本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

いまどきの思想、ここが問題。 小浜逸郎

2005-10-31 | 評論

 いまどきの思想、ここが問題。 小浜逸郎 PHP

 思想なんてガラではないのですが、すっごく面白かったです。それに、なんか得した気分です。

 なんで得した気分になったかというと、大江健三郎、吉本隆明(&小林よしのり)、上野千鶴子など、オリジナルでは私には、歯が立たないような(実際、なんどか試みたが、跳ね返されている)人の著作や思想について、少~し理解できたからです。もちろん、この人の考えが正しいかどは限りませんが・・・。

 それに、まあ、自分をいじめる人に自力で立ち向かえないけど、誰が別の頭のよさそうな人が、批判をしていたりすると、なんかすっきりするでしょう(しないか?)。そんな気分です。

 著者の小浜氏については、全く何の予備知識もなかったのですが、インターネットで調べて見ると”保守、革新といった旧来のイデオロギーとは一線を画した、生活人の実感を尊重した議論で支持を得る一方で、小市民主義といった批判もある。”という批判もあるとあり、そこは納得です。生活人の実感を尊重したら、どうしても小市民主義と言われてしまうんですよね。いいじゃないですか。

 沢山メモしておきたい文章はありましたが、その中の一つ

 だが、私どもの世代は、戦争そのものを知識としてしか知っていず、したがって自分が「あの戦争」に対して、あたかもある感情的思い入れを持ってるかのように装うことはできないし、そうすべきでもない。戦争経験者達の、戦争解釈を巡る暑い議論に自らも見てきたような顔をして加わるわけにはいかないのだ。自分の生にとって必然性のないところで、、ある解釈にナイーブに加担することは、結局あるイデオロギーの安易な選択に走る事にほかならない。

  ちなみに小浜氏は、1947年生まれ。団塊の世代です。

 先日読んだ、ぼくのキャノンの著者(1970年生まれ)は、登場人物の小学生の男の子にこう言わせます。

「歴史を忘れないことと怒り続けることは同じじゃない。オバァたちのように怒ることなんて僕には出来ない。戦争体験がないことを恥ずかしく思わせるのはやめてくれ。」

 ちょっと、似たようなところがあるなと思いました。ただ、このぼくのキャノンでは結局の所、”怒り”を伝えてしまったようで、争いは続くんですよね。

 小浜氏のいうように、 やはり戦中、戦後派が進歩派と保守派にわかれて、イデオロギー(多分この場合、偏りがあるというニュアンス)論争に終始してしまったために、多くの人の納得の出来る戦争総括ができていなかったことが、今私達が、隣国から責められてはオロオロし、遠い国から無責任と言われてはまたオロオロしてしまう、その原因だったのでしょうか。

  また教科書問題にも言及しており、日本が細かい事実の次元でどんな悪いことをしたかしなかったかを決することにエネルギーを集中させるより、人間は一般に何をするかわからない存在だという文学的想像力を育てる素材として戦争を取り上げるべきと述べておられます。

 今は、中国や韓国に言われっぱなしで、ひたすら平身低頭してきた反動からか、「日本は何も悪いことしてない!」といいはる人たちの意見も取り上げられるようになりました。とはいえ自分の親の子供の頃の経験を聞けば、まあ今から考えたらかなり酷いこともしてきたんだろうなと信じざるをえません。しかし、だからといって、歴史を勧善懲悪ドラマのように白か黒で総括することもできませんよね。少し前にブログに書いた、”貝になった男”など、文学的想像力を育てる素材としては、よいのではないかと思いました。

とにかくもっと、この人のものを読んで見たいと図書館で、もう一冊ゲットしました

  人間アカデミー (小浜逸郎氏主催) <== ここでも、この人の評論が読めます

 


