後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第六章、結婚そして独立

2013年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム

=======第六章、結婚そして独立==================

浅市が帰ってきて10日が経った頃、道で出会った知人が、「あんたの兄の澤義さんが駅前で共産党の大塚さん(当時の青森の共産党青年局長)となんだか騒いでるよ」と知らせてくれた。

浅市はすぐさま駅に行ってみた。数十人の党員と赤旗を翻し、拡声器で大塚氏がなにやら演説をしていて、その脇で兄が仲間とスクラムを組んでいた。
そこで思い切って浅市は「兄さんを返してほしい」と叫んだ。大塚氏と浅市の議論が大衆を前に始まった。
そこへ兄の澤義が間に入っての大論争になり、天皇制や戦争責任など二時間以上も論じ合ったそうだ。
翌日の新聞の一面に「兄弟のイデオロギー論争白熱」みたいな見出しで大きく載ったそうだ。

その後、家へようやく帰ってきた兄、澤義と論争の続きが三日三晩続いたそうだ。どっちも負けず嫌い、ところが浅市のほうが強情っ張りでは兄の上をいく。
浅市が論破して兄はついに降参したという。どんな内容かは聞いていない。
抜群の記憶力の頭脳とひたむきな思いが兄に通じたのだろうか。

党員をやめた兄、澤義はしばらく目標を失っていたが、長兄と家の仕事をしながら民謡を習い始めた。
青森油川で警察をやめて、津軽民謡を指導していた成田雲竹の一番弟子になったのだった。
師は後に日本民謡協会から名人位、国からは勲五等を受ける。そして後にその兄は弟、浅市の書の道場でで民謡教室を開くことになるのであった。

長男の沢一と次男の澤義の二人が家業に就いたことで身が軽くなった浅市は一層書の勉強に励んだ。また八重との交流も復活した。

ある日、訪ねて行った浅市に対し八重の父がこう言った。

「間山さん!そんなに娘が気にいったならさっさと連れてってくれ!」。

八重は花嫁道具もなく少しの衣類と床屋の道具を持って青森へきた。
ところが段取りもなく浅市の家に来たものだから、母、つえ はただただ驚いて「いやぁ困った困った」と言う。
家には二人の住む部屋もない。浅市の立憲養正会の同志の一人が、うちに来なさいと話がまとまった。

そんなこんなで八重は近所の家を周り、床屋はいかがですか?と働き始めた。
浅市は同志の計らいで、あけび職人を紹介してもらい、そのあけび細工を手伝いながら、二人の新婚生活が始まった。浅市23歳、八重26歳であった。
ほどなくして、八重は妊娠、冬の大寒の1月21日長男が誕生。
親子三人であけび職人の住む側の長屋に引越した。そこで一年後、二男を誕生。(それが私だった)
あけび細工が売れて、順調に生活をしていたが、職人仲間が函館で浅市の売上金をすべて持ち逃げしてしまった。一ヶ月はゆうに暮らせるほどの金だったので、そのショックから立ち直れずに浅市はヤケになりパチンコを毎日するようになった。

それでもミルク代を稼がなければならないので、八重は産後の肥立ちも明けないまま、極寒の冬に周り床屋をしなければならなかった。二男をおぶって長男の手をひき角巻をかぶって吹雪の中を毎日歩いたそうである。

不憫に思った人から衣類や餅やコメなどももらったそうだ。
床屋がダメなときはパチンコで得たタバコを売って生活もしたと聞いた。

そんな生活を、長屋を仕切っていた露天商の親分の◇村さんが心配して、「わしの仕事をよかったら手伝ってくれんか」と誘ってくれた。父は喜んで引き受けたそうだ。

街の繁華街で『ぽんせんべい、お面』など、宵宮では結構頑張って働いたそうだ。
青森市だと世間の目もあったので、もっぱら五所川原とか弘前での仕事だったそうだ。
(世間体は悪いが、このころ一番幸せだった気がすると母は後に話していた。)

露天商を手伝ってることが、実家の兄に伝わり、ある日リヤカー2台もってきて、荷物を積み長屋を引き払ってしまった。

「この大馬鹿者!間山の名さ恥をぬる気だが!おめぇヤクザにでもなるんだが!」
と母親にこっぴどく怒られたそうだ。
そして実家にちかい物置小屋を急ぎ改造した家を当てがられ、「さぁここで習字の塾でもやればいいから」

習字の開塾を5月5日にしてポスターをつくり、街の電信柱に張って歩いたりした。
兄もこんにゃくの配達をしながらも趣意書をお店においてもらった。

みんなの支援で遂に昭和27年、5月5日間山浅市の習字塾が開かれた。
最初に集まったのは20人を超えて、大人のお弟子さんも2名ほどいたという。その晩は祝宴となり、多くの先輩の書道の先生や国柱会、友人たちが集まって門出を祝っってくれた。

米町の道場と外崎先生の懐南書道塾の経験もあってか、指導は問題もなく順調だった。
すこし遅れて看板も出来上がり、屋号は『水茎書道塾』となった。雅号も陵風と名乗ることにした。

明治天皇の御歌の『鏡には映らぬ人の真心を さやかに見ゆる水茎のあと』から引用したのだった。
毎週火木土三回 最初の月謝は100円くらいだったと聞いている。母は相変わらず周り床屋をしていたし、合間に浅市はあけび細工も復活させた。(第七章へ続く)

下は『水茎書道塾』が順調に栄え、その書道展をした折の陵風(浅市)の33歳の時の写真です。その左の水茎展の書はこの記事の筆者の水木りょうさんの9歳の時の作品です。

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日本の豪華客船は海外に比較してひどく弱小過ぎる・・・その文化的背景を考える

2013年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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上は日本の豪華客船の飛鳥II,50146トン。

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上はサン・プリンセス号、77000トンです。

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(上と下は世界最大の豪華客船の、オアシス オブ ザ シーズ号、225,282トンの外観と内部の様子です。詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BAにあります。)

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一昨日、横浜の大桟橋の左右に日本の飛鳥IIとアメリカのサン・プリンセス号が並んで停泊していました。見るとアメリカの船のほうが随分と大きいのです。

戦前生まれの私はすぐにサン・プリンセス号は7万トン余の戦艦武蔵や大和よりも大きいのではないかと考えてしまったのです。

帰宅後、いろいろ調べてみました。そうしたらアメリカのオアシス オブ ザ シーズ号は22万トン以上の船なのです。

上の写真は上から順に飛鳥II号、サン・プリンセス号、オアシス オブ ザ シーズ号の写真です。

急に不安になって海外の国々の豪華客船の数とその大きさを調べてみました。

落胆してしまいた。日本は4隻だけですが、ドイツ16隻以上、イタリア13隻以上、スペインですら5隻以上で、船の大きさは7万トン、9万トンと大きいのです。

もっとすごいのはアメリカで数百隻はありそうです。数だけではありません。アメリカの船には15万トンから20万トンの船がザラにあるのです。

これには正直、度肝を抜かれました。

そこで深く考え始めました。

「どの民族がどのような事にお金を使って人生を楽しむかは、その民族の文化の特徴なのです」というごく当たり前の結論に到達しました。

欧米人は豪華客船にお金を使い人生を楽しむ民族なのです。日本人、そしてアジア人の民族の文化には豪華客船という文化がなじまないのです。はっきり言えば嫌いな趣味なのです。

この結論をもう少し定量的に示します。

豪華客船の国別の数と大きさは末尾の参考資料にしめしました。一目瞭然なのでこれ以上の説明は致しません。

一方、問題は何人の日本人が毎年この豪華客船の趣味にお金を払っているかということです。

日本の国土交通省の調べでは、日本のクルーズ元年という「ふじ丸」の就航した1989年の豪華客船乗船者数は15万人余、それから少し増えたり減ったりしましたがほぼ横ばいで、2011年には18万余人でほとんど一定です。

