原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

兎角に人の世は住みにくい。

2015年05月08日 08時34分33秒 | 社会・文化
夏目漱石の草枕の冒頭に『智に働けば角が立つ、情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』とある。草枕が世に出たのは明治39年(1906年)。日露戦争が終わった翌年であった。それから110年に及ぶ時が流れた。日本はその後第一次、二次の世界大戦を経験。そして敗戦という節目を迎え、民主主義という高尚な制度や、自由、人権を謳歌する近代的な社会となり、経済は世界に誇るまで豊かになった。しかしながら、明治の文豪が語った住みにくい世の中は、解消されたと言えるだろうか。

残念ながら、わが人の世は、明治時代より一段と住みにくくなっていると感じる。時代が違うから、住みにくさの質が違っているのだという大人の意見もあるだろうが、どうも違う。これを解消するためには、人間はもっともっと苦労しなければならないかもしれない。
明治と言えば、まだ江戸文化の香りを色濃く残していた時代。鎖国という隔絶された状況の中で、成熟した文化が日本には根付いた。その完成度はペリーが初めて日本を訪れた際、彼らが見てきた他のアジア諸国と全く違うと驚嘆したことでも知られている。アジアには蛮族国家しかないと思っていた彼らにとっては衝撃であった。もちろん異国人が異国文化をはじめて見て、新鮮な驚きのあまり誇張された部分もあるだろう。だとしても他のアジア諸国とは違った文化を日本で見たことは確かだ。国際化されていない無知な国民と侮り、アメリカは巧みに不平等条約を結ぼうとしたが、意外に日本に苦戦をしたことも知られている。今の外交下手の日本ではなかったのである。
この日本文化の支えとなったのは、学校制度もままならない江戸時代にもかかわらず、識字率が高く教養人がたくさんいたことにある。道徳観念などは欧米をしのぐものであった。士農工商という身分制度があったにもかかわらず、それを超える庶民生活もあった。たしか池波正太郎が言っていたと思うが、現在ある日本料理の元はすべて江戸時代に完成していたというのである。庶民の生活は貧乏なりに豊かであった。精神的には豊かな時代であったともいえる。こうした時代を色濃く残していた明治であっても、人の世は住みにくいものであった、と文豪は語っている。人と人のコミュニケーションの難しさは時代がどう変わろうとも、やはり解消できないものなのかと、ちょっとばかり絶望的になる。

人と人はぶつかり合うもの。単純なコミュニケーション不足だけでなく、仕事上のやり取りや性格が合わなければ喧嘩になる。当然刃傷沙汰もあり得る。今も昔も変わらない我欲のぶつかり合いでもある。だが今の方がはるかに複雑にそして陰湿になっているような気がしてならない。それは社会機構の複雑化がもたらしたものだ。例えば、裁判沙汰。気軽に告訴できる制度は弱者を守るために必要であるとは思うが、それを利用して、やたらと告訴する風潮が生まれている。アメリカの悪い風習に影響されたのではと思う。私怨を裁判で晴らそうとするかのようだ。普通はこうした私怨による行為を諌める識者と呼ばれる有力者が現れるものなのだが(江戸時代はそうであった)、この有力者が告訴を煽るという事態も今はある。私利私欲のなせる業だ。嘆かわしいというより、世も末である。
町の噂という何ともおかしな風も吹く。少し目立つ行為があると興味津々だけの話から、あることないことの尾ひれがつく。それが独り歩きをして見知らぬ話になることもある。これは昔もあったこと。現代はそうした風潮を諌める空気が生まれている。が、これに歯止めが利かない地域もまだある。噂を意識的に流して歩く人さえ現れる。噂話が大好物なのだ。こうした人は少数派なのだが、悪いことに彼らの声がきまって大きい。声高の少数派というのは実に始末が悪い。その声が風に乗るのだ。都会ではこうした話はあることはあるのだが、あまりにも情報が多すぎて話が薄まり余分な伝播力を持たない。それでも雑音はやはり聞き苦しい。これが、町や村となるとテレビ並みの普及率をもたらす。濃密なコミュニケーションというものの悪い面でもある。雑音に直撃され傷つく。
おおむねこうした声を発する人の評価は世間的にはあまり良くない。本人は残念ながらそのことに気づかない。というのも、その声を一生懸命聞くという無責任な受け手がいるからなのだ。そろそろ気づくべきだと思うのだが無理かな。被害者の声なき声があることも忘れてはならない。

明治の文豪よ、人類の進歩は発展途上の下の方です。まだまだ地球は住みにくい。

*水面を気軽に歩くミズスマシのように、世の中をスイスイと渡れたらどんなにいいだろう。と、ミズスマシの苦労など知らないから言えるのだろうな。

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