となり町戦争 三崎亜記

2005-10-29 | 小説

  となり町戦争 三崎亜記 集英社

 主人公の独身サラリーマンは、自分が住んでいる町が、ある日となり町との戦争をはじめたことを、町の広報誌で知ります。その後、突然、特別偵察業務従事者に任命さ、任務は、毎日の通勤時、車でとなり町を通過するときに見た様子を報告するということ。しかしそこには、いつもどおりの光景が広がっているだけ。いつまでたっても、どこで、誰が、何のために戦争をしているか全くわからないのです・・・・。

 私達は、地球のどこかで戦争が行われていることは知っている。そして戦争がいけないことであることも知っている。でも、知っているというだけなのです。

 今週、会社で、関係先の若い社員の新婚旅行のお土産ですとメモのついたバリ島のチョコレートが、置かれていました。テロだって、一種の戦争です。しかし彼にとっては、特にそんな意識もなく、楽しんで来たのだろうと思います。もしかしたら、今月はじめに爆発があった場所を見に行って来たかも知れない。そして、私がそのチョコを見て、「今、バリに行くなんて、”勇気”のある奴だなぁ」と言うと、横にいた、同僚の若い社員からは、「え、バリってなんかあるんですか?」という反応。「こないだテロがあって、日本人も一人死んだじゃない」というと、「あー、そう言えば・・・」となんとなく思い出した様子なのです。たまたまバリだから、私も覚えていましたが、例えば、スーダンだったら、なんか内戦やってる・・くらいの知識しかありません。

 この本には、こういう感覚が、絶妙に小説化されています。突拍子も無い設定で、戦争のリアリティは全くない。でも私達の住むこの社会のリアリティが、恐ろしい程描かれていますね。

 著者は、1970年生まれで、「僕のキャノン」の池上永一さんと同い年です。沖縄出身の池上さんが作り上げた世界と三崎さんの”となり町”とは、かなり違いますが、両者とも、今の社会に対して感じておられる違和感のようなものに共通点があると思いました。

 私は、池上さんの他の作品には、あまり興味がありませんが、三崎さんはもう少し読んでみたいです。五木寛之氏が、「卓抜な批評性か、無意識の天才か」と評しておられますが、ほんと、淡々すごい世界を作り上げたように見えるこの著者の今後の作品に注目です。11月に第2作目出版とのこと。楽しみです。


ぼくのキャノン 池上永一

2005-10-26 | 小説

  池上永一 文藝春秋

 読みながら、マンガだなあと思っていたら、やはりこの作家はマンガ家を目指していたそうです。

 沖縄で一番豊かなある村では、村人は、第二次世界大戦中に日本軍が残した大砲を守護神としてあがめている。絶対的支配者であり、巫女でもあるマカトオバァが、同世代のチヨと樹王の3人で守り抜こうと決めた村の秘密が、NYの世界貿易センターの崩壊をきっかけに、暴かれ始める。

 この村には”寿隊”という美女軍団があって、お色気を武器に村の敵を骨抜きにしてしまうのですが、この寿隊の出陣時のきめ台詞が「コトブキ」(本当にハートがはいっている)なのです。「月に代わってお仕置きよ」っていうのと殆ど同じですね。こういうギャグがあちこちにちりばめられていて、ギャグマンガのセンスが理解できない私は、シラーとしていたのですが、アマゾンのレビューを読んでいたら、「ゲラゲラ笑った」とありビックリ。「笑い」は世界共通ではないとは思ってましたが、世代共通でもないのですね。あたりまえか・・・。

 心に残った台詞(マンガみたいだからやはり台詞としか言い様がない)がひとつだけありました。

「歴史を忘れないことと怒り続けることは同じじゃない。オバァたちのように怒ることなんて僕には出来ない。戦争体験がないことを恥ずかしく思わせるのはやめてくれ。平和がやってきたからいいじゃないか。もう忘れよう。・・・・。」

 しかし、著者が何を書きたかったのかは、私にはわかりませんでした。登場人物があっさり人殺しをするあたりは、マンガやゲームの影響なのかもしれませんが、「そうまでしても守るべき物がある」といいたいのか、人殺しをギャグストーリーの中に織り込んで、その馬鹿馬鹿しさを笑おうとしているのか。はたまた、そんなことではないもっと深い意図があるのか、ないのか。