これを世界の最近の年間乗船者数の約2000万人に比較する非常に少ない感じがします。とくにアメリカの乗船者が急増しています。

従って欧米では豪華客船はビジネスとして大きな成長分野なのです。

これは欧米と日本、そしてアジアとの文化の根源的な相違が原因になっています。

話は飛びますが、私は50歳の時から25年間、クルーザーヨットの趣味を楽しんでいました。

ところが日本全体のクルーザー・ヨットの総数は過去30年間、3000艇を越えることはありませんでした。その数はほぼ横ばいです。このヨットの趣味は日本では絶滅危惧種の趣味なのです。

その25年間、何故日本ではヨットの趣味が広がらないかいろいろ考えてみました。

それは豪華客船の趣味と同じような文化の根源的な相違が原因になっているのです。

その原因は幾つかあり、長くなるので次回に説明いたします。

最後にルース・ベネデクトの言葉を強調しておきます。「どんな民族文化にも絶対に優劣は無い」。しかし相違は厳然としてあるのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=======参考資料===================

日本と海外の豪華客船の一覧表(出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E5%AE%A2%E8%88%B9

======日本の豪華客船=======================

  • 郵船クルーズ(日本郵船系)

        飛鳥II:50,142トン

  • 商船三井客船(商船三井系)
    • にっぽん丸:22,472トン
  • 日本クルーズ客船(SHKライングループ)
    • ぱしふぃっくびいなす:26,518トン
  • 日本チャータークルーズ(商船三井客船・日本クルーズ客船合弁)
    • ふじ丸:22,235トン

