この本に出会ってよかったです。
実は、私のダーリンは難聴です。だからこそ図書館でこの本が目に留まり、手に取ったのですが、そうでなければ絶対に読まなかったと思います。
「見かけは健常者、気づかれない障害者」とサブタイトルにありますが、彼と出会ったときに最初に自分の障害の困難について語られたのもほぼ同じ意味のことでした。彼との生活の中で耳が悪いと言う事実には慣れてきているのですが、その困難の内容について深く考えたことはなく、この本はパートナーを理解するために大変プラスになりました。
中失、難聴者はコミュニケーションの障害者なのに、コミュニケーションがうまく行かない時、つまり意思疎通が難しい時に、耳の障害そのものが責められるのである。
そうなんですね。我が家の場合、ダーリンが外国人で英語でのコミュニケーションのため、私が話した内容が彼に理解できなかった場合100%自分の英語表現の問題だと思っていたので、苛立つのは自分の英語力に対してでした。でも今思えば、彼の国に行ってあちらの健聴者の方も交えて話をしたときは、彼以外の人は分かってくれて、彼だけが分からないということが確かにありましたねぇ。
また家族の中でさえも孤立してしまうというのも、彼の家族が集まったときに感じましたが、それを彼の耳と結び付けて考えてみたこともありませんでした。でも、今思えば、そうか・・・と思うシーンがいくつも目に浮かびます。
興味深かったのは、和田秀樹氏の「異国体験と精神病体験」という論文からの引用です。論文は、氏が異国生活で直面したコミュニケーション不全の体験が精神分裂のメカニズムと似ていると言うような内容ですが、それはまた聴覚障害者の困難ととてもよく通じるというものなのです。実はこれも私自身も体験があります。
ダーリンの国へ行ったときは、彼の家族や友人と食事をする機会などがよくあります。私は一応英語は話せるものの、ネーティブの会話に遅れずについていけるほどの英語力ではないため、どうしても話しに加われないのです。気の利いたコメントでもできたらと思うのですが、自分が話す表現を考えているうちに話がどんどん進んでしまい、タイミングが全くつかめず、ただニコニコ笑って聞いているだけになりがち。日本人同士ならそれでもよいのでしょうが、寡黙が美徳ではないあちらの社会ではやはりそれでは、ちょっとバカっぽい。だんだん落ち込んでいった私に、ダーリンは”自分も耳が悪いから、いつもそう思ってきた。気持ちはよくわかる”と言ったのです。あぁ、この人となら文化の違いを乗り越えてやっていけると思った瞬間でした。
この本の書き方や様々な事例、分析の内容が、聴覚障害者と全く接点のない人たちの興味をどのくらい引くか私にはわかりません。が、もっともっと多くの人に知って欲しい。なぜなら、健聴者でもかなりの割合で年をとれば耳が遠くなる。その時に人とのコミュニケーションを恐れてひきこもったりしたくないはずですから。
ひとつダーリンからのお願い。歩道を自転車で走る人は、人の横をすり抜けるときはスピードを十分に落としてください。耳が悪いと、気配はわからないし、ベルを鳴らされても気がつかないので、すぐ横をすり抜けられたとき、心臓が止まるかと思うほどびっくりするんだそうです。夜なら必ずライトをつけてください。