 

 


硫黄島 菊村到

2005-10-23 | 小説

硫黄島 菊村到 角川文庫

 今年も小泉首相が靖国神社に参拝して、隣国からの不興を買っていますね。毎年のことにうんざりしながらも、我々日本人にあの戦争を風化させてはならないという警鐘と考えれば、非常に効果をあげていると思います。

 この本は、あの戦争に出兵し戦死しなかった人たち -生き残り- の話を集めた短編です。

 ドラマでは、出生した兵士が帰ってくると、殆どの場合はそれでハッピーエンドとなるのだけれど、生き残ってしまった兵にとっては、その後の生活と自分達がくぐりぬけた地獄をどう折り合いをつけるかという大きな苦しみがあったのですね。読んでいて、不謹慎かもしれないけれど、戦死した人はまだ幸せだったのかもしれないなどと考えてしまいました。

「しかばね衛兵」という作品の中で、行軍中に沼にはまって死んだ兵隊の遺体そばで、不寝番の二等兵は、こう言います。

あいつらがおれたちから自由をもぎとることができるのは、たんにあいつらが死体だという理由によってなのだ。あいつらはただあいつらがすでに死んでしまっているというそのことだけで、おれたちを支配しているだ。

 戦場では、死は敵によってもたらされるとは限らないのです。常に死と隣り合わせの状況では、自分の弱気や、迷い、恨みが、味方の死をもたらすこともある。死は敵からもたらされたものであれ、味方からもたらされたものであれ、生き残った側に圧倒的なプレッシャーを与えるのでしょうね。

  タイトルになった硫黄島は、昭和32年の第37回芥川賞を受賞しています。

 で、この作家について全然知らなかったので、インターネットで検索してみたところ、この作品からは全く想像できない「愛は殺しのライセンス」とか、「隠れ刑事欲望編」とか、ちょっとエロっぽいものが沢山ヒットしました。同姓同名の別人ねって思ったのですが、どうもこれが同じ人のようでビックリ。晩年は官能作家として知られていたようです。官能小説で名前がある程度知られたら、本格小説に行くっていうパターンは想像できますが、その逆っていうのは珍しいんじゃないでしょうか。この人にますます興味が沸いてきたわぁ。本屋で買うのはちょっと恥ずかしいけど、今はインターネットで本が買えるから、買って見ようかしら


時生 東野圭吾 

2005-10-22 | 小説

 時生 東野圭吾 講談社文庫

 今朝は、この本を通勤電車で読んでいて、降りる駅が近づいたのに顔が上げられなくなってしまいました。

 生まれても大人になるまで生きられるかどうかわからないグレゴリウス症候群という病気の遺伝子をもった妻が妊娠したとき、宮本はどうしても生んで欲しいと頼んだ。生まれてきたその子は、17歳の若さで今、死を迎えようとしていた。その子の死を前に、宮本は妻に23歳のときに自分は息子にあったのだと打ち明ける。そしてその時の息子との出会いがなければ今の自分が無いということを。

 息子との過去の出会いが無ければ、妻との出会いも無く、そして息子も生まれない。そんなメビウスの輪のような時間を描いた、荒唐無稽と言えば言えるストーリーだけれど、なんか心にすーっと入り込んでしまう、さすが東野さんはうまい。

 時間って何なのでしょうね。柳澤桂子という人が般若心経を科学的に解釈して話題になっていますが、そこには物質についてはこう書かれています。

宇宙は粒子に満ちています

粒子は自由に動き回って 形を変えて お互いの関係の安定した所で静止します。

(中略)