======海外の豪華客船======================

  • アイーダ・クルーズ(ドイツ)
アイーダディーヴァ級<同型船7隻> (総トン数69,203t 2007年就航<第1船>)
アイーダヴィータ級<同型船2隻> (総トン数42,289t 2002年就航<第1船>)
アイーダカラ (総トン数38,557t 1996年就航)
  • MSCクルーズ(イタリア)
MSC ファンタジア級<同型船4隻> (総トン数137,936t 2008年就航<第1船>)
MSC ムジカ級<同型船4隻> (総トン数90,409t 2006年7月就航<第1船>)
MSC リリカ級<同型船2隻> (総トン数59,058t 2003年6月就航<第1船>)
MSC アルモニア級<同型船2隻> (総トン数58,714t 2001年6月就航<第1船>)
MSC メロディ(総トン数35,143t 1982年4月就航)
  • オーシャニア・クルーズ(アメリカ)
マリーナ級<同型船2隻> (総トン数66,084t 2011年就航<第1船>)
レガッタ級<同型船2隻> (総トン数30,277t 1998年就航<第1船>)
ノーティカ (2000年就航)
  • カーニバルクルーズライン(アメリカ)
カーニバル・ドリーム級<同型船3隻> (総トン数128,251t 2009年就航<第1船>)
カーニバル・ブリーズ(総トン数128,251t 2012年就航<第3船>)
カーニバル・コンクェスト級<同型船6隻> (総トン数110,239t 2002年就航<第1船>)
カーニバル・デスティニー級<同型船3隻> (総トン数101,353t 1996年就航<第1船>)
カーニバル・トライアンフ(総トン数101,353t 1999年就航<第2船>)
カーニバル・スピリット級<同型船4隻> (総トン数85,920t 2001年就航<第1船>)
ファンタジー級<同型船8隻> (総トン数70,367t 1990年就航<第1船>)
  • キュナード・ライン(イギリス/アメリカ)※カーニバルクルーズ傘下
クイーン・メリー2(総トン数148,528t 2004年就航)
クイーン・エリザベス (総トン数90,901t 2010年就航)
クイーン・ヴィクトリア (総トン数90,049t 2007年12月就航)
  • クラシック・インターナショナル・クルーズ(ポルトガル)
プリンセス・ダナエ (総トン数16,531t 1955年就航)
  • クリスタル・クルーズ(アメリカ)※日本郵船完全子会社
クリスタル・セレニティ(総トン数68,870t 2003年就航)
クリスタル・シンフォニー (総トン数51,044t 1995年就航)
  • クリッパー・クルーズ・ライン(アメリカ)
クリッパーオデッセイ (総トン数 5,218t 1999年就航)
  • コスタ・クルーズ(イタリア/アメリカ)※カーニバルクルーズ傘下
コスタ・コンコルディア級<同型船4隻> (総トン数114,147t 2006年就航<第1船>)
コスタ・フォーチュナ級<同型船2隻> (総トン数102,587t 2003年就航<第1船>)
コスタ・ルミノーザ級<同型船2隻> (総トン数92,720t 2009年就航<第1船>)
コスタ・アトランティカ級<同型船2隻> (総トン数85,619t 2000年就航<第1船>)
コスタ・ヴィクトリア (総トン数75,166t 1996年就航)
コスタ・クラシカ級<同型船2隻> (総トン数52,926t 1992年就航<第1船>)
コスタ・アレグラ (総トン数28,430t 1969年就航)
コスタ・ヴォイジャー (総トン数24,391t 2000年就航)
  • コンパニ・デュ・ポナン(フランス)
ル・ボレアル級<同型船2隻> (総トン数10,944t 2010年就航<第1船>)
  • シーボーン・クルーズライン(アメリカ)※カーニバルクルーズ傘下
シーボーン・オデッセイ級<同型船3隻> (総トン数32,346t 2009年就航<第1船>)
シーボーン・プライド級<同型船3隻> (総トン数9,975t 1998年就航<第1船>)
  • シルバーシー・クルーズ(アメリカ)
シルバー・スピリット(総トン数36,009t 2009年就航)
シルバー・シャドー級<同型船2隻> (総トン数28,258t 2000年就航<第1船>)
シルバー・クラウド級<同型船2隻> (総トン数16,927t 1994年就航<第1船>)
  • スタークルーズ(マレーシア)
スーパースター・ヴァーゴ (総トン数75,338t 1999年就航)
スーパースター・アクエリアス(総トン数51,309t 1993年就航)
スーパースター・ジェミナイ(総トン数50,764t 1992年就航)
スーパースター・リブラ (総トン数42,285t 1988年就航)
スター・パイシス (総トン数40,053t 1989年就航)
メガスター・トーラス級<同型船2隻> (総トン数3,200t 1991年就航)
  • セレブリティ・クルーズ(アメリカ)※RCI傘下
セレブリティ・ソルスティス級<同型船5隻> (総トン数121,878t 2008年就航<第1船>)
ミレニアム級<同型船4隻> (総トン数91,000t 2000年就航<第1船>)
センチュリー級<同型船3隻> (総トン数71,545t 1995年就航<第1船>)
セレブリティ・マーキュリー(総トン数71,545t 1997年就航<第3船>)、現マイン・シフ2。
アザマラ級<同型船2隻> (総トン数30,277t 2000年5月就航)
セレブリティ・エクスペディション(総トン数2824トン 2001年就航)
  • ディズニー・クルーズ・ライン(アメリカ)
ディズニー・ドリーム級<同型船2隻> (総トン数129,690t、2011年就航<第1船>)
ディズニー・マジック級<同型船2隻> (総トン数83,338t 1998年就航<第1船>)
  • トムソン・クルーズ(イギリス)
トムソン・ドリーム (総トン数54,763t 1986年就航)
アイランド・エスケープ (総トン数40,171t、1982年就航)
トムソン・スピリット級<同型船2隻> (総トン数33,930t 1983年就航<第1船>)
  • ノルウェージャン・クルーズライン (アメリカ)
ノルウェージャン・エピック(総トン数155,873t 2010年就航)
ノルウェージャン・ブレイクアウェイ (総トン数146,600t 2013年就航)
ノルウェージャン・ジュエル級<同型船4隻> (総トン数93,502t 2005年就航<第1船>)
ノルウェージャン・スター級<同型船2隻> (総トン数91,740t 2001年就航<第1船>)
ノルウェージャン・スカイ級<同型船2隻> (総トン数77,104t 1999年就航<第1船>)
ノルウェージャン・サン (総トン数78,309t 2001年就航)
ノルウェージャン・スピリット(総トン数75,338t 1998年就航 ※ 元スタークルーズのスーパースター・レオ)
プライド・オブ・アメリカ (総トン数80,439t 2005年就航)
  • パシフィック
  • ハパク・ロイド・クルーズ(ドイツ)
オイローパ2 (総トン数42,830t 2013年就航)
コロンブス2 (総トン数30,277t 1998年就航)
オイローパ (総トン数28,890t 1999年就航)
C. コロンブス (総トン数15,067t 1997年就航)
ハンゼアティック (総トン数8,378t 1991年就航)
ブレーメン (総トン数6,752t 1990年就航)
  • ハーモニー・クルーズ(韓国)
クラブ・ハーモニー(総トン数25,558t 1969年就航)
  • ピーター・デイルマン・クルーズ(ドイツ)
ドイッチュラント(総トン数22,496t 1998年就航)
  • フェニックス・ライゼンドイツ
アルタニア (総トン数44,348t 1984年就航)
アマデア(総トン数28,856t 2006年就航 ※元飛鳥1991年就航)
アルバトロス (総トン数28,518t 1973年就航)
アレクサンダー・フォン・フンボルト (総トン数15,343t 1990年就航)
  • プリンセス・クルーズ(アメリカ)
ダイヤモンド・プリンセス級<同型船2隻> (総トン数115,875t 2004年就航<第1船>)
サファイアプリンセス(総トン数115,875t 2004年就航)
カリビアン・プリンセス級<同型船4隻> (総トン数112,894t 2004年就航<第1船>)
グランド・プリンセス級<同型船3隻> (総トン数108,806t 1998年就航<第1船>)
コーラル・プリンセス級<同型船2隻> (総トン数91,627t 2002年就航<第1船>)
サン・プリンセス級<同型船3隻> (総トン数77,441t 1995年就航<第1船>)
パシフィック・プリンセス級<同型船2隻> (総トン数30,277t 1999年就航<第1船>)
  • プルマントゥール・クルーズ(スペイン)
ソブリン (総トン数73,192t 1988年就航)
エンプレス (総トン数48,563t 1990年就航)
パシフィック・ドリーム級<同型船2隻> (総トン数47,427t 1990年就航<第1船>)
オーシャン・ドリーム (総トン数36,265t 1981年就航)
  • フレッド・オルセン・クルーズ・ライン(イギリス)
バルモラル (総トン数43,537t 1988年就航)
ブラック・ウォッチ級<同型船2隻> (総トン数28,613t 1972年就航<第1船>)
ブレーマー (総トン数24,344t 1993年就航)
  • ホーランド・アメリカライン(HAL)(アメリカ)※カーニバルクルーズ傘下
ユーロダム級<同型船2隻> (総トン数86,273t 2008年就航<第1船>)
ザイデルダム級<同型船4隻> (総トン数82,305t 2002年就航<第1船>)※カーニバルスピリット同型船
ロッテルダム級<同型船4隻> (総トン数59,652t 1997年就航<第1船>)
フォーレンダム(総トン数60,906t 1999年就航)
アムステルダム(総トン数60,874t 2000年就航)
スタテンダム級<同型船4隻> (総トン数55,819t 1993年就航<第1船>)
プリンセンダム (総トン数37,983t 1988年就航)
  • リージェント・セブン・シーズ・クルーズ(アメリカ)
セブン・シーズ・マリナー (総トン数48,075t 2001年就航)
セブン・シーズ・ボイジャー (総トン数42,363t 2003年就航)
セブン・シーズ・ナビゲーター (総トン数28,550t 1999年就航)
  • ルイス・クルーズ・ライン(キプロス)
ルイス・オリンピア (総トン数37,773t、1982年就航)
ルイス・マジェスティ(総トン数40,876t 1992年就航)
ジ・エメラルド(総トン数26,428t、1992年就航)
クリスタル(総トン数25,611t、1992年就航)
オリエントクイーン (総トン数15,781t、1968年就航)
  • ロイヤル・カリビアン・インターナショナル(RCI)(アメリカ)
オアシス・オブ・ザ・シーズ級<同型船2隻> (総トン数225,282t 2009年就航<第1船>)【世界最大】
フリーダム・オブ・ザ・シーズ級<同型船3隻> (総トン数154,407t 2006年就航<第1船>)※ボイジャー・オブ・ザ・シーズ拡大型
ボイジャー・オブ・ザ・シーズ級<同型船5隻> (総トン数137,276t 1999年就航<第1船>)
レディアンス・オブ・ザ・シーズ級<同型船4隻> (総トン数90,090t 2001年就航<第1船>)
ラプソディ・オブ・ザ・シーズ級<同型船2隻> (総トン数78,491t 1997年就航<第1船>)
グランジャー・オブ・ザ・シーズ級<同型船2隻> (総トン数73,817t 1996年就航<第1船>)
モナーク・オブ・ザ・シーズ級<同型船2隻> (総トン数73,937t 1991年就航<第1船>)
レジェンド・オブ・ザ・シーズ級<同型船2隻> (総トン数69,130t 1995年就航<第1船>)
  • P&Oクルーズ(イギリス/アメリカ)※カーニバルクルーズ傘下
ヴェンチューラ級<同型船2隻> (総トン数116,017t 2008年就航<第1船>)
アズーラ (総トン数115,055t 2010年就航)
アーケイディア (総トン数82,972t 2005年就航)
オセアナ (総トン数77,499t 2000年就航)
オーロラ(総トン数76,152t 2000年就航)
オリアナ (総トン数69,153t 1995年就航)
アドニア(総トン数30,277t 2001年就航)
  • クルーズ・ウエスト(アメリカ)
スピリット・オブ・オセアヌス (総トン数4,200t 2000年就航)
  • ピッツバーグ大学(アメリカ)
エクスプローラー (総トン数24,318t 2001年就航)
  • レジデンシー(アメリカ)
ザ・ワールド(総トン数43,524t 2002年就航)
  • ピースボート(日本)
オーシャン・ドリーム (総トン数35,265t 1981年就航)

=====豪華客船乗船者数の推移=====================

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130429-00000004-pseven-bus_all

日本人のクルーズ旅行利用者数は、2011年で18.7万人(国土交通省調べ)。過去を振り返っても、日本のクルーズ元年と言われる「ふじ丸」(商船三井)が就航した1989年が15万4千人、翌1990年は17万5千人に増えたが、以後は微増微減が繰り返されるばかり。利用者数は20万人前後から動かない状態が続いている。市場としては停滞していた印象がぬぐえない。

 一方、世界のクルーズ産業は近年、急激に伸び続け、今やクルーズ人口が2千万人に迫ろうとしている。旧来のシニア向けだけではなく、カップルや家族連れが、ときにはペットも一緒に移動しながら旅を楽しむ形が広まってきている影響だという。ところが、これほど伸びているクルーズ人口の大半が米国と欧州で、アジア市場は未開拓なのだ。

 外資を迎え撃つ形になった日本のクルーズ会社が加盟する、一般社団法人日本外航客船協会事務局は「商売敵が増えるので、もろ手を挙げて賛成とは言えないんですが」としつつも、市場拡大の効果も期待している。

