本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

祖国とは国語 藤原正彦

2006-01-28 | エッセイ

  祖国とは国語 藤原正彦 新潮文庫

 藤原正彦の名前は、”博士の愛した数式”の著者である小川洋子の文章で知っている程度でした。数学は美しいという藤原氏の言葉に深く感銘して書かれたその本は、小川洋子の独特の世界と、数学という全く別のもの-そして、どちらも私のあまり得意ではないもの-がミックスされて、意外にも、すごくいい味がでていた、近年読んだ中でも、お気に入りの1冊になる本でした。

 この「祖国とは国語」は、近所の本屋で、題名に目がとまって、よく見てみたら、その藤原氏の著作だったので興味をもって買って読んで見ました。新聞や、雑誌などに書かれた、エッセイなどをまとめたようで、大きく分けて教育論、軽いエッセイ、満州再訪記という3章構成になっています。

 題名からも解るように、著者自身は数学者でありながら、「国語が教育の基本だ」と強い信念があり、「ゆとり教育」に加え、人権教育、国際人を育てる、個性を育てるなどの課題のものに、国語教育がどんどん削られていることに強い懸念をもっておられます。国語はすべての知的活動の基礎であり、論理的思考や情緒も、国語力によって培われるといいます。

 また、さすがに数学者らしく、理論を組み立ててから文章を書かれているので、とても読みやすい。そういう数学に必要な、論理を組み立てる力もや、感受性も国語がしっかり出来ていなければ、育たないという言葉もなるほどとうなずけます。私自身は全く不勉強で知らなかったのですが、著者の父親は作家の新田次郎なんですね。国語力を伸ばす、家庭環境は完璧ですねぇ。

 常にイギリスをお手本として例をあげるところなどは、少し反感もありますが、基本的には私も大賛成です。日本人のカップルなのに、自分の子供を英語で育てている人が結構いるというのを雑誌で読んだことがありますが、なんてバカな人たちと思います。一人の母親は、”自分が海外に留学した時にやはりネイティブの人たちとは本当の意味で友達になれなかった。だから子どもはEnglish nativeにしたい”と言っていましたが、友達が出来なかった理由はそんなことではないということにすら気づかない人間だから、友達ができなかったんだよなぁ・・・と思ったものです。

 これだと思った文章を自分のメモ代わりに引用します。

 ピアノが上手い、足が速い、数学が出来る、といったよい個性を伸ばすのは当然であり、あらために言うに及ばない。子供の個性のほとんどは悪い個性であり、それを小学生くらいまでのうちに正すのが、しつけであり教育である。この厳しい過程の中で、子供は傷つくことをくり返しながら我慢力を身につける。家庭教育と学校教育は、機を見て個性を踏みにじることから始まる。文部科学省、教育学者、そして誰より国民が、「個性の尊重」などという美辞に酔いしれている限り、この国の将来は覚束ない。

 また、中盤のエッセイ部分では、ご自身の子ども達や両親の話がユーモアたっぷりに語られていて、前半のこの国の将来を憂うトーンとはコロッと変わって、のほほーんとしてとてもいい感じです。また最後の、満州再訪記では、自分の生まれた町である、旧満州を家族で訪ねた時の、ちょっと長めのエッセイですが、その中で、日露戦争から日中戦争、日米戦争、そして敗戦に到る歴史が、これまたとてもわかりやすく書かれており、被害者、加害者意識のようなものを超越した、とても好感のもてる歴史認識だなと思いました。

 

 


伝馬町から今晩は 山田風太郎

2006-01-24 | 小説

 山田風太郎コレクション 幕末編 伝馬町から今晩は 山田風太郎 河出文庫

 はじめて、山田風太郎先生の小説を読みました。これも広島に行った時に、たまたま入ったアカデミィ書店という古本屋で見つけたものですが、”よしのさんのえいぎょう” というサイトの、”山田風太郎ってどんな人?”というページによりますと、風太郎先生の本は古本屋でも品薄なので、見つけたらとにかく買っておけ!とのことですので、正解だったってことですね。

