彼女一人を亡命させる。最終的にアメリカにたどり着いた彼女は、収容所にいたところを、アントンと出会い、連れ出してもらう。

心を閉ざし、仕事に打ち込む夫、故郷との断絶で、彼女は孤独で、イタリア人の男性と関係を持ったこともあるが、アントンと離れることはできない。

年老いたアントンは、不治の病に侵されたソフィーとカナダの田舎町に引っ越すが、毎年8月になると、ニューヨークでの講演に出かけていく。

1995年、講演を終えたアントンに、ドキュメンタリー映像作家となったエミコが、歩み寄りインタビューを申し込むところから物語が始まる。

 そして、この3人の現在と過去がランダムに語られていきます。

それぞれに、故郷と断絶し、孤独の中を生きている3人。

エミコが、インタビューのために訪れた日の翌日、ソフィーは静かに息を引き取る。

アントンは、ソフィーの願いで、次の発作が起きたときは、救急車を呼ばずにそのまま逝かせてやるという約束をさせられていた。

彼は、原爆が落とされ、そして残骸となったヒロシマの町を見たとき、”これで戦争を終わらせることができた”と思った。命を救ったのだと。

妻の苦しみを見かねて、最期を迎えさせてやったように、”日本を逝かせてやった”という意識が、あるのだろうか。

日本人とすると、”アメリカ人”が、この手の発言をすると、どうしても反発してしまう。

アメリカ人には、特に原爆を開発したり、落としたりした当事者には、もっとわかりやすい、”後悔に打ちひしがれた姿”を見たいと思ってしまうからだ。

けれど、そういうメンタリティでは、決して理解は生まれないのだと思う。

エミコは、単純に科学者として自分の研究を自由にできる場を求めてドイツから亡命したアントンが、1940年当時、ドイツにいて世界の情勢を知らなかった、自分の研究の意味も分かっていなかったというアントンに、そんなことは信じられない、責任逃れだとつめよるが、アントンに

「じゃあ、その疑問を自分にぶつけてみるといい」

と言われて、意味が分からずぽかんとする。

「なぜ、日本はあれだけ戦ったのか。国策としての戦争に、ほとんど反対の声があがらなかったではないか」

とのアントンの言葉に、日本人なら老若男女を問わず、大多数が、”国民は騙されていたのだ”と答えるでしょう。

私自身、そのことを否定するものでもないが、しかしだったら、無罪なのかということを、日本人は今こそ考えてみる必要があると思う。

ただ被害者としてのメンタリティだけで、世界に非核を叫んでいることを、逆の立場から見れば、どんな風に見えるのか。

被害者の立場から抜け出せない限り、世界は耳を傾けてはくれないだろう。

日本人が、この小説を読むことの意義は、そういう視点に立ってみる機会を得られるということではないかと感じた一冊でした。

 


怖い絵 

2011-01-22 | 評論
怖い絵
中野 京子
朝日出版社

 

 少し前に話題になっていたので、読みたいなぁと思っていましたが、忘れたころ、やっと図書館で見つけました。

 見た目にぞっとするもの、全くそうでないもの含めて20作品を取り上げて、その絵の裏にあるエピソードを紹介しています。

 作品1 ドガの「エトワール または舞台の踊り子」 

  ドガの描く踊り子が、ある種の娼婦であるということは聞いていましたが、歌麿やロートレックが、そういう女たちを彼らなりに愛して描いたように、ドガもバレリーナ達に愛着を持っていたのだと思っていましたが、「ドガは彼女たちの顔をことさら醜く描き、それが労働者階級特有の顔であることを示した、との説まであるくらいだ」という文章を読んで愕然。「ともあれ、ドガが描く踊り子たちはどれも個性がないのだけは確かである。誰がだれでもいっこうにかまわなかったのだろう。」と言われると、そういえばそうだなぁと思うのだけれど、でもパッと見で、とっても可愛らしいバレリーナ達の姿と、パステルの優しさで、今までそんなこと思いもしなかったので、かなりショックでした。

 

 作品10 アレテミジア ジェンティレスキ 「ホロフェルネスの首をきるユーディッド

  これは、もう見た目に凄惨な殺人シーンですが、これを書いたのが女性画家というのでビックリ。ユーディッドは、彼女が住む町を包囲したアッシリアの将軍ホロフェルネスを籠絡し、すきをねらって首を切り、町を救ったのですが、それにしてもこの絵のリアルさ・・・。技法上の師であるカラバヴァッジョの同じテーマの作品が、かすんでしまいます。彼女自身が、レイプされたという経歴があるというエピソードが紹介されて改めて、絵をみるとユーディッドの顔つきに納得。

