【積年の想いで満ちる…】
しつこいですが、2011年4月から実に14年間!お世話になったこのgooblogさんがサービス終了するということで…私が生きたこの14年間を思い出して書いてみようと思います

14年かあ…。
長いねえ。
3.11の時はお母さん(当時ご近所に住んでいたレディーね)のお腹の中にいた赤ちゃんが、生まれて成長して素敵な13才のお姉さんになるのだから…そりゃ全ての人が変わりうる時間だ。
長いような短いような…そんな14年間。
2011年からの私の物語
【やはりきっかけは3.11】
ブログを書き始めるきっかけになったのは、間違いなく3.11でした。
実際書き始めたのは翌月の4月でしたけどね。
2011年。
多くの日本に住む人々の運命を変えた出来事…東日本大震災。
2011年の3月11日でした。
当時の私は実家に住んでいて、都心と郊外とを電車で行き来する生活。
若い頃はありがちですが、予定のない日はまずなかった。
何かしら毎日ある。
でもこの日はめずら~しく何の予定もなく、完全すっぴんで家を出ずに過ごしていました。
朝昼から愛する動物の家族(ペット)とゆっくり遊べる幸せよ…。
平日金曜日。
14時46分。
その時が来てしまった。
東京も震度5強の強い嫌~な揺れが。
しかも長く続きました。
(神奈川・埼玉もだいたいこのくらいの揺れのところが多く、千葉は6弱揺れた地域もあったそうです)
本当に長かった。
被災地からは遠く離れていたのに、
「ああ、ここで私は死ぬのか」
と思ったもの。
「この子を守らなきゃ」
ってペットを抱えてね。
死んだらこの子も死んじゃう、どうしよう、神さま…そんな風に考えていたのかな。
揺れてる時間は、ものすごーく長くて恐ろしかったけど、今調べたらあの揺れはだいたい3分間=180秒くらいだったのだそうで。
永遠なんじゃないかと感じるほど怖かったよ…。
揺れが収まって心臓バクバクながら、とりあえずは二人(私&ペット)でホーッ

