この日をつかめ (新潮文庫) | |
ソウル ベロー | |
新潮社 |
アメリカ人の知り合いに、おすすめのアメリカ人作家を聞いたら、「ソウル・ベロー」という名前を教えてくれたので、図書館にあった本書を読んでみました。
なんとも、説明しづらい内容で、ちょっとズルして、裏表紙から引用させてもらいます。
妻子と別れ職を失い、俳優にもなりそこねたウィルヘルムは、巨大で非常なアメリカ社会の中ですべてを失い不運のどん底におちていく。それでも現在のこの瞬間をつかんで生きようとするが・・・・。頼るものもない一人の男の危機的な一日に、断代における自己救済のテーマを追求したノーベル賞作家の代表作。
1956年に発表された作品なので、現在とはずいぶん違うのでしょうが、改めて、この文章を読み返してみても、どうもしっくりこない。
ウィルヘルムは確かに、失業し、妻子にも愛想をつかされているが、今住んでいるのはニューヨーク。リタイアしたミドルクラスの人たちが住んでるようなホテルで、有名な医学博士である父親も同じホテルで一人暮らしをしているんです。
日本人からすると、『ニューヨークでホテル暮らし』をする人が、すべてを失ったと言われてもねぇ。
同じホテルに住んでいる、タムキンという名前からしていかがわしい心理学者を名乗る男に誘われて、なけなしの財産を先物取引に投資したが、それもどうも大損になりそうな様子で、今月のホテル代を払うこともできないが、父親からは冷たくあしらわれている。
ウィルヘルム自身は、決して無能なわけでもなく、そこそこの教養もあるし、一時は俳優を目指すほど見てくれも悪くはなかったのに、中年を迎えた今、何物にもなれなかったことに、あきらめもつかず、かといって裸一貫でやり直すという決心もつかない。
『アメリカ人』というのを一括りには言えませんが、所謂WASPの人たちのメンタリティというのはこういうものなのかもしれないなぁとは思いました、
50年前といえば、冷戦時代に入っていて、もちろん『アメリカ』は、西側のリーダーで、豊かさというものを見せつけないといけない時代だったのかもしれません。
貧しい移民の家庭に生まれたというのでなければ、スタート地点で出遅れているわけではないので、何らかの形で成功しなければならないというある種の、社会としての強迫観念があり、人々はそこそこ安定した生活を手に入れれば、あとは、それを得た自分がどれほど有能な人間かということを一生懸命喋らなければならなかったように見えます。
であれば、ウィルヘルムの境遇では、その地位に甘んじることは恥であり、やはり人には取り繕う言葉を吐き続けなければならないし、人生を逆転させる何らかの行動にでなければならないと思い続けている。
タムキンは、そんな先のことや過去にとらわれるのではなく、≪ここで、いま≫の自分を見つめろと言うのだが、ウィルヘルムには通じず、絶望の涙にくれてしまう。
本書で著者が言いたかったことはよくわかりませんが、アメリカの国債がデフォルトに陥るのではないかと懸念される今日、アメリカ自身がウィルヘルムになってしまったのではないだろうかと、ふっと思いました。