原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

挽歌橋ものがたり

2011年03月25日 08時26分04秒 | 地域/北海道
2010年10月19日のブログで挽歌橋の話をした。すでに消滅した橋ではあるが、原田康子原作の小説「挽歌」が映画化され、そのロケ地にちなんで名づけられた橋である。映画のどんなシーンに登場したのか、その謎を解く機会をついに得た。先日、釧路で開かれた霧笛復活祭において映画が上映されたからである。挽歌と言うタイトルから、入水自殺のシーンに橋が使われたのではと、想像していたが、見事に違っていた。だが、橋の姿が実に良かった。クラシックで優雅な木の橋は映画のイメージを増幅させていた。挽歌橋と名付けられた理由が分かったような気がした。

映画の中で橋が登場するのはわずか十分ほど。それは主人公の妻と若者の密会デートの場面であった。今で言う不倫であるが、男女の心の葛藤を象徴するかのように橋があったのである。この辺はちょっぴり昔のフランス映画風であった。木の橋のたたずまいがそう思わせる。映画としての評価は専門外なので触れないが、シーンの一つ一つが当時としては珍しくヨーロッパを感じさせていた。釧路と言う町のイメージがそうさせていたのかもしれない。そして事あるごとに鳴り響く霧笛が独特の世界を演出していた。挽歌族と言う言葉も当時は生まれていたらしい。新しい日本人像を描こうとしていた原田康子の気持ちが少し伝わる。ただ台詞が少し浮いて感じた。これも時代の違いなのかも。
それにしても、こんな雰囲気の橋が現存していたなら、多くの人気を集めるのにとも、思った。私にはかつて一世を風靡した「マジソン郡の橋」(1992年に発売されたロバート・ジェームス・ウォーラーの小説。1995年に映画化。製作、監督、主演がクリント・イーストウッドであった)が脳裏に浮かんでいた。忘れ難い橋である。

橋のシーンを眺めていて、ある事に気付いた。橋の中央に鉄路のような筋が二本ある。あれは市電などで使う線路のはず。するとこの橋は鉄道の一部か?どんな目的で建設され、誰が使っていたのだろうか?どんな理由で消滅したのか?今は湿原の中にすべてが消えてしまった挽歌橋をめぐって、新たな興味が頭をもたげてきたのである。

さっそく、町史を紐解いてみた。そして町の長老の話に耳を傾けた。そこに浮かんできたのは道東の開発に関わる歴史であった。挽歌橋は湿原に暮らす人々の生活を背景に生まれていたのであった。

(塘路駅と挽歌橋の位置が分かる空撮。挽歌橋の文字の左上に釧路川を渡る白い線条のものが橋。北に向かって軌道が走っているのが分かる。空撮は昭和52年のもの。挽歌橋はすでに鉄製に替っている)

湿原を走りぬけた殖民軌道

話はもう少し過去へと遡る。明治期以来、北海道には拓殖計画が進行していた。大正の末期には鉄道網も拡大し、鉄道の沿線への入植もひと段落。内陸部へと入植対象が拡大していた。釧路湿原や根室周辺の対象地でも同様であった。当然、入植者のための道路等の整備が必要になる。ところがこれらの地域は泥炭に覆われた湿地帯。道路を作っても泥濘(ぬかるみ)がひどく歩行に苦労する。冬場は凍るのでそうでもないが、春から秋にかけてほとんど用を足さない。火山灰地である宗谷地方にも同じことが言えた。
こうした内陸部の入植者のためのインフラの一つとして考えられたのが軌道であった。道路の変形と言えるもので、盛り土した道路に線路を敷き、その上を台車を走らせるもの。動力は馬であった。当時はこれを馬力線と称していた。この馬力線による軌道作りは北海道の各地で実行されたのである。これが殖民軌道であった。昭和初期の1925年ころから計画は実行され(第二期北海道拓殖計画)、1946年(昭和21年)まで継続していた。1942年には殖民軌道は簡易軌道に名前が変わって入る。計画は終了しても軌道の運行は1970年まで継続していた。意外に知られていないが、約半世紀に近い45年間も使われていたのである。