物質的存在を 私達は現象としてとらえているのですが 現象と言うものは時々変化するものであって 変化しないと言う実体というものはありません

 なんとなく私が理解できるのは、空に浮かぶ雲は地上から眺めれば確かに形があるのだけれど、実際にその雲の近くまでいくと形はどこにもないということ。そして自分自身も実は雲のような存在なんだということですよね。自分が雲なのであれば、自分の悩みや喜びもまたそれは、雲のように形のないもの。

 では、時間はどう解釈すればよいのでしょうかね。昨日あったことは、自分の記憶にあるが、明日起こることは、まだ記憶にない。記憶があるから時間がある。ではその記憶を失った過去の出来事と、未来の出来事の違いは・・・・。なんていろいろ考えてしまいました。

 それと、私は個人的嗜好として、父と息子のストーリーに弱いのです。映画で言うと、「海辺の家」とか、「オーロラの彼方へ」とか「父の祈りを」とか、「リトルダンサー」とか・・・・・。本では・・・・あまり思い出せないなぁ。

 とにかく、今を大切にしないといけないんだなぁ・・・・って思いました。

 


シャトウルージュ 渡辺淳一

2005-10-18 | 小説

 渡辺淳一 文春文庫

 官能小説です。

 心の通い合わない夫婦で、セックスレスになって1年。夫は。お嬢さん育ちで気位の高い妻を性的に目覚めさせようと、フランスのある組織に”調教”を依頼する。その調教で、妻がどんどん変貌していくのに、驚き、恐れそして興奮する夫。やがて帰ってきた妻は、その経験が忘れられずに、夫を捨てて、フランスへ帰っていってしまう・・・と言う話です。

 少し前に読んだ、”まれにみるバカ”の中で、著者の勢古さんが、渡辺淳一と、この本を、ケチョンケチョンにけなしていたので、逆に興味が沸いて買ってしまいました。勢古さんの以下のような指摘は、的を得ていると思います。

 話が荒唐無稽なら、文章のお粗末さもあいかわらずである

 "肝心かなめの「調教」の内容も描写も全く凡庸である。これが致命的だ。「僕はたまりかねてのけ反り、昇天する」だの、「秘所」だのという中学生みたいな描写である」

 では、面白くなかったかと言えば、最後まで読んだら結構面白かったのです。夫の視点でずーっと進行していて、読者である私は、かなり夫の立場に同情していたのですが、最後の最後に妻の手紙で彼女の気持ちが明かされ、はっきりいって、どっちもどっちだったんだぁと言う事がわかるのです。これもひとつのドンデン返しですね。

 渡辺淳一がこれを大真面目な官能小説として書いたのなら、彼は作家としてオワッていると思います。勢古さんの言うとおり、バカです。が、もし軽いノリで書いたとしたらさすがです。”描写が凡庸”なのは主人公の未熟さの象徴であったわけですよ。そんでもって、途中セックスなどについて講釈をたれるのは決して作者の価値観ではなく、あくまでも主人公の価値観。著者自身もこの主人公をバカと設定していると言うことです。

 しかし、これを読んで、この主人公って”小谷野敦?”(”もてない男”の著者)と思ってしまったのですが・・・・。いやいや小谷野さんがバカといっているわけではありませんよ・・・。でもこんな幻想抱いてそうには見えますねぇ。 


スカートの風 呉善花

2005-10-16 | エッセイ

   スカートの風 ---日本永住をめざす韓国の女達

 今日たまたま本屋で、”マンガ嫌韓流” というのを見つけました。ペラペラとめくって見ましたが、結構過激そうだったので、ちょっと考えて買いませんでした。

 この本は、母が参加しているメーリングリストで、あるおやじが、”日本の女性達は、ヨン様ヨン様と騒ぐ前にいろいろ韓国のことも勉強しろ!”といって紹介してたらしくて、面白かったよと言って貸してくれました。その親父も一種の”嫌韓流”なんでしょうかね。