「米国では1990年にクルーズ人口が350万人だったのが、2000年には690万人、2011年には1044万8000人と約3倍に増えています。一方、日本は20年間、ほぼ横ばいです。ですが、団塊の世代がリタイアし始め、海外で船旅を体験する人も増えてきたので、日本市場は拡大する見込みがあるとみられています。クルーズ人口の分母が増える効果が出れば、日本のクルーズ会社のサービスの質の高さが改めて注目を集めると期待しています」

=====================================


水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第五章、終戦 兄たちシベリアから生還

2013年07月24日 | インポート

======第五章、終戦 兄たちシベリアから生還============

日本は敗戦色が深まり、誰の顔にも戦争の疲れがにじみでていた。負けるなどとは口が裂けても言えない状況だった。ラジオでは大本営発表で戦況を伝えてはいるが、日本が奮戦して敵軍を蹴散らしたとか、まさか南方の島々で玉砕をしているなんて知る由もない。でもあっちの家こっちの家で、息子さんが戦死したという知らせがあり、間山家でももしかしたら・・・
という不安はつきまとっていた。

そのころは物はかなり不自由をしていて、米や砂糖・煙草などは勿論、たいていの物が不足し、配給制度を取っていたので、当然、こんにゃくの粉もなく、製造もできない日がつづいていた。たまに粉が入るとこんにゃくを煮て味付けをし、駅前で母と売るとあっという間に売り切れたそうだ。みんなひもじい思いをしていたのだった。

直接群馬に行って粉を買いに行ったこともあったそうだ。
当然浅市は行ったついでに、現在の調布市の藍川先生のところに寄るのであった。
東京もところどころが空襲にあったりして、ガレキが積んでるところもあったという。

青森にも空襲の噂があったが、女たちは消火訓練や竹槍での訓練、子供たちも防空壕に逃げ込む訓練などしていた時代である。

浅市が上京してるうちに、青森の空襲が始まった昭和20年7月の末のことであった。
現在の調布市にいた浅市は遅れてきた同志から、青森が空襲にあって大きな被害が出ているぞと聞いたとき、あぁ我が家ももう焼けてしまったか・・・と絶句したが、何故かすぐには帰らなかった。
そう、その訳をついに聞かないでしまったことを後悔している。
3日くらいたってから青森へ帰郷したさいに、途中何度も線路が空襲され、立ち往生しながら、満員の人で溢返った汽車で、人々はみな無口でこらえて乗っていたのを忘れられないと父は話していた。

青森駅へ到着して、ガランと焼け野原になった街を見て思わず涙が溢れた。
母は弟たちは大丈夫だろうか?母校である長島小の北校舎が焼け落ちずにいるのが見えた。まだあちこちからあがるくすぶった煙が視界を遮っていた。

青森市の役所ちかくには焼夷弾による遺体が並べられていると聞くが、まず最初に家がどうなってるか急いだ。
するとなんてことでしょう・・・!
ほとんどの家が焼けてるのに、間山家のこんにゃく屋は焼けずに残っていたのである。
近所の人たちが協力して、消火活動をして助けてくれたのだった。
「おぅおぅ帰ってきたが、浅市・・・」
母親のつえは黒く薄汚れた顔をくしゃくしゃにして笑った。

8月15日、玉音放送があり途切れがちに聞こえるその陛下のお声はおごそかであった。
何となく日本が負けたんだという想いは伝わって、ラジオの前で小さく肩をゆする者、浅市のようにしゃくりあげて泣く者など様々であった。

戦争が終わっていくら待っても兄たちは帰ってこず、生きてるのか死んでるのかさえ分からない。
もうこんにゃく屋の跡を取るしかないと、諦めて母とおでんを作っては駅前で精力的に売った。
作れば作っただけ売れる。毎日忙しくて八重に会いにいく暇もない。書道の方もしばらくは書く暇さえないほどだった。

昭和22年か23年、長男の沢一が帰ってきた。
「おぉ!家が残ってるじゃないか、浅市おまえよく頑張ったな」
その晩に、「お前が家を守ってくれて兄さんは本当に感謝している。この商売がもう少し軌道に乗ったらお前に家を建ててあげるから」
兄さんのその言葉は本当にありがたかった。
一方、二男の沢義が生きていてそのうち帰るだろうと沢一は言ったが、半年が経った。
近所の人が「あんたのとこの澤義さん、数日後に横浜に着くよ」
浅市はすぐに支度をして東京へ迎えに行った。

大きな船が入ってたくさんの人々が旗を振って迎える中、船から次々と帰還兵が降りてくる。
みんな一様に笑顔になってそれぞれの家族の元へ散った。
一回り体の大きな澤義兄さんは176cm、体重90キロはあっただろうか。
降りてくる兄さんに「お~い!」と叫んだ。

兄さんに駆け寄ったら、「どけろ!邪魔だ!」兄さんは人が変わったように鋭い目つきで、仲間とスクラムを組んだと思ったら、労働歌を歌いだし、どこかへ行ってしまった。

なんとシベリアへ抑留されて共産思想を洗脳されて心身共にアカになって戻ってきたのだった。 浅市は悲しくて涙をこらえて青森へ一人で帰るしかなかった。(第六章へ続く)


横浜の大桟橋の風景をお楽しみ下さい

2013年07月24日 | 写真

昨日、横浜の大桟橋を散歩しました。その風景写真をお送りいたしますので、壮大なご気分になってお楽しみください。

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桟橋に巨大な豪華客船が停泊していました。桟橋の屋上に登って見たらサン・プリンセス(77000トン)という船でした。アメリカ人が続々と乗り込んでいます。午後にでも出港の様子です。

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大桟橋の反対側を見ましたら飛鳥II(50145トン)が停泊していました。

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屋上からベイブリッジの方角を見ましたら横浜港観光船のマリーン・ルージュが見えます。

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大桟橋の足元を見下ろしたら小型観光船のYUME HAMA がゆうゆうと巡航していました。

横浜港の風景は船旅のロマンをかき立てるので好きな所です。

昨日は横浜に早く行って横浜美術館での「プーシキン美術館展覧会」を見る予定でしたが、時間に余裕が無くなったので大桟橋を30分ほど散歩しました。

港町の風景写真をお送りしました。(終わり)


人間は老人になると善い顔、明るい顔、平安な顔になる・・・20回の連続観察の結果より

2013年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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昨日、大学時代の同級会が横浜でありました。この会は70歳になった頃から続いているものです。

そこで、今日は人間は老人になると次第に、「善い顔つき」になるという私自身の7年間の観察結果を書きたいと思います。

 大学の同級生の十数名を4ケ月ごとの20回の昼食会で7年間、一人一人を観察して、それぞれの人相がどのように変わって来たか考えてみたのです。その昼食会の様子を下の写真で示します。

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それでは順序だててお話し致します

我々は昭和33年にある大学の金属工学科を卒業しました。

同級生は32名でしたがすでに亡くなった者が6名います。そして体の調子が悪くて長距離の旅行が出来ない人が9名ほどいます。残りは17名ほどです。2年ごとにこの17名の大部分が集まり、泊りがけの同級会をします。

それに加えて上と下の写真に示したような横浜の海に近いところで、4ケ月ごとに十数人が集まり昼食を一緒にしながら生ビールを飲む会を開いています。

私はこの同級生との会合には必ず出席してきました。同級生は運命で決まった絆だと信じ、以前は何も考えないで出席してきたのです。

しかし皆が70歳を越えた頃から、皆の顔を見るのが無性に楽しくなり積極的に出席するようになったのです。

退職して10年くらい経過すると人間はこの世のしがらみから離れ、大らかになるのです。他人を押しのけて出世しようなどという俗念がなくなるのです。

ハンサムだった同級生も、そうでなかった同級生もみんな平等に皺いっぱいの老人の顔になるのです。

その上、この世でし残したことは無いような気分になります。

旅立つ心の準備が自然に出来ます。当然のように善い顔になります。

余命がそんなに長くないことを知っています。悲しい筈ですが、その事が今日も元気に横浜で会えたことを楽しくさせるのです。今日も生きていることに心が弾みます。当然、明るい顔になります。老いの華やぎという表情になります。

老いの華やぎも悲しみもすべては、はかないものと感じる瞬間もあります。それは本当に平安な顔を作ります。

横浜で4ケ月ごとに同じ友人に会い、その顔の経時変化を注意深く観察すると間違いなく肉体の老化が進んでいることが分かります。しかしそれと反比例するように表情がますます善くなり、明るくなり、平安になります。

そのような善い顔の人々と談論風発するのが楽しくて毎回、遠路の横浜の海岸近くの昼食会へ行くのです。人間は年齢とともに考え方が変わるという自然現象に驚いている最近の心境です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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祭りの夜店は子供の天国!

