本が好き 悪口言うのもちょっと好き

読書日記です。っていうほど読書量が多いわけではないけれど。。。

裸のアマン ソマリ人少女の物語

2009-10-31 | ノンフィクション

裸のアマン―ソマリ人少女の物語
ヴァージニア・リー バーンズ,ジャニス ボディ,アマン
早川書房

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 ソマリアといっても、もちろん海賊対策で自衛隊が軍艦を送っているということ以上の知識はありませんでしたし、それほど興味があったわけでもないのですが、この本は、古本屋の100円コーナーにあったので、話題にもなっているしと軽い気持ちで買って、ずっと置いてました。

 

 

 それを手にする気にさせたのは、先日ケーブルテレビでたまたま見た、”ブラッド・ダイアモンド”という映画がきっかけです。レオナルド・ディカプリオ主演で、アフリカのシエラレオネ共和国を舞台にした社会派アクションでした。

 

 アフリカについて、あまりにも知らない・・・。

 

 と、そこで思い出したのがこの本だったのです。

 

 きっと、ソマリアもひどいことになっているんだろうと・・・・。

 

 でも、ちょっと違っていました。本書は、多分現在60代でアメリカ人と結婚してアメリカに住んでいる(出版後、10年以上たっているので今はわかりませんが)、ソマリ人アマンが、彼女の人生に興味をもった、人類学者リー・バーンズに語ったのを記録編集して、口述として出版されたものです。

 

 アフリカといってもとても広いので、さまざまな部族、習慣があり一言ではいえないのでしょうが、この物語を読むと、そのひとつであるソマリ族が、近代的というのではないかもしれませんが、50年代から60年代の後半まで、それなりの秩序と文化をもって生活していたことが伺えます。

 

 彼女の母親は、自分の意思をもって結婚、離婚を繰り返しながら、子供や母親を養って生きているようで、西洋的価値観のフィルターを通さなければ、女性の地位が決定的に低いとは見えません。また、家族や親戚、村の人たちがどのようにお互いを助け合うかというのをみると、こういう社会もいいなぁとさえ思えてきます。

 

 また、割礼などの”野蛮”な風習についても、当の少女たちの意識やアマン自身の意識も、それほどネガティブには捕らえていない。

 

 彼女はイタリア人の少年と恋に落ちるのですが、周囲の反対で実らず、傷心のまま13歳でずいぶん年を取った男と結婚します。とはいえ、それも、本人がお金目的で決めたもの。親の反応は私からみてもとても”普通”。もちろん、そんな結婚がうまくいかずに、夫のもとから逃げ出して、何度見つかって連れ戻されそうになっても、いろんなコネを使って逃げ出し、結局首都のモガディシオで、ストリートチルドレンとして生きていきます。

 

 イタリア人の愛人となり家やお金を与えられながら親にも仕送りする。囲われ者でありながら、同年代の少年少女とも遊び回り、恋もし、結婚もするという展開は、現代のアフリカのこの地域のイメージとはかけはなれていて、読む前の先入観も邪魔になって、町や人々の様子が想像できませんでした。最後は、内戦の勃発により、外国人である夫が国外に追放され、首都に居づらくなった彼女は、逃げ出してきたふるさとに戻ることもできず、結局隣国へと脱出するのです。

 

 とにかくたくましい。12,3歳の頃から、西洋の価値観とも自分たちの伝統的な価値観とも違う、彼女なりの価値観をなぜかきちんと持って生きている。そしてだからこそ、田舎の村には居られなくなってしまうのですが・・・。

 

 この話は、歴史家やジャーナリストが纏め上げて書いたものではないので、社会の見方がとても主観的です。私の知識不足はもちろんありますが、彼女の語りだけで、この時代のソマリアの様子を理解できる人は、まず無いと思います。

 

 しかし、結局、世の中の殆どの人は歴史家でもジャーナリストでもないので、なかなか自分の生きる社会を客観的、第三者的に見られるわけでもなく、そういう意味では、”一少女”の見た社会という感覚は、結構普遍性があるのではないかと思います。

 

 だからこそ、最後まで読んでしまえるのではと・・・。

 