 風眼抄というエッセイ集でがーんとやられ、人間臨終図鑑でじわーっと面白さを感じ、いよいよ満を持しての小説でした。この本は短編が5編です。時代物の短編というと、藤沢周平さんなら少しは読んだ事がありますが、周平さんの”ごく普通の町民や武家”が主人公というイメージに対して、風太郎先生のは、どこか、ちょっとイッちゃってる人たちだなという印象でした。とはいえ、このイッちゃってる具合が、全くの狂人でもなく、魔人とかいう表現もあるそうだけれど、どことなく共感できるような、微妙な感じで面白いのです。

 また、風太郎先生って女の人に恨みでもあるのかしら、って感じてしまうくらい、艶な描きかたでした。なんか、妖しい感じがリアルで、ある意味邪悪なかんじがして、私は、先生は女の人にだまされてきたのねぇと思ってしまったのですが、先に紹介した”よしのさん”の紹介を読むと、風太郎先生の女性の描き方がすごくいいらしいので、男性には、なんというか、妖しく、強い女にだまされて見たい欲があるのでしょうかね。そういう意味でも、勉強になりました。

 まだまだ面白そうな作品が沢山あって、もっともっと読みたいです。また、”よしのさんえいぎょう”サイトもなかなかお勧めです。よしのさんは、かなり風太郎先生に傾倒しておられて、その愛情がヒシヒシと伝わってくるのです。この愛、素敵ですわ。

  

 


99%の誘拐 岡嶋二人

2006-01-21 | 小説
99%の誘拐 岡嶋二人 徳間文庫

 ”クラインの壺”に触発されて、昔読んだ本を引っ張り出してきて読み始めました。やはり、グイグイ引っ張られました。ミステリーとしては、”クラインの壺”の方が少し上かなという気もしますが、でも読ませます。

 5歳の生駒慎吾が、自宅前で誘拐され、父親の洋一郎は自分の会社を立て直すために借金をして揃えた5千万を身代金として犯人に奪われ、会社は大手カメラ・OA機器メーカ リカードに吸収されます。20年たって、その時身代金として支払った5千万円分の金塊が海の底から見つかったことから、何かが動き出します。そして、リカードの社長の孫が、コンピュータを使って誘い出され、10億分のダイヤが身代金として要求されるのです。

 本作は1988年の作ですが、講談社版が、”2005年この文庫がすごい”に選ばれて、今でも本屋で平積みになっています。何故今ごろになって??と思っていましたが、読んでいくうちにだんだんわかってきました。

 1988年当時では、このコンピュータを使ったトリックは、まだ一般には想像の粋を超えて、殆どSFの世界だったのではないでしょうか。確かに、パソコン通信はあったし、チャットやBBSも存在していました。インターネット技術だって確かに、大学や研究所では既にあったでしょう。しかし、一般には、やっとワープロが多くのオフィスに導入され始めた頃で、パソコンも大きな会社でも事務所に数台あるだけ、それもスタンドアロン。大企業ならホストは使っていましたが、そのホストの力と言えば、現在のワークステーションと言われるPC程度だったはず。 
 そんな頃とインターネットが家庭に普及し、AIやロボットが実用の一歩手前まできた現在とでは、この誘拐をリアルなものとしてイメージできる読者の数が違いますよね。
 
 とにかく、”岡嶋二人”が、コンビを解消せずに、今でも活躍されていたら、今はどんな小説を書かれてた事でしょう。2006年の今の最先端の技術を使った”99%の誘拐”を読んで見たいなぁ・・・・。
 

クラインの壺 岡嶋二人

2006-01-20 | 小説
  クラインの壺 岡嶋二人 講談社文庫 

 昨年、”99%の誘拐”が、”この文庫がすごい”の第一位になり、本屋で平積みされているのを見かけて、なんで今頃と不思議に思っていました。でも何にせよ、この人たちは面白い。

 10年ほど前に、岡嶋二人にはまったので、本作も、前に読んでいましたが、私の場合、記憶装置が揮発性で、長時間たつと、跡形も無く消えてしまいますので、今回全くはじめて読んだのと同じ楽しみを味わうことができました。そして、久しぶりに、ミステリー読んで、あー面白かったと思えたぁ。