2013年07月23日 | 写真

近所にある「京王通り商店会」の納涼祭りには少しばかりの夜店が出ます。毎年、毎年、子共たちが何処からともなく沢山集まって嬉々として楽しんでいます。

京王ストアというスーパーがあって、その前の長さわずか40m位の通りに小さな商店が並んでいました。それで「京王通り」と呼んでいます。

昔は酒屋があり、肉屋、お茶屋、本屋、電気屋、蕎麦屋、2軒の寿司屋、中華そばや、錠前屋、クリーニング屋、そして道端では魚の浜焼き屋や軽トラでやって来る焼き鳥屋までありました。ですからその40mたらずの通りを、近所の人は「京王通り」と呼んでいます。

それが経済の高度成長と、その崩壊とともに、一つ一つと店を閉めて行き、気がついた時には京王ストアと新しく開業した八百屋だけになってしまいました。

小さな商店のあった所は、洒落たアパートや若夫婦むけの小奇麗な一戸建ての住宅になってしまいました。

しかし毎年、夏が巡ってくると、その淋しい通りが賑やかな「納涼まつり」の会場になります。

少しばかりの夜店が出て、若いタレントたちがちょっとした芸を見せます。そして通りの真ん中を、以前は南米のサンバチームが、そして最近は阿波踊りの一群が踊りながらゆっくり通りすぎて行きます。

昔は両側の商店の旦那さんたちが主催していましたが、皆一人、一人、と消えてしまったのです。そして現在は地区の人たちが毎年必ず実行します。子供が喜ぶので母親たちが協力していると想像しています。

今年は21日、日曜の夜にありました。

はしゃいで楽しそうにしている子供たちを見るのは楽しいものです。

子供たちを見ていると戦前、戦後の仙台の街中の夜店や愛宕神社の参道に並んだ夜店を思い出します。その子供の喜ぶ光景はまったく同じです。

違うところは照明の仕方です。昔はカーバイトに水をかけ、アセチレンガスを発生して、火をつけたアセチレン灯を夜店で使っていました。照明はそれだけですから暗いのです。夜店だけが明るいのです。それで一層子供心が湧き立つのです。

それは幻想的な夢のような世界でした。

もう一つの大きな違いはサンバの踊りや阿波踊りなど一切ありませんでした。ですから子供たちは夜店だけに心を集中していたのです。

そんな違いを思い出しながら、私は銀行の駐車場に作ったテーブル席に座って生ビールを飲んでいました。

家内は浴衣を着て、楽しそうに歩き回って下の写真を撮ってくれました。

写真を撮りに行くまえに、「祭りの夜店は子供の天国!」というテーマを説明しました。テーマを言わないと勝手に自分の気に入ったものだけ撮る傾向があるのです。

日本のどこにでもある夏の夜の子供たちの風景ですが、お楽しみ下さい。

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水谷 修著、「デカルトと般若心経」・・・西洋と東洋の哲学の対比

2013年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム

7月21日の読売新聞の11面に作家の水谷 修氏が、「デカルトと般若心経」と題した文章を発表しました。

私はそれを読んで、これほど簡明で分かりやすい西洋と東洋の哲学の対比は無いと思いました。

お読みになった方々も多いとは思いますが、あまりにも明快な対比なので以下に再録させて頂きました。

======水谷 修著、「デカルトと般若心経」============

私は、中学・高校時代、「死とは何か」、「生きることの意味」など、究極の問いへの答えを求めました。

大学は哲学科へ進みました。残念ながら、未だに哲学は、答えを与えてくれません。哲学は、ものの見方、考え方です。便利な道具ですが、それまでのものです。

哲学を一から学び、そしてあっという間にその限界を知りたいのなら、次の二冊がお勧めです。

まずデカルトの「方法序説」(岩波文庫)。有名な「我思うゆえに、我あり」はこの本に書かれています。哲学は真理を求めます。デカルトにとって、すべて疑わしいものを捨てていって、最後に残ったのは、疑っている自分の存在でした。これが全ての哲学、科学の出発点となりました。でも罪深い人です。私と私が見る世界、本当は、私も世界に溶け込んでいるのですが、これを分けてしまいました。これが人間の心に、孤独や不安あるいは、心の病を生む原因となりました。

デカルト以降の哲学はもう一度、世界と私を一つにすることが、大きな課題でした。しかし未だにその答えは出ていないようです。

次に岩波文庫などで読める「般若心経」を味わって下さい。何度も。そして驚いて下さい。

仏陀は、すでに二千五百年前には、この答えを見つけていました。「色即是空」。「色」、すなわちデカルトのいうすべての存在根拠、「我思う」を、「空」すなわち、実体のないものと切り捨てています。すごい。世界へ挑むむのではなく、その中で優しく生きる知恵を与えてくれます。(終わり)

====読後の私の雑感=====================

哲学は、宇宙で起きる現象の因果関係の考え方や宇宙観とよく言われています。

従って科学は哲学の一分野です。ところが日本の大学では物理や化学を哲学の一分野とは教えません。工業技術を改善する学問として教えます。富国強兵の道具として教えます。

私は大学で熱力学という学問体系を勉強しました。日本の工業の進歩に役に立つから勉強しなさいと教えられたのです。

それがアメリカへ留学したら熱力学は優れた哲学の一体系ですと教えているのです。そして全ての学説や理論体系には必ず適用範囲が決まっていて弱点があると強く指摘します。ですから熱力学の弱点を理解すれば熱力学を理解したことになりますと教わるのです。

私はアメリカの理工系の大学院で勉強して哲学博士というものを頂きました。

インド哲学もギリシャ哲学も一切勉強しないで頂いたのです。

したがって欧米では科学は哲学の大きな、そして重要な分野なのだと理解したのです。

デカルトのように疑っている自分の存在が、その周囲の自然界を客観的に考えれば科学が生まれます。

上の水谷 修氏の文章を読むと何故西洋で近代科学が発展して、東洋では科学が進歩しなかったかが明快に理解できるのです。

その事を教えて下さった水谷 修氏へ感謝申し上げます。(終わり)

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

下の写真は挿絵がわりに入れたものです。駿河湾を帆走するハンス・クリスチャン43という北欧の木造艇です。

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大東亜戦争がアジア諸国を欧米の植民地から解放した・・・それを誇りに思うべし

2013年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログで日本が朝鮮を併合したり、満州国を作ったのは道義的に悪いことだったという意見を何度も書きました。

大東亜戦争で南方の国々を侵略して、日本領にしたことも倫理的に間違った行為だったと書きました。

それに対して最近反対の意見を丁寧に書いたコメントを貰いました。

その論旨は、欧米の近代の歴史を客観的に考えると自国の領土を武力で拡大することは普通の事で、誰も道義的に間違っていると反省などしていません。

例えばインドネシアを植民地にしていたオランダは絶対に謝罪しません。インドネシアがどんなに執拗に謝罪を要求しても無視し続けています。

武力で優勢だった日本が周囲の国々を侵略して自分の領土にしたことは人類として当然なことなのです。反省したり相手の国へ謝罪する必要などありません。

そして大東亜戦争で日本がアジア諸国を欧米の植民地から解放したのだから、それを誇りに思うべしという意見なのです。

欧米諸国が武力で領土を拡大したり、植民地を作っているその悪しき風習を日本が真似をしただけです。その行為は人類の歴史をみると当然過ぎる行為なのです。

ですから韓国や中国から日本の軍事侵略を非難されても無視します。領土問題など始めから存在しなかったと主張します。

このように論理の展開を私は尊重します。しかし尊敬しません。

このような主張は本当に日本の国益を将来も守る賢明な外交戦略なのでしょうか?