 地理的に近く、古くから多くの移民(渡来人というのでしたか?)を通じても日本の文化に多大な影響を及ぼしてきた朝鮮半島の人々の事を、誤解していたんだなぁと気づかされました。例えば西洋人や、同じアジアでも中東やインドなどの人々に対するときは、”自分達とは違う人たち”というところから始まります。でも、朝鮮半島や、中国の人々に対するときは、なんというか、遠い親戚のような気になっているのです。会ったことはないけれどある種の伝統を共有しているというような思い込みがありました。違いますねぇ。

 この本は、1990年頃に書かれたものの様で、今の韓国の実情はかなり変わってきていると思います。が、かなり示唆にとんだ指摘も多くあります。「日本人には夢がない。韓国人ははっきりとした夢をもっている。それは”権力と金”である。男性は直接それを手にするのが夢。女性はそれを持った男を見つける事が夢。少しでもよい男を見つけるために、整形も厭わない。」 韓国ではごく普通にみんな整形するって聞いていましたが、こういう背景があったのねぇ・・・。

 日本にも様々な悪しき伝統などがあり、祖国を捨てて外国に飛び出して行った人たちはたーくさんいます。そういう人たちの中には、”日本のここがおかしい”と本などを書いている人たちだっていますから、彼女が日本という外国に馴染んで、その国と自分の国の文化や伝統を比較し、祖国を批判するというのも理解できないわけではありません。日本人としては、心地よいです。だからこそ、もう少し資料や統計などを示して、自分の主張の脇を固めていく必要があるのではと思います。そうでないと、日本人としては褒められてこそばゆいけど、どこまで信じていいのかなぁと不安になりました。

 ちなみに、私は韓流には乗っていませんが、悪いことだとは思いません。ヨン様をきっかけに、ハングル語を学習する人が増えたり、在日の人たちが自分達の祖国に誇りを持つことができたりと、いいことじゃないですか。まただからこそ、韓国に批判的な文章にも注目されるのだと思います。

 ただ、ヨン様を追いかけてあちらまで出かけられる方は、それなりにきれいにして置かないと、韓国女性から見下されますよ~~~。ただでさえ、日本人を見下したくて仕方がないんだから。


もてない男  小谷野敦

2005-10-15 | エッセイ

  もてない男  小谷野敦  ちくま新書

おもしろかったです。  

 もてない男について書かれているというより、もてない男が、もてない男としての観点で書いた文芸評論です(が、著者があとがきで、エッセイだと言っているので、カテゴリをエッセイにしました)。

 各章の終わりにはその章のテーマにあった本が紹介されていて、読書案内としても楽しめます。

  日本の男の人はあまり自分のことをおおっぴらには語らないと言われているけれど、おおっぴらに語りたがる男たちも結構います。それはもてると自分で思っている男達による自慢です。もてない男はわざわざもてない苦しみなんて語りませんよね。だから、そういう男達の心理ってなかなか知る事ができないので、新鮮でした。  

 著者は、”もてない男”は、”性欲”をという生理を満たす手段に不足している男ということではなく、”生身の他者にセックスのような形で自分を受容して貰いたいという欲望”が満たされない男だといいます。上野千鶴子は、”そういう男はコミュニケーションスキルを磨け”と言うのだけれど、セックスならソープに行ってスキルを磨くこともできるけれど、恋愛の相手が見つけられない物がどうやってスキルを磨けばいいんだと反論します。

 ”それは水に触れさせてもらえない者に水練を勧めるようなものだ”

というのです。そういった男が運良くスキルを磨く場を与えられ、成長したのが”電車男”だったのでしょうかね。  

 また、現代は自分を含め、男たちにとって友達を作りにくい時代だといいます。 

 昔の男の友人関係と言うのは、女性を犠牲にして成り立っているようなところがあった。だから女性の解放が進んだ結果、割りを食ったのは私のような友達のできにくい男なのかもしれない。逆に女の人が友達関係に依存する割合はすごく高い。  

