僕のひ弱な文学遍歴の最初と言えるものは、独歩や蘆花の随筆だった。
この二人が見出したのが雑木林の美しさだった。
ツルゲーネフなどのロシア文学にも負うているのだが、それまでの日本人が殆ど見落としていた雑木林を、美しいものとして、心を動かすものとして、初めて積極的に認めたのだ。
これは一つの心象革命と言ってよいと思う。
松や桜や梅、また杉や桧と違って、せいぜい炭焼きの材料にしかならない雑木林にその美をたたえることはなかった。
蘆花と独歩が、明治30年代、つまり明治維新という政治革命から30余年を経た時代になって、美意識の変革、自然を見る目の変革にとりかかったのだった。
『自然と人生』や『武蔵野』に自然の美しさを見る新しい目が生まれた。
『自然と人生』の中に「雑木林」という文もある。
「東京の西郊、多摩の流れに到るまでの間には、幾箇の丘があり、谷あり、幾筋の往還は此丘に上がり、うねうねとして行く。谷は田にして、概ね小川の流れあり、流れには稀に水車あり。丘は拓かれて、畑となれるが多くも、其処此処には角に画(しき)られたる多くの雑木林ありて残れり。余は斯(この)雑木林を愛す」と言って、楢や橡やハンノキなど、それまでは雑木として、見かえられることのなかった木々の林の四季折々の美を描き出した。
『武蔵野』では「美といはんより寧ろ詩趣といひたい」と言って、新しい自然美を打ち出した。
明治30年代は自然美の維新時代だった。今は昔の物語にはしたくない。