 アフリカを、南北問題=経済格差としてしか捉えていなかった時代遅れの私のような人間も、現在の内戦、虐殺などカオス的な世界と受け取っている私より時代にちゃんとついていっている人も、それだけで理解したような気になってはいけないんだなぁとつくづく感じさせられた物語でした。


禅と脳

2009-10-24 | その他
禅と脳―「禅的生活」が脳と身体にいい理由
有田 秀穂,玄侑 宗久
大和書房

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 ”脳ブーム”だというのは知ってたけれど、先日テレビを見ていたら、今、”仏教ブーム”でもあるらしいんですね。東京では、”仏女”と呼ばれる”仏教かぶれ?の女性をターゲットにしたいろんなイベントが盛況とのことだが、そういえば、”仏陀再誕”という映画の大きなポスターを駅で見たなぁ・・・(あ、あれは仏教とは関係ないか?)

 

 別にそのブームに煽られえてこの本を手にしたわけではありませんが、でも、このブームのおかげで、この本が私の目のつくところにあったとも言えるのかもしれません。

 

 本書は、禅僧である玄侑宗久氏と医学部教授である有田秀穂氏の対談です。

 

 有田氏は、セトロニン神経という脳内の神経の働きに注目されているのだそうですが、このセトロニン神経のことを

 

 起きているとき、覚醒しているときにずっと活動しています。そして呼吸法やリズムの運動をするとその活動レベルがぐっと上がってくるわけです。上がると、大脳皮質の働きが抑制されたり、痛みを抑えてくれたり、姿勢をよくしたりなどいろんなことが起こります。

 

 ところが、特定の働きは何もしていないんですよ。

 

 僕はそれをオーケストラの指揮者にたとえているんです。オーケストラの指揮者は実は楽器を全然演奏していない、けれども、楽曲の一つの状態、雰囲気を作り出すという意味では重要な役目をはたしている。

 

  と説明されます。

 

 またこのセトロニン神経は脳幹という、人間の脳の中では古い部分に存在して、言語や意識をつかさどる大脳皮質に作用し、ベータ波をアルファ波に変えることができるのだそうです。アルファ波といえば、リラックス法などでよく聞く言葉。 

 

 玄侑氏は、意識を抑制することにより得られる世界を、座禅や、瞑想の実践を通して見ておられるので、人間の脳や意識というものを、逆方向からアプローチして出会った二人の対談という感じで、とても面白かったです。

 

 有田氏は大学教授でもいらっしゃるので話すことも慣れてはおられるのでしょうが、しゃべらせると坊主(失礼)だけに、玄侑氏の優勢が目立ちます。

 

 それに、医学、科学の世界に属していて、宗教に近づくのはリスクが大きい。似非科学者とレッテルを張られれば、その後の研究に影響してしまうんでしょうね。だからかもしれませんが、有田氏は当初、玄侑氏の話術に引き込まれないようにととても慎重で、少し腰が引けた感じが見て取れまいしたが、後半はすっかり意気投合という感じで、口も滑らかになってきて、話も盛り上がってました。

 

  とはいえ、本書では、お二方どちらもがプロ。物事を理解するときの、バランス感覚に優れておられるので、似非科学に走ることも無く、オカルトにはしることもなく、安心して、そして楽しめるものでした。 

 

  健康な精神は健康な肉体に宿るという言葉もあり、普通に生活していても意識と体が密接に連携しているということは理解していたつもりなのですが、それでも全然理解していなかったんだなぁということに改めて気付かされました。

 

 ヨガなどが呼吸を重視するのも、科学的に意味のあることだし、禅や瞑想により、意識の働きを押さえることで、”自分”を”体”に任せてしまうと、そこで見えるものがあるんですねぇ・・・。

 

 よく、昔の人の食物に対する知恵が、化学的にも結構正しくて、どうしてそんなことがわかったんだろうと不思議に思っていましたが、昔の人は、単純に自分たちの”体”に敏感だったのでしょうね。

 

