「彼らが信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日の今日まで」フェレイラは自信をもって断言するように一語一語に力をこめて、はっきり言った。「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」
沈黙 (新潮文庫) | |
遠藤周作 著 | |
新潮社 |
遠藤周作の代表作といってもいい一冊なのに、読んでおりませんでした。図書館の本が途切れて、家の本棚を探ったら出てきたので、いつか読もうと思って買っていたのかもしれませんが、かなり色あせていました。
1637年、師であるフェレイラが長崎でキリシタン弾圧に屈して棄教したという知らせに衝撃を受けた3人のポルトガル人司祭が、日本に向かった。一人は、澳門(マカオ)でマラリアに罹り命を落とすが、ロドリゴとガルペの二人は九州に上陸、隠れキリシタンの村人に匿われて山に潜伏する。しかしその村にも役人の手が・・・。その後、ばらばらに逃げた司祭だが、澳門から同行したキチジローの裏切りにより捕まってしまう。
日本人は囚われの身となったロドリゴを直接痛めつけず、日本人信者を彼の目の前で虐待し、拷問することで、彼を少しずつ追いつめていく。
ひたすら祈り、救いを待つロドリゴだが、神は沈黙したままだった。
フェレイラが、ロドリゴに言う、「もし、基督がここにいられたら」
「たしかにに基督は彼らのために転んだだろう」
そして、ロドリゴは踏み絵に足を掛ける。
冒頭に引用した、日本人はこれまで神の概念を持たなかったという言葉を読んだ時、日本人である自分の事かとドキッとしてしまいました。
いや、自分は基督教の信者ではないので、解ってなくても当然なのですが、とはいえ
「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」
と、言われ方には、ちょっと待ったぁ・・・、バカにするんじゃないわよとムッとしたのですが、よくよく考えたら、私もそうだわ・・・。
神は人の頭の中に存在すると思っています。なぜなら人の頭の中の宇宙こそが無限で永遠だから・・・。
で、ご自身がカトリックだった著者はこの言葉を語らせたとき、神をどう理解していたのでしょうか。それがわかりません。
私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。
という、最後の一節、このロドリゴの言葉に、著者の答えがあるように思うのですが、よく理解できない・・・。
解説の中で、佐伯彰一氏は、著者のカトリックへの「普遍性」への確信が著者を支えていたということなんですが・・・。 まだまだ、勉強不足ですっきりしない一冊でした。
人気ブログランキングへ やっと5月らしく爽やかな日になったなぁ。