原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

津田三蔵(その2)

2009年12月16日 10時16分32秒 | 社会・文化
ロシア皇太子ニコライを襲撃した津田三蔵に対する厳しい世論が日本中に沸騰する。ロシアの報復を恐れた日本政府は早い解決をはかり、大審院の採決を決定する。犯人津田三蔵を一刻も早く極刑にしてロシアに謝罪しようとする日本政府の思惑があった。だが、政府の意向とは全く別な考えを持っていたのが大審院長の児島惟謙であった。憲法を制定したばかりの日本が経験する行政と司法の対立であった。三権分立の基本がそこにあった。

児島は地方裁判所を省略して大審院での採決には同意したものの、刑の内容に対する政府の示唆には異議を唱えた。児島が問題にしたのは、大日本帝国憲法による刑法116条であった。これは日本の皇室に対する罪に関する条項で、「天皇、三后(太皇、太后、皇太后)・皇太子ニ対シ危害ヲ加エ、又ハ加エントシタル者ハ死刑ニ処ス」というもの。大津事件にこの刑法を適用することに異議を唱えたのである。
児島の言い分は、この刑法は日本の皇室に適用されるもの。外国の王制には適用されない、普通の傷害事件として処理すべきである、という主張であった。
西郷国務大臣や山田司法大臣は、ロシア皇帝の皇太子なのだから、日本と同じだと主張する。日本の皇室に準じて適用すべきであると圧力をかけた。
日本国の憲法はできたばかりであったが、児島は司法家らしく諸外国の憲法も勉強していた。国際的な司法判断の基準がどこにあるかということを習熟していた。いま、諸外国は日本を見ている。行政の圧力に屈して法を曲げることはできない。日本が近代的な民主国家となるためには、法と言うものを順守する姿勢を崩してはならないと考えていた。近代化や国際常識が遅れていた明治政府は、それまでも不平等条約を諸外国から押し付けられている。ここで法を曲げてしまえば、さらに欧米の国は日本を下に見て、さらなる不平等条約を押し付けてくる可能性がある。民主化にブレーキがかかってしまうことも考えられた。これが児島の主張であった。見事ともいうべき見識である。
大審院に選出された判事たちも同様の考え方であったことが後で分かる。児島一人の考え方ではなかった。よちよち歩きで動き出した赤子のような日本であったが、それだけに権力の行使、特に三権分立の精神の原則はしっかりと根付きつつあったのである。判事の一人は語っている。
「犯人は許しがたい行為をしたと思う、が、だからと言ってルールを変えることはできない」法は法であるという司法精神があった。

西郷国務大臣はこうした判事の意向を知り、25日の開廷を国家権力で日延べさせ、その間に圧力をかける。しかし、彼らは自説を曲げず27日に裁判が開かれ、津田三蔵は通常の謀殺未遂事件として無期徒刑の判決を受ける。外国の要人を切りつけた傷害罪であったが、死罪に当たるほどの犯罪ではないというのが大審院の判断であった。

西郷国務大臣は怒り狂う。児島大審院長に向かって、「お前の顔を覚えておく、日本の行く末を滅茶苦茶にしたやつだから」とまで言い放った。西郷大臣がここまで固執するには、ロシアの脅威と言うほかに理由があった。彼は西郷隆盛の実の弟。隆盛が野に下った時に政権側に残った人物。西南の役には参加せず、東京で政務についていた。政府に忠誠を誓っていた。
ところが津田三蔵の犯行の背景にこの西郷隆盛の影があったと噂される。つまり、西郷が生きているという風聞と、西郷が戻ってきたなら西南の役でもらった勲章は返還されるというもの。津田三蔵は西南の役の功績で政府から勲章をもらっていた一人であった。だからニコライ皇太子を襲撃した、という風聞が飛び交っていた。西郷国務大臣としては兄の亡霊から逃れるためにも津田三蔵を生かしておくわけにはいかなかったのではないだろうか。

(集冶館時代はこの建物は事務所の本部となっていた)

西郷国務大臣の心配はあたらなかった。ロシア側はこの事件に対して何の賠償も日本に求めなかったからだ。児島の見識の方が国際的であったことが証明された。
というより、ロシアにとって当時の日本はどうとでもなる国と思われていた。この事件を契機になにかを要求するという意思など、もともとなかった。日本への渡来も二次的なもの。本来の目的はシベリア鉄道がロシアの最東端ウラジオストックまで開通した記念行事に皇太子が出席することであった。ついでに日本を訪れたのである。ニコライの物見遊山であった。政治的な意図は全くなかった。領土問題でも清国の遼東半島が第一の目的で、朝鮮半島がその次の狙いであった。ロシアが日本に注目するのは日清戦争(1894年)で日本が勝利してからのことである。

今年10月の千葉景子法務大臣を思い出す。最高裁判所が出した結論を無視した行動である(12月1日の当ブログ参照)。裁判所命令で国外追放を命じられた中国人を法務大臣の権限で居住を許可する。その理由を国会で問われても明快な回答もしなかった。明治時代の国務大臣や司法大臣は行政の意に反した判決を覆すようなことはしていない。この違いはどう思えばいいのだろうか。明治時代から21世紀の現代に向かって政治家の質が変わってしまったのか。三権分立は変貌したのだろうか。これは進歩なのか後退なのか。裁判員制度も含めて、日本と言う法治国家はどこへ向かっているのが、疑問がわいてくる。

無期徒刑となった津田三蔵は北海道へ送られる。釧路集治監に収監されるのはその年の7月2日であった。そこが彼の終焉の地となるのである。

(続きは次回のブログで)

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1 コメント

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矢継ぎ早ですね。 (numapy)
2009-12-17 09:17:25
連日、迫力ありますね。
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