原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

津田三蔵(その3)‐北海道編‐

2009年12月17日 08時45分42秒 | 社会・文化
刑が確定した津田三蔵は北海道の集治監に送付されることとなる。釧路には明治14年に開設された集治監があった(北海道では三番目)。ここでは外役と言う名の厳しい労働が科せられることとなる。冬は特に厳しい気候となる。まだ負傷が癒えていなかった津田が身体を壊すことが懸念され、さらに他の囚人により謀殺される可能性さえあった。世論からの反感が影響していた。警察は津田の保護を考慮しなければならなかった。

津田バッシングの背景には政府の言論操作があった。事件が起きた後の5月16日付で政府から緊急発表がされている。大津事件の関係記事は事前に検閲する、という緊急措置であった。つまり、政府による世論操作、言論統制が行われていたのである。流言飛語を抑えるという意図が基本であったが、政府に都合のよい報道に切り替える目的もあった。日本国家を混乱させた凶悪犯として、津田のイメージを決定づける要因となっていた。

大審院の結審で政府の思惑がはずれる。内閣が受けたダメージは小さくはなかった。まず青木外務大臣の辞表を皮切りに、西郷国務大臣、陸軍大臣、司法大臣、そして文部大臣まで交代させられる。ロシアの怒りをなだめるための交代でもあった。津田が起こした事件はまさに政府の屋台骨を揺るがしたのである。

世論の反発から津田を守るために警察は苦心する。北海道へは他の囚人とともに船で移送することになる。津田には厳重な監視がつき、まだ怪我の治療中でもあり、個別の管理体制を敷く。船は5月の下旬に神戸を出港し、途中東京で停泊。仙台から函館を経由して釧路に到着。そこから小さな船に乗り換え、釧路川をさかのぼって集治監のある標茶に着く。神戸を出てから一カ月以上を経過した7月2日に長い移動の船旅が終わった。その日は小雨が降っていたと記録されている。川を上る小さな船がそぼ降る雨曇りの湿原を進んでいた。だが、津田にとっては周りの風景を見るゆとりなど全くなかったに違いない。

怪我がまだ治っていなかった津田はそのまま病監に収容されている。獄舎から少し離れた集治監の北西側の奥にある建物であった。隔離されており監視もしやすい。怪我があるので外役の労働はない。釧路監獄署の典獄代理鈴木義正書記には内務省からの秘密通牒が届いていた。ロシアの怒りを抑えるためにも、自殺や謀殺、ましては逃亡などが無いように厳重な注意監視を怠らないようにと。十分な治療をし、問題を生まないよう外役には就かせるな、という意向であった。まさにVIP待遇の囚人であった。

(郷土資料館の内部には、集冶館時代の階段が残っている)

8月の入るころには怪我も全快。獄舎に入る。それでも外役はなく、軽い内勤作業に従事していた。後日、津田の死因に疑問がもたれ、過酷な労働で倒れたという風聞も生まれたが、記録を見る限り、その可能性は全くなかった。
元気になった津田は看守にいろいろな要求をする。自殺の恐れがあるので刃物や紐類の使用が禁じられていた。それにクレームをつけたのである。さらに日本とロシアの関係がどうなったのか、と聞いていた。外交上の補償問題は発生せず、両国の関係は昔のままであるという報告を聞いて、安心した様子であったという。やはり事件の影響が一番気になっていたらしい。ある日、東京のロシア公館に連れて行ってほしいと言いだした。理由を聞くと、「私は大津で死ぬ覚悟であったが、それが叶わず、いまは罪を償っているが、それでは申し訳が立たない。ロシア公館において自害したい」と語ったという。自殺したいという願望は依然強くあった。

当然、看守からそんな必要ないと諭される。そうした中で、8月半ば頃から食事を拒否し始める。明らかに死のうという意思を見せたのである。一週間、二週間と断食が続くうちに体力がどんどん落ちていく。9月に入ると突然発熱する。危険を感じた看守は病監へ移動させる。診断は重度の感冒であった。それから懸命な治療が始まっている。
医者による病床日誌には9月8日より克明に内容が記されていた。発熱から胃をはじめとする内臓疾患まで患った様子が分かる。毎日、投与された薬の名前まで詳細に書かれている。それによると、明治時代としてはかなり高価な薬が使われていた。当時珍しかったワインやシロップなども強壮剤として与えられている。漢方薬も多い。中には阿片末あった。激しい痛みを止めるためであったのだろう。吐血があったことも記されていた。

9月29日午前0時30分、病監の一室で津田三蔵は絶命する。感冒から内臓疾患、そして最後は肺炎を起こしたことが因となった。

釧路集治監に収容されてわずか三カ月に満たない日数での死亡であった。この早い死が憶測を呼ぶ。自殺説はもちろん謀殺、労働による過労死、政府による暗殺など、興味本位の物語が語られる。昭和48年10月となって、旭川刑務所において津田三蔵に関する公文書が発見される。これにより急性肺炎による死亡であることが確認された。つまり病死であることが判明したのである。なぜ、その日までの長い間、この公文書が発見されなかったのか、については不明であった。釧路集治監が明治35年までしか存続しておらず、そのあと網走刑務所に移動している。その移動が書類を不明にしたと語られていた。

大津事件についての肝心なことは何も言わずに他界した津田三蔵はどんな人間だったのか、なぜロシア皇太子を襲ったのか、残された数少ない資料がいくつかのヒントを与えていた。

(続きは次回ブログへ)

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2 コメント

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続きますね。 (numapy)
2009-12-17 09:14:09
もしかして、この辺がライフワークですか?
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とんでもありません。 (原野人)
2009-12-17 13:22:34
たまたま長くなりすぎたので分割しました。いずれにしても一回では説明しきれないものだったので。
きっかけは、郷土史研究家の資料でした。埋もれた歴史がまだまだあるような気がします。
それを掘り出してみるのも、これからの仕事になるかも。
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