原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

異邦人。

2015年05月01日 09時30分00秒 | 社会・文化

カミュの不条理や久保田早紀の歌に影響されたわけではないが、昔から「異邦人」という言葉に惹かれている。同時に、私のこれまでの人生も異邦人であったと自負している。キリスト教徒を意味する言葉でもあるが、一般的には外国人や異国人、見知らぬ人、別の社会(地域)から来た人、旅人と訳される。良くいえばコスモポリタン、俗に言えば根なし草。異邦人とはそんな生き方が基本。大都会の中でも小さな町でも、海外でも、そして今も私は異邦人そのものなのだ。

 

北海道生まれは、みなこの素質を持っている。多くは渡来者の末裔。明治以降に渡った家族が大半だ。長くみても、たかだか150年前後の歴史しかない。神武以来2千年をはるかに超す日本の歴史に比べても、縄文時代の2万年の歴史に比べても、道産子はこの地にとっての新参者にすぎない。異邦人がアイデンティティーと言えるだろう。

私の根底にあるこの精神はどこにいても生き続けていた。あげくが旅をする仕事をして、海外を転々。まさに異邦人を生きていたと思う。

10年ほど前に北海道に戻ったのだが、当然ながら見知らぬ人ばかり。故郷というよりやはり自分はよそ者としか感じられなかった。なんとか地元に溶け込もうと、三つほど地域の活動に参加してみた。しかし、どうもうまくいかない。こっちが思う常識がどうも違っているようなのだ。どちらが正しいか、といえば、自分の方がと思ってしまう。この辺が異邦人の拙いところ。結果、周りから浮いた存在となる。ついたイメージは「変な人」。あ、やっぱり自分は異邦人だと、思い知る。

ただ、正直なところ、異邦人でいることの気楽さがある。どうせ変な人と思われているなら、それを通せばいい。さすればかなり自由に行動できる。この気楽さは無責任にも通じるのだが、私的には全く問題ない。傲慢と言えば傲慢であることは確かだ。

 

(木立の中のアオジ。彼も渡り鳥。今年撮ったお気に入りの写真)

この異邦人のところへ、統一地方選挙の際、戸別訪問でやってきた候補者が何人かいた。戸別訪問についての感想はすでに前のブログで述べているので、ここでは繰り返さない。

その中の一人の候補者の話をしよう。その人は私の前に現れて「あなたのことよく知っていますよ」と突然のように言った。そして実家の話や私の仕事など語りだした。私にとっては「それがどうしたというのだ」という程度の話でしかない。異邦人はどこまでも上から目線なのだ。この接触の仕方には二つの異なる意味があり、そのどちらかなのだろうと思った。一つは、あなたのことをよく知っている仲間(味方)です。ですからぜひ一票を、という意味。もう一つは、あなたのことは十分調べています。今後はあまり過激な発言をしないでね、という、圧力的意味。どちらかは判断できないのだが、どちらも異邦人には全く通じない。このことをこの候補者は理解していなかったようだ。過激な発言について少し説明すると、これまでブログ等で町議会の不可思議な点についてかなり語っている。辛辣なことも発言している(例えば「財界さっぽろに反論」のブログ。昨年の夏に投稿)。このことに関する圧力と言えないこともない。ま、ここは勝手な想像の世界であるが。

町議会を傍聴した時、見知らぬ異邦人の姿に、あいつは誰なのかと町議たちが気にしていた。傍聴の際、名前や住所を署名するので名前を確認することなど簡単だ。まして町議の一人は高校時代の同級生。調べるという行為も必要ない。分かって当たり前なのだ。ブログだけでなくツイッターやフェイスブックもやっており、全く隠していない。図書館に行けば私の本もある。そんなわけで、ことさら私のことを知っているといわれても、何の驚きもないし、特別な感情もない。もしこの候補者が私を自分の方に引き込もうとして、「知っているよ」発言をしたとしたら、残念ながら、その効果はまったくなかった。もっとも、もっと違う意味で言っていたのかもしれないが。私的にはどうでもいいことだ。

私は基本的に取るに足らない異邦人でしかない。私の発言がもし過激に感じたとしても、異邦人だからということで、大目に見ていただきたい。所詮、変わり者なのだから。もちろん、これからも、もっと厳しい意見を言うことは確か。覚悟をしておいた方がいい。なにしろ、殺人の動機が『太陽がまぶしかったから』、というような異邦人なのだから。


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