自民党が今回の選挙で大勝したのは日本国民が最近急に右傾化して、安倍総理の中国や韓国へ対する外交戦略を支持しているのがその原因です。

安倍総理はアベノミクスで経済活性化に成功しつつあります。何と云っても8000円台だった株価を14500円位まで改善したのです。これは経済再生の奇跡のようなお手柄です。

その上、安倍総理はアメリカ大統領と会い、アフリカ諸国やアラブ諸国、そして東ヨーロッパを訪問し国際外交の上で大きな前進をしました。

総合的に見ると安倍さんを高く評価しています。しかし韓国と中国に対する外交はあまりにも硬直し過ぎています。危惧しています。

こう書くと批判的なコメントが来そうです。

皆様は如何ごな意見でしょうか?


自民党の圧勝で新しい形の富国強兵政策が進められる・・・それを覚悟すべきです

2013年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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安倍総理が「日本を取り戻す!」と連呼しながら日本列島を駆け巡り、その結果、自民党が圧勝しました。参議院でも衆議院でも自民党と公明党の議席が大きく過半数を越えたのです。いよいよ安倍総理は自分の信念である新しい形の富国強兵政策を実行し始めます。我々はそれを受け入れざるを得ないと覚悟すべき時なのです。

「日本を取り戻す」という文句の意味には少なくとも3つ以上の意味があります。

1980年代の経済高度成長時代の日本を取り戻すという意味だけだと思う人も多かったと思います。

しかし安倍総理の心情では、曾て大日本帝国がアジアに君臨し、各国から尊敬されていた頃の日本のような国にしたいという想いがあったと思います。

そして「日本を取り戻す」という言葉の中には飛鳥・大和朝廷以来の天皇制を中心にした日本の伝統的な精神文化を取り戻すという意味もあると解釈できます。

これら3つが混ざったものが安倍総理の右傾化思想なのです。

日本経済の高度成長時代の日本を取り戻す政策は「アベノミクス」として既に成果を上げ、株価が8000円台から14500円位まで上昇しています。今後は企業の利潤を増やし、正社員としての雇用数を増大し、失業率を低下させる政策を推進すると思います。そして大震災の復興も推し進めるでしょう。

さて選挙中はあえて黙っていましたが、いよいよ日本の軍事力増強に着手する筈です。先日も石垣島などに展開している海上自衛隊や海上保安庁の部隊を訪問し、「日本の安全は君たちの双肩にかかっている」という趣旨の演説をしていました。

上と下の写真は海上自衛隊の護衛艦127号と潜水艦「そうりゅう」とミサイル艦の写真です。

これは明らかに尖閣諸島近辺から中国の艦艇を追い払うという安倍総理の決意なのです。

田中総理と周恩来首相が日中共同宣言の決定交渉中に、「尖閣諸島の問題は棚上げにして、将来の賢い人々に任せましょう」という合意が有ったことは事実のようです。そのことは野田元自民党幹事長も会談後に田中総理から聞いていたと中国側に証言しています。幸か不幸かそれは文書にして残さなかったのです。

文書が無いのですからそんな約束は無かった。尖閣は日本の固有の領土だと言っても良いのです。安倍総理は国際信義を捨て、領土を取りました。

これに賛成する日本人が大多数なのです。そのことも原因の一つになって自民党が圧勝したのです。

原発再稼働も富国強兵のために推進します。しかし原発反対の国民が多いので再稼働の認可は原発規制委員会へ任せています。直接的な責任は取らなくて良い体制です。

安倍総理はまず平和憲法を改正して自衛隊の海外派兵を自由にするでしょう。日本の軍事同盟国のアメリカが喜びます。

そして防衛庁の予算を増加し、強兵政策を進めるでしょう。

さて第三の、天皇制を中心した日本の精神文化を取り戻すという意味を考えて見ましょう。

それを具体的に言うと、明治天皇を中心にした日清戦争や日露戦争の正当化の宣伝をすることです。

勿論、その先には朝鮮の日本への併合と、満州国の建国の正当化を主張します。

そして大東亜戦争の目的は欧米の植民地だったアジア諸国の解放だったと主張します。その主張はアジア諸国が戦後みな独立したという結果論から正しかったとも言えるのです。

最近、このように考える日本人が大多数になってきたような感じを受けています。

あまりにも中国と韓国が日本の侵略を過大に非難し続けるので日本人の歴史観が大きく右傾化してきたのです。日本がアジアに君臨していた頃を取り戻し、日本の名誉を守るという思考なのです。

この心情の変化の波に上手に乗ったのが安倍総理と自民党なのです。

今度の自民党の圧勝は戦後の日本の歴史的変化現象と考えられます。

日本人の大多数がそれを望んでいるのですから仕方が無いのです。民主主義とはどちらが正しいということよりも多数決が優先する原理なのです。

今後、日本が戦争に巻き込まれないように国民一人一人が注意深く見守り、強化された自衛隊のシビリアン・コントロールを徹底して実行すべきです。この趨勢ではそれ以外に戦争を避ける方法はないのですから。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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上は新鋭潜水艦の「そうりゅう」で下はミサイル艦です。

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灯篭流し、精霊流し・・・夏の美しい風物詩

2013年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は日曜日です。これからカトリックの教会へ行ってミサにあずかります。

それでこのブログでは毎週、日曜日には宗教に関する記事を掲載するように心がけています。

今日は「心の中の灯篭流し」について書いてみたいと思います。

毎年、お盆のころになると日本のあちこちで灯篭流しや精霊流しがあります。

この世を去ってしまった家族や友人の魂を弔うのです。あの世で平安に暮らしていることを祈るのです。そして故人があの世から暗い水面をゆらゆら揺れて流れてていく灯を見て慰められるのです。

それは日本の夏の美しい風物詩です。そんな光景を下の写真で示します。

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・上と下の写真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。

http://www.google.co.jp/search?q=%E7%81%AF%E7%AF%AD%E6%B5%81%E3%81%97gazou&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=_jfqUaryLsPhkAXD84DYDA&sqi=2&ved=0CCsQsAQ&biw=902&bih=478

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上の写真は曹洞宗本山、永平寺の灯篭流しです。

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上は佐世保市の灯篭流しです。

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上の写真は長崎と佐賀県の一部で作られる精霊船を町中を引いて海辺に運んでいる様子です。精霊流しの意味をこの精霊船を海へ流すことに限定し、灯篭流しと区別している人々もいます。しかし一般的には灯篭流しも精霊流しも同じと思っている人が多いようです。

