【当たり前じゃない、確実なものはないかもしれない】
前回記事(→・14年間語り~私の3.11~。)の続きです。
2011年3月11日、東日本大震災。
大地震、津波、それからも色々…。
被災した人々・失われてしまった命を思えば、何も失っていない東京~首都圏。
それでも怖かったし恐ろしかった。
申し訳なくて、辛いなんて発信できるわけなかったけど。
停電したのは11日~12日の早朝?くらいまでで、起きたら電気は元どおりになっていました。
室内が明るい、コタツが使える、テレビが見られる、お風呂も沸かせる(ガス・水道だけではできない)。
まー…。
そこから、恐ろしい映像から、逃げられない被災地の現実を垣間見ることに。
安全な場所にいて、テレビで見てるだけでこんなに辛いのに、現地にいる人たちはどんなにか…。
どんどん増えていく死者数・行方不明者数。
原発事故もね。
先輩・ベテランレディー達とブルブル怖がりながらもちょいちょい話したなあ…。
11日は電車が動かなかった。
それで多くの都心に働きに・学びに出てる人たちは、歩いて帰ったの。
東京郊外でも遠いのに、神奈川まで、埼玉まで、千葉まで…もっと遠いところ帰ろうとした人もいたかも。
ボロボロでしたわ。
11日に何時間も歩いて帰って、12日の朝から働いてた人たくさんいたなあ。
みんなどんなに疲れてて怖かったことやら。
けっこう大きい余震が東京(だけじゃなく、被災地~首都圏~都心、と)にもあって怖かった…恐ろしかった。
心臓バクバクして、揺れが収まっても恐怖でまた揺れてる気がして。
「ペットボトルやコップに入れた水の揺れを目視するといいよ。
揺れてない、大丈夫、って安心できるから」
というテクニックを習った。
今でもやります。
計画停電もありましたよね。
東京23区は除外でしたが、それ以外の地域は毎日3時間ずつだったっけ、停電させて電力消費を抑えるという。
23区に学びに・働きに来てる人は帰れなくなったりするから、早退させたりしたよね?
そのときよく帰りに寄っていた駅直結百貨店の販売員さんが
「いつもなら交代で店番するのに、地震の後は休憩も一切無しで1日中一人なんです。
他のブランドさんや百貨店の社員さんに助けてもらってトイレに行って、5分で食事取ってますけど、ひどいですよね…」
と話してくれた。
客に愚痴りたくもなるだろう、そんな職場環境…立ち仕事ってだけで辛いだろうに…。
中国人スタッフさんを多くバイト雇用しているらしいお惣菜屋さんは
「地震が怖くて、中国の子達皆辞めますとかって言って。
でも帰る目処が立たないらしくて、やっぱりシフト出れます入れてくださいとか言って。
怖いのはわかるけど無責任、こっちだって限界なのにむかつく!!」
と愚痴っていた。
(これは私に言ったんじゃなくて、スタッフさん同士の会話を聞いてしまった…)
2011年はまだまだ仕事サマ・雇用主サマの時代で、ひどい働かせられ方をしていた。
多くの人が正社員・バイト問わず洗脳されて社畜(=社会の家畜)化していたものです。
そうじゃなきゃそもそも雇ってもらえなかっただろうしね。
それを象徴するような記憶だわー。
高層ビルのオフィスで働いていた人は、3.11の時とにかく揺れて(揺れを逃すためにめっちゃ揺れる)皆ありえないほど気持ち悪くなってしまい、
「代わりばんこにトイレに吐きに行った」
と証言する。
東北・首都圏以外出身の人は
「恐ろしくてここではもう働けません」
とぞろぞろ退職していったと。
そりゃそうなのか…怖いものなあ。
私は全然知らなかったけど、飲食店や百貨店・ショッピングモールなどは店員さん達もすごく怖いのに、プロとしてお客さん達を避難誘導したのだとか。
そりゃそうか(2回目)…誰かがやってくれないとダメだもの…。
ありがたいったら。
そんな、3.11~その後。
私の記憶では、2011年って全然好景気って雰囲気ではありませんでした。
不景気だとマスコミが扇動してたと思うし、我々も
「良い時代ではないらしいからなー」
と信じてた感じ。
(悪いところはもちろん、いーっ……っっぱいありました!)
