消費社会は満たされなさという退屈を戦略的に作り出し、人々をその中に投げ込むことで生き延びていると言えるかもしれない。
暇と退屈の倫理学 | |
國分功一郎 | |
朝日出版社 |
タイトルからして、もう少しお気楽な読み物かなと思ったのですが、とんでもない勘違いでした。
とはいえ、読んでいて”退屈する”ような堅苦しい書き方もされておらず、私のような根性のない読者でも最後まで楽しんで読めました。
暇と退屈をめぐる問題認識と、その歴史的、哲学的な考察、私たちが、暇と退屈を抱えながらどういきるかという方向性を示すという構成になっています。
私にとって非常に興味深かったのは、やはり自分をも含む現代人の問題としての、消費と退屈の関係です。
著者は、浪費と消費は違うといいます。
浪費は、「もの」を受け取るのでどこかで満足する。けれど消費によって人が受け取るのは、「観念」なので、満足が得られない。だから人は、「ものを受け取る訓練」をし、「贅沢をとりもどす」必要があるというのです。
最近流行りの、『断捨離』は、自分の周りに溢れるものを捨てて自由になろうということと理解していますが、その逆に見えるけれど、通じるところもありますね。
確かに、食物を「消費」している国の人たちの怖ろしいほどの肥満は、食に対する退屈の象徴のようにも見えます。
そして結論の中で著者は言います。
<暇と退屈の倫理学>が向かう二つの方向性を結論として提示する。ただし、それらの二つの結論は、本書を通読するという過程を経てはじめて意味を持つ。
論述を追っていく、つまり本を読むとは、その論述との付き合い方をそれぞれの読者が発見していく過程である。
読者はここまで読み進めてきたなかで、自分なりの本書との付き合い方を発見したはずだ。それが何よりも大切なのである。
人が人である限り何かに退屈させられたり、何をやっても退屈と言う気分になってしまうことは避けられない。それを解決する手立てが自分の外あると期待して探すだけでは何も見つからない。外部から来る「もの」を受け止める土台を自分の中にしっかり作ってこそ、奴隷にならずにそれを愉しむことができる。
私が得た結論をまとめてみると、なにか至極当たり前で、以前からわかっていたことの様にも思えますが、上記に引用した通り、この本を読むという過程を経たということが大きいと思いたい。(笑)
そして、50才という大台を迎えた今、これからの人生について、退屈を怖れるため、消費に走り、さらなる退屈に見舞われないよう、自分の周りの”もの”との付き合い方から見直していきたいと思ったのでした、