それはそれとして、毎年、実際に灯篭流しをしている人はそんなに多くありません。テレビや新聞で灯篭流しのニュースを見るだけです。

しかし多くの日本人の心の中には灯篭流しの光景が焼き付いています。

そして故人を偲びながら心の中で灯篭流しをしているのです。

私も心の中で灯篭流しをします。灯篭流しの風景を思いながら、あの世に去ってしまった親や親戚の人々、恩人や友人を偲び、その魂を慰めるのです。冥福を祈るのです。

そして、さだまさしさんが歌っている精霊流しの歌を思い出します。

さだまさしの精霊流しの歌と動画はhttp://www.youtube.com/watch?v=tUyWnuYvdBc にあります。

その歌詞だけを解釈すると若い女が去年亡くなった恋人の(夫の)冥福を祈りながら精霊流しをしている悲しい歌です。

しかし、さだまさしさんは実際にはお世話になったおばさんと若くして死んでしまった従兄妹の兼人君を偲んでこの歌詞を作ったと言われています。

それは、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1213221887に説明してあります。

人々の心の中の灯篭流しはそれぞれ違い、深い悲しい想いがこもっているのです。

そうこうしながら、お盆の季節も過ぎて、やがて秋がやって来ます。

灯篭流しは美しい風習です。インドやタイなどの東南アジアの水辺には同じような灯篭流しがあるそうです。

私はこの美しい伝統を大切にしたいと思っています。どうぞ皆様もご自分の心の中の灯篭流しを大切になさって下さい。

それはそれとしても、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


富山県の「おわら風の盆」を写真でご紹介いたします

2013年07月20日 | 写真

今年も盆踊りの季節がめぐって来ました。盆踊りは元来、帰ってきた先祖の霊魂を慰めるために始まったといいます。

それにしては騒々しすぎると思います。

ところが数年前に見た富山県富山市八尾町の「風の盆」は非常に静かで優雅です。哀調さえ感じさせます。

帰ってきた先祖の霊魂を慰めようとする踊り手の気持ちが心に伝わります。

所作が上品で、ゆっくりした音曲が八尾の町並みを流れます。

胡弓は寂しげな音色でかなでます。女は笠を深くかぶり決して顔を見せないのです。皆姿勢が揃っていて、その姿が楚々として美しいのです。

一方、男衆の踊りはあくまでもキビキビとしていさぎよいのです。

町の家々は軒の低い昔風の造りで、人々は明かりを消して家の奥へ引きこんでいます。

観光客だけが踊りの列を囲んでいますが、誰も声を上げないので町中が静かです。そんな風の盆の写真を富山市の観光ホームページ(http://visit-toyama.com/jp/entry.php?nid=20001)から下にご紹介します。

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駐車場は町の外の川沿いにあるので、観光客は高台にある八尾の町へ登って行きます。下の写真のように夏の夕風にゆれる街灯の列の下をゆっくりと登るのです。風の盆を以前に見た人々が混じっているのか歩き方がもう優雅になっています。帰りにこの坂を下る人々は一層静かに歩いていました。

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おわら風の盆の詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%8F%E3%82%89%E9%A2%A8%E3%81%AE%E7%9B%86に御座います。


文化的節操の無さが日本を経済的に発展させた

2013年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム

毎年盆踊りの時期になると、小金井市に住んでいる私は日本人の文化的節操の無さを恥ずかしく感じます。日本には昔から地方地方で特色のある伝統的な盆踊りがあります。

たとえば富山県には「風の盆」や、岐阜県には「郡上八幡」という名の優雅で独特な盆踊りがあります。

ところが小金井では市を挙げて何年も前から夏になると阿波踊りを催すのです。

私は東京の小金井市で徳島の阿波踊りをすることに長い間反対でした。徳島県の地方文化を勝手に持ち込む、その節操の無さを悲しく思っていたのです。

今年もこれから行いますので、下に去年行われた「小金井の阿波踊り」の写真を示します。上2枚は自分の写真で、下の2枚の写真の出典は、http://koganei-kankou.at.webry.info/201208/article_2.htmlです。

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JR小金井駅前の南と北の広場と通りを7月の最後の週末の2日間、夕方から交通を遮断して数百人の踊り子が阿波踊りを繰り広げるのです。

近所の仲間や職場の仲間でグループをつくり、「さくら連」とか「むさしの連」と染め抜いた揃いの浴衣で踊るのです。

よく見ると阿佐ヶ谷をはじめ東京のあちこちからも「連」が友情参加しています。それを見ると東京のいろいろな町でそれぞれ阿波踊りをしているのが分かります。

節操の無さとは何を意味するのでしょうか?例えば共産主義を信じていた青年が会社に就職すると、途端に資本主義信奉者になることが多かった時代がありました。これを思想の節操の無さと言います。会社の中で偉くなるためには節操なんて邪魔です。

国技である大相撲へ外国人を導入して、横綱や大関、関脇、小結などが外国人に占領されているのです。相撲協会が国技を日本人だけで守ろうとしません。これを文化的節操の無さと言います。相撲の興行による利潤を優先したのです。観ている人たちも楽しんでいます。

1945年8月15日までは狂おしいほどの軍国者だった将官たちは、敗戦の責任をとって自殺すべきと考える人も多かったのです。

ところが戦後は急に自由主義者になりすましてしまいます。これも節操が無いといいます。生きるためには仕方が無かったのです。

節操の無いことは人間として恥ずべきことです。しかし節操よりも経済的利潤を優先します。節操を捨てても生きたいものです。節操を捨てても権力を握りたいものです。

私自身、自分の生涯を振り返ると何度も節操を捨てました。

しかし私は、「これから節操を捨てます。恥ずかしいです」と自分自身に言い聞かせながら捨てました。

夏になって徳島の地方文化の阿波踊りを小金井市で見るたびに考え込みます。

始めの数年は小金井の阿波踊りは見に行きませんでした。

しかしある年に私は節操を捨て、楽しければそれで良いという考えに変えたのです。

そうして見ていると老若男女が一緒に踊っている光景がたのしくなるのです。踊らない自分も幸せな気分になるのです。

そして明治維新以来、この日本人の節操の無さがこの国を発展させたことに気がつきました。節操の無さが、戦前には軍事強国として発展させ、敗戦後には経済大国にしたのです。

節操の無いことは恥ずかしい事です。しかし節操のない方が良い場合もあるのかも知れません。盆踊りの季節になると毎年、こんなつまらないことを考えています。

そんなことはどうでも良いことにして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


蓮の花を見るとお釈迦様を思い出す

2013年07月19日 | 写真

お釈迦様は死後に自分の墓も仏像も作るなと遺言して入滅しました。その遺言通り、死後400年くらいは仏像が一切存在していませんでした。

現在のネパールにあるルンビニという土地でで生まれたのが紀元前463と言われています。そして入滅が 紀元前383年と考えられています。

修行して、悟りに至る間、蓮の花があちこちに咲いているインドの各地を巡り歩きました。そのせいか後に作られた仏像には巨大な蓮の花の上に座っているものが多いのです。

私の祖父が住職をしていた兵庫県の山郷のお寺の本堂には、真鍮で作った蓮の花が大きな葉の上で咲いていました。それは黄金の蓮の花のようで、子供心に印象深く焼き付いています。

ですから私は蓮の花を見るとお釈迦様を思い出します。優しかった祖父や祖母のことを思い出します。茫々70年くらい前の思い出です。

そのような理由から毎年夏になると近所の真蔵院というお寺に数回行って蓮の花の写真を撮ります。

今日も行って来ましたので、皆様へその写真をお送りいたします。

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水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第四章、政治運動と書の勉強と恋