でも、それでも。
幸せで安全な当たり前が確実にあった。
3.11は
「そうじゃないのかもしれない」
と多くの人に学ばせた。
そして
「このままでいいんだろうか」
と思った人がたくさんいたのです。
私もその一人。
特別な情熱があるわけじゃないけど、このままでいいのか…何かしないとダメなんじゃないの…と思うようになったのです。
今回も長くなっちゃったね(笑)。
ここで切ります、読んでくださってありがとうございます
前回記事(→・14年間語り~私の3.11~。)の続きです。
2011年3月11日、東日本大震災。
大地震、津波、それからも色々…。
被災した人々・失われてしまった命を思えば、何も失っていない東京~首都圏。
それでも怖かったし恐ろしかった。
申し訳なくて、辛いなんて発信できるわけなかったけど。
停電したのは11日~12日の早朝?くらいまでで、起きたら電気は元どおりになっていました。
室内が明るい、コタツが使える、テレビが見られる、お風呂も沸かせる(ガス・水道だけではできない)。
まー…。
そこから、恐ろしい映像から、逃げられない被災地の現実を垣間見ることに。
安全な場所にいて、テレビで見てるだけでこんなに辛いのに、現地にいる人たちはどんなにか…。
どんどん増えていく死者数・行方不明者数。
原発事故もね。
先輩・ベテランレディー達とブルブル怖がりながらもちょいちょい話したなあ…。
11日は電車が動かなかった。
それで多くの都心に働きに・学びに出てる人たちは、歩いて帰ったの。
東京郊外でも遠いのに、神奈川まで、埼玉まで、千葉まで…もっと遠いところ帰ろうとした人もいたかも。
ボロボロでしたわ。
11日に何時間も歩いて帰って、12日の朝から働いてた人たくさんいたなあ。
みんなどんなに疲れてて怖かったことやら。
けっこう大きい余震が東京(だけじゃなく、被災地~首都圏~都心、と)にもあって怖かった…恐ろしかった。
心臓バクバクして、揺れが収まっても恐怖でまた揺れてる気がして。
「ペットボトルやコップに入れた水の揺れを目視するといいよ。
揺れてない、大丈夫、って安心できるから」
というテクニックを習った。
今でもやります。
計画停電もありましたよね。
東京23区は除外でしたが、それ以外の地域は毎日3時間ずつだったっけ、停電させて電力消費を抑えるという。
23区に学びに・働きに来てる人は帰れなくなったりするから、早退させたりしたよね?
そのときよく帰りに寄っていた駅直結百貨店の販売員さんが
「いつもなら交代で店番するのに、地震の後は休憩も一切無しで1日中一人なんです。
他のブランドさんや百貨店の社員さんに助けてもらってトイレに行って、5分で食事取ってますけど、ひどいですよね…」
と話してくれた。
客に愚痴りたくもなるだろう、そんな職場環境…立ち仕事ってだけで辛いだろうに…。
中国人スタッフさんを多くバイト雇用しているらしいお惣菜屋さんは
「地震が怖くて、中国の子達皆辞めますとかって言って。
でも帰る目処が立たないらしくて、やっぱりシフト出れます入れてくださいとか言って。
怖いのはわかるけど無責任、こっちだって限界なのにむかつく!!」
と愚痴っていた。
(これは私に言ったんじゃなくて、スタッフさん同士の会話を聞いてしまった…)
2011年はまだまだ仕事サマ・雇用主サマの時代で、ひどい働かせられ方をしていた。
多くの人が正社員・バイト問わず洗脳されて社畜(=社会の家畜)化していたものです。
そうじゃなきゃそもそも雇ってもらえなかっただろうしね。
それを象徴するような記憶だわー。
高層ビルのオフィスで働いていた人は、3.11の時とにかく揺れて(揺れを逃すためにめっちゃ揺れる)皆ありえないほど気持ち悪くなってしまい、
「代わりばんこにトイレに吐きに行った」
と証言する。
東北・首都圏以外出身の人は
「恐ろしくてここではもう働けません」
とぞろぞろ退職していったと。
そりゃそうなのか…怖いものなあ。
私は全然知らなかったけど、飲食店や百貨店・ショッピングモールなどは店員さん達もすごく怖いのに、プロとしてお客さん達を避難誘導したのだとか。
そりゃそうか(2回目)…誰かがやってくれないとダメだもの…。
ありがたいったら。
そんな、3.11~その後。
私の記憶では、2011年って全然好景気って雰囲気ではありませんでした。
不景気だとマスコミが扇動してたと思うし、我々も
「良い時代ではないらしいからなー」
と信じてた感じ。
(悪いところはもちろん、いーっ……っっぱいありました!)
でも、それでも。
幸せで安全な当たり前が確実にあった。
3.11は
「そうじゃないのかもしれない」
と多くの人に学ばせた。
そして
「このままでいいんだろうか」
と思った人がたくさんいたのです。
私もその一人。
特別な情熱があるわけじゃないけど、このままでいいのか…何かしないとダメなんじゃないの…と思うようになったのです。
今回も長くなっちゃったね(笑)。
ここで切ります、読んでくださってありがとうございます

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