で。
実家のある街はこの時停電したんですよね。
(友達が住んでいる隣町はしなかった)
明るい時間帯だから一瞬わからなかったけど、テレビがつかない電気がつかない。
自販機(コンビニに行く元気はないけど、ジュース買って飲んで心落ち着かせようと徒歩30秒くらいのところに行った)も動かない。
なのに不思議な話で…充電が生きてたのかなと考えているんですが、なぜか海外に住む姉からの国際電話が固定電話で受けられた。
「鳥まりちゃん、大丈夫!?
日本が大変なことになってるって知って電話してる!!」
ありがたいね。
「すごく揺れて怖かったけど、私も○○(ペット)も無事。
父母はまだ帰ってないけど今日は町内にいると思うし、怪我とかはないと思う。
でもテレビがつかないから何も情報がわからない」
と話すと、
「じゃあお姉ちゃんがBSNHKみてあげるわ!!」
と外国経由で情報を教えてくれた。
「震源地は…最大震度は推定…」
なんて話してたら、姉が見ている外国のテレビには映像が流れていたのだろう。
「うわ、津波、津波だ、ひどいよ。
すでに地震で崩れてるところもたくさんあって…えー……」
言葉だけで映像がない情報は、ちっとも現実感がなくて。
「○○の映像だって、これは××で…」
と東北の地名を出されても、え、え、え、そもそも東京が震源地じゃなくて、え?とチンプンカンプン。
津波…え、こんな大きな地震で、でもここは震源地じゃなくて、つ、津波まで…??
(津波の到着時刻を調べてみたら、あれは15時18分以降の出来事だったのか…)
「また連絡するからね、気をつけてね」
と電話は切れた。
オンライン通話が主流じゃなかった時代、国際電話は高かっただろう。
姉ありがとうね。
電話してる間はまだ誰も帰ってきていなかった。
でもすぐに合流。
(ふつう忙しい金曜日でも、3月だったからなのか同居家族は全員その時刻町内にいてすぐ家に帰れた。
母は近所の美容室に行ってて、白髪染め&カットが完了した瞬間に揺れが来たらしい。
守られてんなー)
停電はしているが、ガス・水道は通常だったのが幸い。
寒い日だったけどガスストーブだったから温かかった。
それでもコタツが入らない・ペット用ヒーターが効かないので湯たんぽで代用するなどして。
電気の代わりは仏壇から持ってきた燭台+ろうそく、それから…今(25年4月)に書くと感慨深いですが、前年(2010年)に今再び話題の女優さんがキャンドルアーティストさんと再婚していたため、
「今話題の!
キャンドルアーティストさんが作ったキャンドルだよ~」
と友達がプレゼントしてくれていたゴン太キャンドルが家にあって、それも使いました。
暗い場所で灯りがあるってあんなに不安が和らぐのかと思ったよ。
夕飯はお鍋でした。
めっちゃ覚えてる(笑)。
家の中はこうだったけど…。
外に出ると、街全体が停電しているから星がよく見えて本当に美しかった。
夜空は黒じゃなくてこんなに明るい青なんだと知りましたし、
「星が降る」
ように満天の星がきらめいていた。
こんな都会でも…感動しましたね。
自然は恐ろしくて、大きくて、とても美しいと身を持って知った。
「被災してねーだろ」
と自分でも突っ込んじゃうけど怖かったんだよ…。
水道・ガスは通ってても電気がないからお風呂には入れず。
両親は早寝してたけど、私は怖くて少なくとも日付変わるまではリビングで過ごしてましたね。
「お昼にラジオつけたら、津波です危険です避難してくださいってアナウンサーさん叫んでたな…。
あんなに怖い声で話すのを初めて聞いた」
「お姉ちゃんの電話切った後、電話何も動かなくなっちゃった(ボタン押す音すらしないしディスプレイダウン)んだよなー。
なのになんで話せたんだろう」
「皆は無事だろうか…」
2011年3月はLINEもなく、通信が混むので全くつながらなかった。
ガラケーの人も多かったですしね。
あんなに暗い中で、どうやって時間を過ごしたのやら。
ケータイでメッセージやりとりは出来ず、漫画や本も読めず。
寒い自室でしっかり着込んでベッドに入って眠りました。
朝には電気が復旧していたけど…。
ここから映像と共に知る現実は、恐ろしいなんて言葉で言い表せないものでした…。
…。
…。
めっちゃ長くなってしまいましたね。
いい加減ここで1回切ります。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます
しつこいですが、2011年4月から実に14年間!お世話になったこのgooblogさんがサービス終了するということで…私が生きたこの14年間を思い出して書いてみようと思います


14年かあ…。
長いねえ。
3.11の時はお母さん(当時ご近所に住んでいたレディーね)のお腹の中にいた赤ちゃんが、生まれて成長して素敵な13才のお姉さんになるのだから…そりゃ全ての人が変わりうる時間だ。
長いような短いような…そんな14年間。
2011年からの私の物語

【やはりきっかけは3.11】
ブログを書き始めるきっかけになったのは、間違いなく3.11でした。
実際書き始めたのは翌月の4月でしたけどね。
2011年。
多くの日本に住む人々の運命を変えた出来事…東日本大震災。
2011年の3月11日でした。
当時の私は実家に住んでいて、都心と郊外とを電車で行き来する生活。
若い頃はありがちですが、予定のない日はまずなかった。
何かしら毎日ある。
でもこの日はめずら~しく何の予定もなく、完全すっぴんで家を出ずに過ごしていました。
朝昼から愛する動物の家族(ペット)とゆっくり遊べる幸せよ…。
平日金曜日。
14時46分。
その時が来てしまった。
東京も震度5強の強い嫌~な揺れが。
しかも長く続きました。
(神奈川・埼玉もだいたいこのくらいの揺れのところが多く、千葉は6弱揺れた地域もあったそうです)
本当に長かった。
被災地からは遠く離れていたのに、
「ああ、ここで私は死ぬのか」
と思ったもの。
「この子を守らなきゃ」
ってペットを抱えてね。
死んだらこの子も死んじゃう、どうしよう、神さま…そんな風に考えていたのかな。
揺れてる時間は、ものすごーく長くて恐ろしかったけど、今調べたらあの揺れはだいたい3分間=180秒くらいだったのだそうで。
永遠なんじゃないかと感じるほど怖かったよ…。
揺れが収まって心臓バクバクながら、とりあえずは二人(私&ペット)でホーッ