挽歌橋を通過していた軌道もその一つで、釧網線駅の塘路駅を起点に釧路川を越え湿原奥深くへと進むものであった。運行開始は1930年(昭和5年)。中久著路(なかくちょろ)を経由し上久著路までの全長29キロ弱。途中、八つの停留所があった。
その軌道ルートの名残が、今は路となってわずかだが残っている。塘路駅から釧網線に沿って西へのびる細い道がそれだ。約一キロほど進むと釧路川にでる。ここに挽歌橋がかかっていた。橋からは釧路川沿いに蛇行するように軌道があったと記録されている。そして久著路まで到達していた。これが殖民軌道の久著路線であった。湿原の中の痕跡は今は見ることができない。

(これが湿原を行く馬鉄道。標茶図書館資料より)

橋の名前は特別についていなかったようだ。記録では久著路線にある橋なので久著路橋と呼ぶ人もあったらしい。いずれにしても1957年に映画のロケ地となってから挽歌橋と呼ばれるようになった。
当時の馬力線の写真も資料館で見つけることができた。いわゆる馬車に軌道に乗せるための車をつけただけのもの。トロッコの馬版という感じだ。ユニークでなかなかに面白い。馬車は昔の記憶にあるが、このような乗り物の記憶はさすがにない。馬に挽かれた軌道車があの挽歌橋を渡るところを想像するだけで楽しくなった。
事実、結構人気があったらしい。年間、7千人近くの人を輸送していたという記録が残っている。少なくとも一日二十人以上の人が利用していた計算になる。毎日運航していたとは思えないので、その数はなかなかのものだ。
当時の釧路新聞の切り抜きが資料室にあった。「春は馬鉄にのって」というタイトルで、馬力線の楽しい行楽が紹介されていた。湿原の中を走る馬鉄道。牧歌的で心を豊かにさせる写真が掲載されていた。馬力線は道東の人たちの貴重な生活路線であったと同時に、数少ない行楽の一つでもあったことが、よく分かる。

(馬鉄道に乗って楽しそうに湿原を走る人たち。標茶図書館資料より)

橋もまた軌道ができた時に建設されていた。映画のロケの時ですでに27年を経過していた。しかし映画の中で見る挽歌橋は柱も新しく見えた。途中で何度か改修もされたと思うが、十分に新しく見える。軌道もそれほど古いものには見えなかった。だがこの雰囲気のある木組みの橋はこの年からわずか5年後の1961年(昭和36年)に壊され、鉄橋として生まれ変わっている。そして鉄橋となった後も挽歌橋と呼ばれていた。
まだ少年期であった私の記憶とここでようやく交わる。この頃、この橋を釧網線の汽車の中から見ているはずであるが、木の橋の記憶が全くないという理由もようやく分かった。

なぜ、木の橋から鉄の橋に変わったのか。そして軌道はその後どうなったのか。長くなるのでこの続きは、明日の次号「続挽歌橋ものがたり」で。

*巻頭の挽歌橋の写真は標茶図書館資料室からの提供。

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8 コメント

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マジソン郡の橋 (numapy)
2011-03-25 17:31:01
いい写真ですね。この写真を見たとたん、やはり マジソン郡の橋を思い出しました。
それにしても、馬力線という歴史があったのですね。
写真がモノクロだけに、当時の生活をリアルに表現してますね。
なぜか高校時代、アルペンスキー県大会出場のため、飯山線(この間の長野県北部地震で線路宙刷りになった)戸狩(とがり)駅から民宿まで、雪の夜道を民宿まで4km、黙々と歩いたのを思い出しました。歩くしか便のないのをただただ物悲しく感じました。そんな時代に育ってたんですね。
原点は素朴です (原野人)
2011-03-26 07:07:57
歩くこともそうですが、輸送交通手段とはとても素朴です。日本人はこの素朴さをもう一度思い出す必要があるのかもしれません。
簡易鉄道はいろいろあります。明治時代に走っていた熱海から伊豆へ走っていた鉄道の初めはなんと人力でした。
原点から学ぶことは多いですね。
下久著呂生まれです (ばろっく)
2011-03-27 13:12:36
はじめまして。