女の人が、結婚なんかしなくていい」と言うとき、友達がいればいい、と言う人が多いけれど、男はそもそも友達がいないから結婚して孤独から逃れたいと思うのだ。

 なんて、なんとなく納得してしまいました。

 ただ、著者の小谷野氏は、結局は、”なんでぇ! もてない男のどこが悪いねん。確かに見た目は悪いかもしれんが、頭はええでぇ。それに気づかないで、ちゃらちゃらした男ばっかりもてはやす女達があほなんじゃぁ”なんていうひがみ根性(本の中では、”法界悋気”と難しい言葉を紹介されてます)でこの本を書かれたようですが、こういうネガティブな心根をもった人間は近くにいればいやな奴って、無視してしまいそうですが、そのネガティブパワーも、ここまで徹底すれば、結構ポジティブパワーになるんだなぁと妙に感心してしまいました。

 


まれに見るバカ 勢古浩爾

2005-10-10 | 評論

 まれに見るバカ 勢古浩爾  洋泉社

 人をバカバカと斬捨てにしていて、役には立ちませんが、著者も”何かのお役に立てれば”なんて気持ちで書いているわけでもなさそうなので、それはいいでしょう。 読み物としては結構、痛快です。

  とはいえ、”まれに見るバカ”というタイトルにあるほど、”まれに見るバカ”は登場してなくて、よく見かけるバカが多いです。 テレビや新聞を見ても、街で人をみても”ん?”って感じること多いですよね。そんな言葉にならない違和感のいくつかを、理路整然とまではいかないけれども、そこそこ説得力ある程度にはまとめてくれて、読んでいて結構すっきりします。

  でも、この人1947年生まれで、結構おじさんです。もうちょっと若いのかと思ったけど、この人のバカ話でうんうん、納得している自分ももう結構おばさんなのかなぁ・・・。    


ハサミ男 殊能将之 講談社文庫

2005-10-08 | 小説

 うーん。またやられてしまった。帯に、”誰もが映像化は不可能だと思っていた”とあったので、以前、「これは映像化は無理だなぁ」と思ったの事がチラッと頭をかすめて、結局、似たパターンだったのにやられてしまいました。あちこち違和感は感じてたのに、迂闊だったなぁ。

 ストーリーは、「ハサミ男」と呼ばれるシリアルキラーである主人公が、次なるターゲットである女子高生をつけ狙っていたら、その少女が「ハサミ男」と同じ手口で殺されているのを発見してしまい、犯人探しを始めるというものです。

 著者については、何も知りませんが、あとがきをよむととりあえず男性らしい。Gotaku*Logのnemuri_necoさん同様、私も女性かと思っていました。序章は、文章が翻訳小説風で、日本の作家がこんな文章を書きはじめるなんて世も末、とブルーになりかかりましたが、1章からはそんなこともなかったので、テクニックだったんでしょうね。  警察の面々は、人物像がとてもわかりやすく書かれているのに、真犯人や、ハサミ男の”人を殺す動機”みたいなものは、さっぱり見えませんでした。文中、ある警部の言葉として

  「無動機殺人の場合は、今言ったような意味での『普通の動機』がありません。だからどんなに遡って動機を求めても、誰も納得する事は出来ない。そこで最終的に、犯人は頭がおかしかったとか、不幸な幼児体験をしたとかそういう理由が見出される。人々は納得したいんですよ。なんの意味もなく、人を殺す人間がいるとは思いたくない。そういう人間を目のあたりにしても、なんらかの意味や理由を見出したい。だから、無動機殺人者の心理を知りたがる。」

とあるので、結局「ハサミ男」が何故人を殺すのかを知ろうとするのは無駄な事ということでしょうか。なんとなくハサミ男と父親との関係が複雑だったのかなという描写があるのだけれど、そこに理由を求めようとするのは、読み手としてスマートで無いような気がして・・・。真犯人の方は無動機殺人ではないのですが、人を殺す理由としてはちょっと納得いかないんだなぁ。

 とはいえ、さっきも書いた通り警察の人たちの書き方はとても面白くて、もっと読んで見たいと思わせる作家との出会いでした。