自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

自然と自然法①

2013年03月21日 | Weblog

 小学校唱歌にある「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」は自然の姿が多く残っていた時代の歌詞である。現在では国土のどこをとっても、人の手が加わっていないところはないと言えば過言であろうか。僕は自然の山河と親しんだ子供時代が懐かしく、荒廃していく自然を見るたびに淋しさを感じる。十六年前に今のところに住まいを得た頃と比べると、小さな森を丸ごと崩して住宅が押し寄せてきた。
 自然の狭義の意味は、人々が自分たちの生活の便宜のために改造の手を加えていないものをいう。自然とは、人工、人為に成ったものとしての文化・文明に対して、人力によって変更、形成、規制されることなく、おのずから成る生成・展開を引き起こす本質(nature)のことである。ただ、人の手が加わっても、それが復元の意味をもつ場合には、これを自然に含ませてもよいのではないかと思う。
 自然という言葉の意味は多義的で複雑で、いろんな分野の専門家たちがそれぞれに説明している。もしくは説明しようとしている。
 法学においても、自然法、自然権という言葉が使われ、この言葉もやはり自然に関する思想と切り離すことはできない。自然法とは、古代からの法思想の歴史に登場した伝統的な考え方に即して言えば、人為から独立した何らかの自然の秩序・事態あるいは先天的な倫理法則・価値に基づいて必然的に存立するものとされる。人間の作った法ではなく、時と所を超越した普遍妥当的な法であり、先天的な根拠に基づいた規範である。
 自然法の内容や実定法との関係についての議論は、歴史的にも法学者によっても様々であるものの、実定法に対して自然法は、価値においても効力においても優位にあると考えられている点では共通している。したがって、自然法は至上の正義の法であり、実定法の成否を判断する基準とされ、自然法に反する実定法は、法としての効力を有さないと考えられている。(そう考える法学者がいる。)
 歴史的には、自然法は古代のギリシア哲学以来議論されてきた。ロゴスによって生活すること、普遍妥当性をもつ理性のルールという形での自然法の考え方がとられた。中世においては、カソリック神学と結びついた。その代表がトマス・アクィナス(1225-1274)である。著書『神学大全』において、法を神法、永久法、自然法、実定法に分類する。神法は神の啓示そのもであり、永久法は神の知性に基づく法の源泉である。人間は神の知性に参与、すなわち永久法に参与することができる。ここに自然法が成立する。人間は自然法を通して永久法を知ることになる。実定法は人間が作ったものであるが、自然法から導き出されたものでなければならないと考えられた。中世の自然法思想は、神の知性、意志にその根拠を求め、教会の正当性と中世封建秩序を維持する役割を果たした。
 中世の社会秩序が崩壊し、教会の権力が失墜すると、自然法も神学から解放され、その根拠も神の知性から人間の本性に置き換えられ、個人主義、自由主義に基づく自然法思想が支配的になった。(続く)