文中、「中久著路(なかくしょろ)」とありますが、正しくは(なかくちょろ)です。

私は下久著呂の軍馬育成牧場で生まれました。

「馬車鉄道」は下久著呂から塘路まで1時間半もかかったそうです。
ありがとうございました (原野人)
2011-03-28 08:48:19
>ばろっくさんへ

さっそく訂正します。
下久著路にも軍馬牧場があったのですね。
挽歌橋 (モモ)
2014-03-14 12:15:35
はじめまして.
挽歌橋には私も思い出があります.ただし,この記憶が本当なのか,夢なのかは定かではありません.私の記憶は釣りです.昭和50年ころ,9月ごろ釣りで阿歴内川を国道から入り(駅側),川沿いに下って釧路川との合流点まで釣り下りました.記憶では川沿いに土手があったように記憶してますが,川沿いの笹と灌木をかき分け,イトウを狙った.時間的には1時間ほどと思うが,合流点付近で鉄橋を見た記憶があります.昼前だったと思います.そして,列車が走っていたのです.これは鉄橋上ではなく,釧網線だったのでしょう.天気がよく,汗だくでした.当時は塘路付近の位置関係や川の蛇行さえ,しっかり認識してません.湿原の中で突然,鉄橋と列車を見て,それが不思議な光景で,すっかり頭が混乱.そして疲れも手伝って,河原で昼寝した記憶がある.その光景は,夢の中で増幅されたか,作り出されたのかもしれません.今となっては,心に残る印象的で不思議な風景です.鉄橋は何年まで残存していたのだろう?昭和50年より前なら,これは全くの記憶違いとなります..
モモさん、コメントありがとう (原野人)
2014-03-14 13:30:45
このブログを出した翌日にその後の挽歌橋について投稿しています。1961年(昭和36年)に木の橋から鉄橋に変わりました。その4年後に軌道の営業が終了します。しかし鉄橋は道の一部としてそのまま残りました。この橋も挽歌橋と呼ばれていたそうです。ところが1977年(昭和52年)に北海道に上陸した台風で破損してしまいます。ブログでは写真もあります。そのために橋は撤去されてしまいました。ということはモモさんが見た昭和50年ころ見た橋は間違いなく挽歌橋だと思います。
心に残る思い出が何らかの形で後の人に伝えられることは大切なことだと思います。あらためてコメントありがとうございました。
ありがとう (モモ)
2014-03-14 20:23:49
そうでしたか.52年までは鉄橋があったんですね.
長年,心に引っかかていたものが取れたような気がします.当時の私の感覚では,湿原の茫々とした川岸を下って行って,突然湿原と全く違った人工物の風景が目に飛び込んできて,何故湿原の中に?って感じでした.狐に騙されたような気分だった.その後,塘路周辺の釧路川沿いを何度か釣り歩き,周辺の地形が頭に入ってからは,案外,塘路駅の近くだったことが分かり今は納得です. 挽歌橋についは,気になって数年前に1957年の「挽歌」映画ビデオをネットで購入.挽歌橋の由来ですね.当時はあの辺はもっと開けていた感じですですが,映画撮影用だったかも知れません.とにかく,原野人さんの情報興味深く拝見しました.感謝感謝です.
挽歌橋の記事、感動しました (yoshida takumi)
2019-03-26 08:59:51
 札幌在住で釧路に実家のある者です。
映画「挽歌」のファンでもあります。若き学生と人妻が逢う橋のシーンは名場面です。この橋はどこにあるのだろうと十代の頃、自転車で走り回った記憶があります。勝手に新釧路川の橋の横に旧鉄道の鉄橋跡があり此処だろうかと勝手に決めていました。後年図書館などに赴き調べたりしたのですが正解にはたどり着けず終いでした。この記事に偶然にめぐり合い感動しています。ありがとうございます。
https://yellow.ap.teacup.com/applet/blues/msgcate7/archive?b=24

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