  柳澤桂子氏の”生きて死ぬ知恵”という本で彼女の般若心経の解釈を読んだとき、科学と仏教の境界は決して絶対ではないということをぼんやりと感じましたが、今後、もっともっと宗教が面白いことになりそうです。

 

 ただ、それだけに、科学も宗教も取扱いに注意しないと、一流大学の学生たちがコロッとはまって、テロや殺人を犯してしまった、あのカルト宗教団体のようなことになってしまうんだと思いますし、そんな難しい理論が理解できない私のような人は、もっと簡単に”最先端の研究成果をもとに開発された”と称する、食品や化粧品、健康器具、はたまたは勉強の実践法などという広告に惑わされてしまうことは間違いないです。

 

 と、ちょっと怖い気もしますが、それでもこの本を読んで、自分の体に向き合える、瞑想や座禅に、興味がわいてきてしまいました。


ゼルプの裁き

2009-10-12 | 小説
ゼルプの裁き (SHOGAKUKAN MYSTERY)
ベルンハルト シュリンク,ヴァルター ポップ
小学館

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 いろいろ忙しくて、本をじっくり読むことができず、このブログもずいぶん放置してしまいました。

 

 

 本って、のっているときはどんどん読めるのですが、心が疲れているとなかなか本の世界に入れなくて、ちょっと読んでギブアップという悪循環にはまってしまいます。だから、リハビリにしようとミステリーを選んでみました。

 

 

 「朗読者」の著者でもあるシュリングの作品ということでも、興味をそそられましたし、3部作ということで、面白かったらあと2回楽しめるという期待もありました。何十冊にもなるシリーズ物は、だらだらいきそうなので選びませんが、3部作ってちょうどいい感じじゃないですか・・・。

 

 

 で、読んでみましたが、続いて2冊読むかどうか・・・微妙です。少なくとも疲れているときにはおすすめできない本かな。

 

 

 ナチの時代に検事だった初老の私立探偵ゼルプは、幼馴染で義兄のコルテンから彼が社長を務めるライン化工で起こった、ちょっとしたハッカー事件の調査を依頼される。コンピュータには疎いけれど独特の勘で、あっという間に事件は解決するのだが、彼が突き止めた犯人は、警察に突き出されること無く、しばらくして交通事故で死んでしまう。この犯人の恋人で、コルテンの会社で重役秘書として働く女性ユーディットから、事故死の調査を頼まれたゼルプは、その調査をすすめるうちに、自分が検事時代に関わったある事件の真相に近づいていく。

 

 

 最初ハッカー事件というので、比較的最近の作品かと思ったのですが、発表は20年以上まえで、その辺からちょっと私は時代感覚がうまくつかめなくなりました。ゼルプの外見もどんな感じにイメージしたらよいか分からずじまいだし、それに、ドイツ人の名前がどうも馴染みにくく、その辺でストーリーをなかなか掴めず、またギブアップしそうになりました。

 

 

 実際、ミステリーとしてこの本はどうなんだろうかと思いますが、ただ、朗読者でも感じられた著者の、ナチ時代の歴史に対するドイツ人としての覚悟というようなものに惹かれて最後まで読んでしまいました。

 

 

 ドイツと日本はどちらも、先の大戦の時代において、人権的に許されない行為を行ったということで責められる立場にある国です。よく、海外からドイツは謝罪したが日本は謝罪していないというようなことを言われて、一日本人として憤慨したこともありましたが、やはり目を向けたくない歴史に関する態度はずいぶん違うなと思わざるを得ません。

 

 

 もちろん、事情は違うし、単純に比べられないけれど、でも、人は時代の雰囲気に呑まれて後から考えると、とても許せないと思えるようなことをするという事を自分たち国民の歴史の中でおこった痛みとして正面から受け止めているところが、やはり違うんだと思います。

 

 

 深い罪の意識を言葉にするか、語らずに墓場まで持って行くか、美意識、メンタリティの点で国民性の違いがあるのかもしれませんが、被害者ではなく加害者として罪の意識を背負って生きるゼルプの最後の裁きは、日本の小説家ではちょっと思いつけない展開で、この小説を、そしてゼルプの罪の意識をどう理解してよいものか、私の頭では受け止めきれないものでした。