 クラインの壺とは「細長い紙を一回ねじって輪にしたメビウスの輪の立体版」なのだそうです。登場人物の七美の説明では、「内側と外側の区別がつかない浮き輪が、クラインの壺」ということですが、このストーリの結末はまさに、その表現にぴったりです。

 舞台は、超XX3(チョーの3乗)画期的なゲーム装置開発メーカ、イプシロンプロジェクトの研究所。ゲームの原作者として、この新型ゲーム機のモニターをする彰彦と、アルバイトでモニターに応募した梨紗。最初はゲームのあまりの面白さに感動していた二人なのですが、5日目からだんだん、おかしなことになっていくのです。そして梨紗は姿を消し、彰彦の前には、その梨紗を探しているという親友の七美という女性が現れ、調べ始めるのだが・・・・。

 とにかく、すごくペースがよく、彰彦と梨紗や七美との会話がイキイキとしているのです。話にグイグイ惹きこまれます。結末は、・・・・言えませんが、”クラインの壺”というタイトルには、まさにこれしかないという終わり方です。

 あー楽しかった。やっぱり岡嶋二人最高。本棚から昔読んだ”99%の誘拐”を取り出して読み始めてしまいました・・・。私は、「焦茶色のパステル」、「七年目の脅迫状」という競馬シリーズが好きだったなぁ。あー、この揮発性メモリーの私の脳に感謝。2度目でも結論を全然思い出せずにわくわく出来るのだから。(仕事では、このお陰でしょっちゅう書類やデータを探し回る羽目に陥っていますが。あ、それは記憶装置のせいではなく、整理が悪いせいか?)

第一阿房列車 内田百

2006-01-15 | エッセイ
 





第一阿房列車 内田百 福武文庫 

 お正月休みに、広島に行き、古本屋で見つけました。同じ作者の「第二阿房列車」、「新・大貧帳」のが並んでいて、古本なのにすべて定価販売なのです。悩んだのですが、「絶版、初版」ということで、思いきって買いました。この3冊と山田風太郎の本1冊で、しめて2千円足らずなので、思いきってと言うほどのものでもないのですが・・・。でも、インターネットで調べたら、600円で買ったこの本が、1000円で売られていたので、ちょっとハッピーでした。
(でも新潮文庫版は絶版にはなっていないことを、今、AMAZONで発見してしまいました。しかも、新潮文庫版は500円と私が買った古本より100円安いやん・・・。)

 この「阿房列車」は、1950年から55年にかけて書かれたシリーズだそうで、帯からも解るように紀行文です。ワガママな百先生が、国鉄職員のヒマラヤ山系氏をお供に、これといった当てもなく、鉄道に乗って旅をするときの、ちょっとしたエピソードなどが面白おかしく綴られています。

 このお供のヒマラヤ山系氏(もちろんあだ名です)が、助演男優賞もの。返事は殆ど、「そうですね」とか「はあ」とかでよい話し相手というには、程遠く、先生からは、「顔はどぶ鼠で、こんなのはヒマラヤ山の山奥にいかなければいないだろう」とか、宿で、たいしたもてなしを受けなかったのは、「それは一に山系君が下げて来たきたならしい、猫が死んだようなボストンバックの成せる業なのである」とか、様々につっこまれながらも毎回忠実についてきて、そのツテで、あちこちでよい待遇を受けたりする。実はよい相棒なのです。
 
 笑っちゃうところは一杯あったけれど、だからといって現代の笑いとは少し違うので、50年たった今、どれくらいうけるかはよくわかりません。私自身も抱腹絶倒したというわけではなく、通勤電車では読みながら結構眠りに落ちました。どっちかというと”シュール”というか、おかしさが静かにこみ上げてくる感じ。