 *旦那から同じテーマでクリムトも描いているよと教えられました。これはまた首を切って恍惚としているユーディットの表情がセクシーでビックリです。

 

  作品16 ジョルジョーネ 「老婆の肖像」 (このサイト の2番目の絵です)

 この絵をみて、醜いと思う感性が私にはないので、この絵はちっとも怖ろしくはないのだけれど、当時の人々の考え方から言って、若い女性は美しく、老いは、忌むべきことで、画家は、この絵で老婆も持つ老いを冷徹に描いているそうです。ただ、この絵についての、著者のコメントで面白いと思ったのは、「皺の一本も見逃さず、ねじけた心性まで抉り出さんばかりの迫真力だ。これでもかと老醜が協調される。そしてその冷徹な写実性によってジョルジョーネの老婆は時空を超越した」というところ。そう、このイメージは、500年前に描かれたとはとても思えない。ジョルジョーネの宗教画や、”眠れるヴィーナス”などが、一目でルネッサンス期の作品だなぁという、ある意味の時代性が全面に出ているのに比べて、確かに驚くほどこの絵は新しい。やはり、思いや偏見は、対象を見る”目”に影響するんですね。

 

 このほかも、とっても面白いエピソード満載で、評判通りとても面白い本でした。続編が出ているので、それもぜひ読んでみたいと思います。

 

 ちなみに、こちらのブログで、本書で紹介されている絵の画像がもっと紹介されています。


わが家の母はビョーキです

2011-01-22 | エッセイ
わが家の母はビョーキです
中村 ユキ
サンマーク出版

 

 コミックエッセイですが、かなり壮絶です。

 作者の中村ユキさんが4歳のときに母親が、統合失調症を発症。

 ギャンブル癖があり、まったくあてにならない父親には見切りをつけ、母子二人暮らし。

 9歳の時、ある夜に目が覚めたら、枕元で母親が包丁をもって、自分を刺そうとしていた。

 そんな母を子供ながら健気に支えて成長した著者だけれど、

 それはそれは厳しい生活。

 そんな著者がマイペースの、タキさんという伴侶と巡り合い、

 家庭で、母と自分以外のもう一人の人間ができたことで、

 少し心に余裕がでたのかもしれないが、

 明るく今までのことを書いておられます。

 最近は、うつ病は、誰でもがかかる病気として認知度が高まっていますが、

 統合失調症については、まだまだ、理解されておらず、

 家族に患者がいても、隠そうとするのが普通じゃないでしょうか。

 家族は周囲に知られたくないと思い、相談できずに、抱え込んでしまうことも多い。

 また、著者の母の場合、当初病院には行っていたものの、やはり恥と思うのか、

 自分の状態を正しく話しておらず、入院が必要になるまで、かかりつけの医者が

 症状をまったく理解しておらず、的外れな薬を処方していたというエピソードなど、

 この病気の診断や処置の難しさを端的に示していると思いました。

 どんな病気でも、明日はわが身。

 勇気あるカミングアウトで、しかもとてもとっつきやすいマンガという媒体、

 この本で、少しでも統合失調症の社会的認知度が高まり、

 この病気で苦しんでいる、患者やその家族たちの負担が軽くなることを祈ります。


日本語の作法

2011-01-19 | エッセイ
日本語の作法
多田 道太郎
創拓社

 

 1996年に出版された、日本語に関するエッセイです。

 古本屋で100円で売られていたのを買って読んだのですが、賞味期限切れで、腐ってはいないので食べられないことはないけれど、味はかなり落ちていました。

 私はあまりエッセイを読むほうではないのですが、身の回りの出来事などを書くことが多いこのジャンルの本で、何年たっても古臭くならないような文章を残すというのは難しいのでしょうね。

 戦後間もなくの頃、ある東北のお嫁さんが、1日に1つか2つの言葉しか喋らなかったという調査結果があったということから、”今の日本人はよく喋る”と嘆いておられるのですが、これなんかももう今では通用しない話ですよね。

 確かに、”よく喋る”ということは、軽薄と紙一重ということは間違いないのだけれど、やはり言葉にしないでも、わかり合えるということがもう幻想になってしまった今、そんなことはいっておられない。

 それに、世界の中で、これ以上、”何を考えているかよくわからない日本人”でいるわけにもいかない。

 そんなわけで、ちょっとしたエピソードは面白いのだけれど、退屈してしまった本でした。

これが、押入れを整理していたら出てきた、昔の週刊誌にあったコラムをつい読んでしまったというシチュエーションならもっと楽しめたかなぁ。

しかし、1996年ってついこの間のような気がするのに、まだこんなことを言っていられた時代なんですねぇ・・・。