原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

没後と生誕の百年目。

2012年04月17日 08時17分27秒 | ニュース/出来事

 4月13日と15日。わずか二日の違いで、没後と生誕の百周年があった。1912年のこと。13日は石川啄木が26歳2カ月という短い人生を終えた日。啄木ゆかりの地が多い北海道では百回忌の行事が各地で開かれた。75日間ほど滞在していた釧路でも啄木会主催の講演会などが開かれている。没後百年となっても啄木の人気は高い。一方、15日は北の国で金日成の生誕百周年とか。啄木が亡くなってから二日後に生まれたらしい。啄木と金日成では何一つのつながりはない。だが、日韓併合が成立したのは、そのわずか二年前(8月)。その年に大逆事件(5月)が起きている。百年という時の流れの中でまったく違う二つが微妙に交錯するのを感じた。

 

ある記事で読んだのだが、啄木の句に以下のものがあった。

「地図の上、朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聞く」

解説では、日韓併合の時に詠んだ句であると言う。日韓併合は1910年8月29日に成立している。この併合が日本にとって良かったかどうかは別の機会に譲るとして、句を読めば啄木がこの併合に賛成していなかったことが分かる。国家とか権力に反発していることも分かる。じつはこの三か月前に大逆事件があった。幸徳秋水事件とも呼ばれる。この事件に啄木はかなり衝撃を受けたらしい。以後、左翼系の書物を読みあさっている。この年の11月には「やや遠きものに思ひし テロリストの悲しき心も―近づく日のあり」 幸徳事件で処刑された者への句であった。

 

これを読むと、いかにも啄木は反権力思想であったかのように思う。だが無政府主義のようなアナキーな人物ではなかった。むしろ強い愛国主義者であった。当時の社会の閉塞した状況と自らの現状を突破できない「いらだち」が高じた故の反発がそこにあった。愛国者だからこそ社会主義に突き進んだとも言える。

 

ある論客の言葉を思い出す。「日本の社会主義者には愛国思想がない。これが欧米の社会主義者たちと明確に違う点だ」。革命と騒ぎ立ててもその後のビジョンがまるでない。建国という意思などなく、ただ破壊することを目的としている。反日、自虐史観などその典型であろう。国家観がそこに欠落している。革命を叫んで集結した連合赤軍などの末路をみても分かる。旧社会党や共産党が消滅しかかっている最大の理由もここにあると思う。愛国者≒右翼、などという図式は古すぎるイデオロギーでしかない。左翼から保守派に転向する例がよくある。左翼にとっては彼らは裏切り者と切って捨てるが、基本的に裏切っているのは左翼の者たちだ。愛国の志で左翼に入って見ても、そこには愛国精神などかけらも見ることができない。彼らの推進する革命は日本のためではなく、イデオロギーのための革命であることを知った時、そんな革命に意義はなく、当然の帰結として袂を別つこととなる。多くの転向者に同様の例をみている。結果、彼らはより強い保守派になる。

(復元された明治時代の釧路新聞社社屋。啄木が勤めていた。現在「港文館」 と呼ばれ、啄木の資料などが展示されている)

話を啄木に戻そう。明治の頃はまだ愛国者が左翼思想に向かっていた時代であったと思う。無政府主義者はちょっと違うと思うが、これとても、まだ成熟しない思考に侵された結果であるとも言える。マルクスもまた愛国思想から資本論を書いている。いつ頃から日本の社会主義者から愛国精神が消えたのか。やはりロシア革命以後の影響だと思う。レーニンはともかくスターリンには愛国思想など全くない。その影響を受けたからこそ日本の社会主義に愛国思想が消滅していったのだ。特に労働組合活動がメーデーなどで活発化し、学生運動が盛り上がり、日教組が力を付けてきた頃、日本の左翼の現在の形が出来上がったと言える。

スターリンの肝いりで北朝鮮という国を建国した金日成が愛国者であるわけがない。金王朝思想は共産党貴族階級を作り上げ、専横政治に邁進したスターリンと見事に一致する。三代目まで世襲され、総国民の二年分の食糧代金が二分足らずで海の藻屑と化(ミサイルの失敗)しても、何一つの反省もない。考えてみれば、この北の国を応援した毛沢東も同様だ。愛国心などまったくなかった。でなければ文化大革命と称して自国民を何千万人も殺せるわけがない。毛沢東の子分のポルポトもまったく同様。アジアの社会主義国では自国民を虐殺する独裁者を生みだしていたのだ。ベトナムは少し違うかもしれないが。

 

啄木のように愛国者が向かった社会主義思想は、百年の時の流れで、愛国精神なき社会主義へと変貌して、日本とアジアの現代に生き残ったかのようだ。ヨーロッパにもアメリカにも存在しない愛国精神なき社会主義者の行く末に、今さらながらではあるが怖れを感じる。

 

*釧路市内には26基の啄木の歌碑がある。啄木が住んでいたゆかりの米町界隈を散策しながら啄木の息遣いや苦悩の一片を感じることができる。私は啄木フリークではないし、啄木の人間性についてはあまり知るところではないが、彼の心情から発せられた魂の叫びは、心に沁み込むものがある。約2時間半ほどで一周する歌碑めぐりは、明治の世情と啄木の心象風景を探る散策となる。愛国者であった啄木に思いが走る。


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2 コメント

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愛国・・・ (numapy)
2012-04-17 08:48:23
彼の国はなにやらまたまた始めてますね。生誕100年記念では祖父のいでたちで父親の遺言を詠む。独裁国家のイメージを専制国家にチェンジしようとしてますね。ま、厄介な国ですが中国もロシアも、自国民を虐殺し続けた歴史の国で、それこそこれも自国民虐待の枢軸と言えないこともない。ただ、何も決められない国になってしまった国も、見方を変えれば彼らが反面教師になってることは間違いありませんね。かなり情けない!
ところで、釧路には啄木の濃厚な香りが残ってますが、釧路の啄木がどうしてもピンと来なかった。その理由がたった今分かりました。不肖ワタクシにとっては、啄木はやはり岩手の人、それは上野駅の人だったのです。上野駅を利用するたびに啄木の詩を思い出していた。それが理由のようです。
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漂泊の人ですね (genyajin)
2012-04-17 09:11:36
釧路に滞在していたのは75日間。たぶん、北海道では小樽か函館の方がなじみなのかも。ただ彼が死ぬ前、骨は函館にと言っていたことがあるようです。基本的に生まれ故郷岩手は彼にとってなじめない土地であったのかもしれません。漂泊の詩人と呼ばれるように各地を転々としていたのは、根無し草の漂いそのもの。なんとなく、もの悲しい香りを漂わせますね。
でも人間的にどうなのかな。近くに彼のような人がいたなら、やはり友人にはしたくないでしょうね。
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