 とにかく、これを読んで思ったのは、当時の”駅長”には、かなりの”裁量”ができたこと。また駅長だけでなく、行く先々で、山系氏の知り合いがちゃーんといて、国鉄職員としてもてなしてくれるところ。世の中大らかだったのねぇ。今なら公私混同と言われかねない。もちろん、百先生がわが町に来られる!ということは、それは大変なイベントであったのだろうから、要するに世の中がまだ、”名士”に対する尊敬を共有していたといえるのかもしれません。

 こうやってその人が書いた本を読む限り、ワガママな人ほど面白いものはないですね。つまり自分というものの大らかな肯定の上に成り立っているからでしょうか。こういう人と実際に友達になると、寛容でない私は結構ストレスを感じるに違いないのだけれど、でもうちのじいちゃんがこんな人だったらよかったなあと思ってしまいました。

 一緒に買った後2冊をまたぼちぼち、読んで行きたいと思います。

暁の寺 三島由紀夫

2006-01-09 | 小説

  暁の寺 三島由紀夫 新潮文庫

 「豊饒の海」の第三巻。第一巻の「春の雪」が妻夫木聡、竹内結子というアイ ドル役者で映画化されたので、ミーハー気分で読み始めましたが、今回はかなり 辛かったぁ。最後まで読んだ自分を褒めてやりたい。

 1部と2部に分かれており、特に1部は、豊饒の海のテーマである、輪廻転生についての難解な解説がダラ~っと続きます。ここを要約する力はありま せが、とりあえず字面を追ってみて、頭に残ったのは、“人間の存在の実態は、滝の様にざーざー流れているもの”というイメージ。”行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず”というのと同じような気もするけれど、違うかもしれない。

 とにかくこの物語全体を言葉では全く把握できていません。 第3巻では、今までとは違い、生まれ変わる実態である人物ではなく、それを見届ける本多が主人公です。戦後ある訴訟に関わったことで一生遊んで暮らせ る財を成した本多が、これまでの「理性」な生活を捨てて、「退廃的」になって いくのです。手っ取り早く言えば、エロ親父になっていくのですが、町の社長さ ん的な陽気なエロではなくて、観念エロなのです。つまり、自分の想像力だけで 楽しむだけで、実際の異性と、関係を持つわけで もないのです。こんな世界が文学以外の実際の人間社会の中であるのかどうか私 には分かりませんが、著者の頭の中にはあったのでしょうねぇ。

 文章は装飾過多で、第一部に登場する金ぴかのタイの寺院を彷彿とさせま す。また「美は、若さという純粋さの中にこそ存在し、人は年を取るにつれて醜 くなっていく」という著者の美意識はとても私には受け入れられませんが、著者 自身がその意識にとらわれていたなら、これ以上醜くなる前に死にたかったのだ ろうなぁと思います。三島が愛したと言う三輪明弘の当時と今の違いを見れ ば、まあ、その美意識を捨てずに年をとればどんな化け物になるか明らかですよ ね。

 ところで、昨日、本屋で、橋本治の「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」という 本をちょっと立ち読みしましたが、第一部のところの殆どは理解不能と書かれて あったのを見て、作家でも分からないのかと、なんだか安心しました。三島由紀夫は、観念の世界に生きたある種オタクだなぁと感じていました が、Amazonのサイトの、“「電波男」に感銘を受けた人に送りたい“というレ ビューをみて、やっぱりそうだよなぁ・・・と思い、橋本氏の本はちょっと読ん でみたくなりました。

 ちなみに、ウチのダーリンに、「倒錯的な性の嗜好っていった話は、文学作品ではだいたい上流社会の話と相場がきまっているが、なんでなんだろうねぇ」と話して見たら、「この世の中には、3種類の人間がいる。むちゃくちゃ金持ちと、むちゃくちゃ貧乏。そしてその中間の人。むちゃくちゃ貧乏なら生き残るために泥棒でも、殺人でも何でもする。その逆で、むちゃくちゃ金持ちも、なんでもするんだよ。金で買える物から得る楽しみに飽きてるんだから、それ以外のことをしようとするんだよ」って。なんか納得。

 あー、シリーズ最終のもう一冊読む気力が今は無いなぁ・・・。