で。
実家のある街はこの時停電したんですよね。
(友達が住んでいる隣町はしなかった)
明るい時間帯だから一瞬わからなかったけど、テレビがつかない電気がつかない。
自販機(コンビニに行く元気はないけど、ジュース買って飲んで心落ち着かせようと徒歩30秒くらいのところに行った)も動かない。
なのに不思議な話で…充電が生きてたのかなと考えているんですが、なぜか海外に住む姉からの国際電話が固定電話で受けられた。
「鳥まりちゃん、大丈夫!?
日本が大変なことになってるって知って電話してる!!」
ありがたいね。
「すごく揺れて怖かったけど、私も○○(ペット)も無事。
父母はまだ帰ってないけど今日は町内にいると思うし、怪我とかはないと思う。
でもテレビがつかないから何も情報がわからない」
と話すと、
「じゃあお姉ちゃんがBSNHKみてあげるわ!!」
と外国経由で情報を教えてくれた。
「震源地は…最大震度は推定…」
なんて話してたら、姉が見ている外国のテレビには映像が流れていたのだろう。
「うわ、津波、津波だ、ひどいよ。
すでに地震で崩れてるところもたくさんあって…えー……」
言葉だけで映像がない情報は、ちっとも現実感がなくて。
「○○の映像だって、これは××で…」
と東北の地名を出されても、え、え、え、そもそも東京が震源地じゃなくて、え?とチンプンカンプン。
津波…え、こんな大きな地震で、でもここは震源地じゃなくて、つ、津波まで…??
(津波の到着時刻を調べてみたら、あれは15時18分以降の出来事だったのか…)
「また連絡するからね、気をつけてね」
と電話は切れた。
オンライン通話が主流じゃなかった時代、国際電話は高かっただろう。
姉ありがとうね。
電話してる間はまだ誰も帰ってきていなかった。
でもすぐに合流。
(ふつう忙しい金曜日でも、3月だったからなのか同居家族は全員その時刻町内にいてすぐ家に帰れた。
母は近所の美容室に行ってて、白髪染め&カットが完了した瞬間に揺れが来たらしい。
守られてんなー)
停電はしているが、ガス・水道は通常だったのが幸い。
寒い日だったけどガスストーブだったから温かかった。
それでもコタツが入らない・ペット用ヒーターが効かないので湯たんぽで代用するなどして。
電気の代わりは仏壇から持ってきた燭台+ろうそく、それから…今(25年4月)に書くと感慨深いですが、前年(2010年)に今再び話題の女優さんがキャンドルアーティストさんと再婚していたため、
「今話題の!
キャンドルアーティストさんが作ったキャンドルだよ~」
と友達がプレゼントしてくれていたゴン太キャンドルが家にあって、それも使いました。
暗い場所で灯りがあるってあんなに不安が和らぐのかと思ったよ。
夕飯はお鍋でした。
めっちゃ覚えてる(笑)。
家の中はこうだったけど…。
外に出ると、街全体が停電しているから星がよく見えて本当に美しかった。
夜空は黒じゃなくてこんなに明るい青なんだと知りましたし、
「星が降る」
ように満天の星がきらめいていた。
こんな都会でも…感動しましたね。
自然は恐ろしくて、大きくて、とても美しいと身を持って知った。
「被災してねーだろ」
と自分でも突っ込んじゃうけど怖かったんだよ…。
水道・ガスは通ってても電気がないからお風呂には入れず。
両親は早寝してたけど、私は怖くて少なくとも日付変わるまではリビングで過ごしてましたね。
「お昼にラジオつけたら、津波です危険です避難してくださいってアナウンサーさん叫んでたな…。
あんなに怖い声で話すのを初めて聞いた」
「お姉ちゃんの電話切った後、電話何も動かなくなっちゃった(ボタン押す音すらしないしディスプレイダウン)んだよなー。
なのになんで話せたんだろう」
「皆は無事だろうか…」
2011年3月はLINEもなく、通信が混むので全くつながらなかった。
ガラケーの人も多かったですしね。
あんなに暗い中で、どうやって時間を過ごしたのやら。
ケータイでメッセージやりとりは出来ず、漫画や本も読めず。
寒い自室でしっかり着込んでベッドに入って眠りました。
朝には電気が復旧していたけど…。
ここから映像と共に知る現実は、恐ろしいなんて言葉で言い表せないものでした…。
…。
…。
めっちゃ長くなってしまいましたね。
いい加減ここで1回切ります。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます

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