2013年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

======第四章、政治運動と書の勉強と恋==========

新しい師との出逢いで目標を得た浅市は、こんにゃく屋の仕事が終わるとすぐに買ってきた本を読み始めた。

田中智学先生の著書とその息子の澤二先生の著書を交互に何度も読み返したそうだ。また養正時評のなかに書かれていたところの、藍川流(ランセンリュウ)書法要義は、書を学ぶ浅市にとって、画期的な内容だった。
それまでは、翠軒流や、当時主流をなしていた中央の上田桑鳩や西川寧、青山杉雨などの方向を目指していた浅市にとって、藍川流の考え方は新鮮だった。

「書は万人のものであって、一書家のものではない。師匠の物真似などもってのほか、書は自然の形象に学ぶこと。雲の流れ、水の流れ、よき建築物の構造から学べ、あらゆる自然や景色や音楽や文化芸術から学べ」と、抽象的であるが、浅市の耳には心地よかった。
また王羲之、空海、良寛などのどこがいいのか、書を書いてみせての解説はないのだが、古典を研究するには十分な教義として、毎日の鍛錬に励んだ。

漢詩などを書くときは詩吟を、短歌を書いてる合間には朗詠をと。浅市は朝はやく起きると、師から聞き覚えた節を歌っては、天皇陛下の写真に敬礼をして仕事を始めた。

もし浅市が藍川師(田中澤二先生)に会わなければ、きっと他の先生のように、日展や毎日展などに出して、弟子を多く取り安定した書道の大家を目指していたことでしょう。

2ヶ月に一回、お金がたまると、一人でも上京し総裁先生の許に書いた書を携えて行った。
まずは1日二日、朝の奉公としてお手洗いや庭の掃除、草むしりなどをした。
廊下を歩く師が自分に気づくようにと働いたそうだ。そのうち青森からの同志も数多くいて馴染みになっていった。

『お前んとこのこんにゃくいつも買ってるぞ』とか『誰それを知ってるか、今度遊びに来いよとか』・・・
ほとんどが年上で、殆どが国柱会か、養正会の会員で書道だけの用事できていた浅市だが、養正会にも入会した。

書の添削は時間があるときは目の前で朱を入れてくれることもあったが、忙しいときは置いて帰ったこともあったそうだ。
後に手紙がきて文面での添削だったり、何も添削もないこともあった。敷居が高くめったに会えない師であって、雲の上のような総裁であった。浅市はやがて田中澤二先生のことを藍川先生と呼ぶようになった。

青森では選挙があり、会から立候補するものがあれば、応援に出向いたり、決起大会などがあれば誘われて弘前、黒石、五所川原など同士の家を回ったりした。
戦時中、そんなにも忙しくしていたためか、国のご奉公での軍需工場などへ行ったという話は聞いたことがない。

こんにゃくを作っては売って、ほかの時間は書の勉強と同志との交流に明け暮れていた20歳前後の若者だった。

そうしてるうちに浅市は津軽弘前のとなり村の黒石の同志の成田という床屋に泊まったとき、そこの娘の『八重』という3つ年上の女性と知り合った。
父親の床屋の跡取りとして免許を取って22歳になりながらも嫁にも行かずに働いている娘だった。

「浅市さんは書道の先生になりたいという夢、是非かなえてほしいわ。八重子も応援いたします」
それがきっかけで手紙をやりとりするようになった。
(その八重はやがて私たち兄弟の母になる女性であった)
その手紙の文字は美しく、やはり書を習っていたようで、浅市とは違った書の上手さが感ぜられた。

二人共兄弟が戦地へ赴いていたので、戦地の状況を分析したりお互いの親を気遣った内容で、今のように惚れた腫れたといった浮ついた内容ではないと父も母も言ってた記憶があった。

東京の藍川先生から
「最近の浅市の書は身が入っておらぬ、戦時中で大変なのはわかるが、心ここにあらずといった書である。もっと気の入った書を書かぬならやめてしまえ!」といったお叱りの手紙を受け取ったこともあった。
たぶん八重との恋で勉強に身が入らなくなったのかもしれない。

しばらく会わないことにしよう・・・との約束もしたが、若い二人である。いったん火がついた想いはくすぶってはいてもすぐに再燃するのであった。

浅市は真冬でも汽車に乗っては弘前ちかくの駅に降り、そこから4里半もの田んぼの一本道をびっこをひきながら歩いた。横から吹き付ける津軽特有の地吹雪に何度も息が止まりそうになりながら、恋する乙女に会いたい一心で何度も訪ねていっては先方を驚かせた。

父親の成田彦蔵さんは『浅市さんに嫁にアゲたいのは山々だが、八重はうちの跡取り娘、うちに婿にきてくれるならいいが』と言ってたそうだ。
浅市は戦地へ行った兄との約束がある。

そうこうしてるうちに時は昭和20年の春を迎えた。(五章に続く)


私の屈辱の思い出・・・そして王羲之の書のことなど

2013年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

まず最初に、この前の記事、上品で香り高い王羲之の書 でご紹介した王羲之の黄庭経の出典を示しておきます。それは、http://homepage3.nifty.com/brush-art/J1034.html#kouteikyo2 です。

  • 黄庭経(こうていきょう) - 永和12年(356年):
  • 老子の養生訓で、羲之の小楷の中でも気韻が高い。真跡として唐に伝わったものは安史の乱で消失し、今日に見られるものは、これの臨本を模刻したもので、宋の拓本を最古とする。

    王 羲之(おう ぎし、303年 - 361年)は、中国東晋の政治家・書家。字は逸少

    詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%BE%B2%E4%B9%8Bをご覧ください。

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    人間は誰でも長い一生の間に屈辱の体験をするものです。

    私は生来、字が極端に下手で小学校の習字の時間に毎回、男の先生に拳骨で殴られた屈辱の思い出があるのです。戦争中だったので男の先生は生徒をよく殴ったものです。

    その習字の先生はもっとゆっくり丁寧に書けと言います。ところがいくら丁寧に書いても字がゆがんでしまい形になりません。

    先生は私が言うことを聞かない反抗的で悪い奴だと腹を立てて毎回殴るのです。

    書の上手い先生にとっては、生まれつき悪筆が存在するというのが理解出来ず、腹を立てるのです。半分もっともな事です。

    長じて東京大学の恩師の松下幸雄先生へ博士論文を提出したときも屈辱の思いをしました。論文を読んだ先生が言いました。「この論文は論旨明快で内容は合格です。しかしそれにしても後藤君は悪筆ですね」。

    松下先生は生まれつきの悪筆の存在を知っていました。流石に大学の先生だと感心しましたが、このように面と向かって言われるとやはり屈辱ものです。しかし松下先生は一生私の面倒をみてくた心の温かい人でした。

    結婚したら家内がもっとゆっくり書けば上手になるとコンコンと諭します。これも小学校の習字の先生と同じで、頭が単純なのです。しかしその単純さで私は何度も救わたのですから感謝しています。

    最近、このブログで、水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、という連載記事を掲載しています。

    自分で綺麗な字を書けないので書には一種の憧れを持っています。

    そこで書家の水木りょう様へお願いして御父上の書家として生涯の物語を書いて貰っているのです。

    作品は絵画を見るように時々鑑賞しています。好きな書と嫌いな書があります。

    書は人格を表すと言いますから好きな人格と嫌いな人格があると言っても良いのです。

    しかし書は芸術ですから生まれつきの才能と、卓越した技巧が無ければ感動しません。

    前衛書も時々見ますが、中には古今東西の書の勉強もしていないような前衛書もあります。西洋の絵画でデッサンもろくに書けない絵描きが抽象画を描いたようなものでいけません。

    書と言えば王羲之の書が好きです。字の大きさが揃っていなかったり、間違いが訂正してあったりしますが上品な書です。香り高い書です。

    彼の経歴を読むとやはり権力欲にもおぼれなかった品格の高い人だったようです。

    「書家、間山陵風の生涯」、という連載記事もいよいよ佳境に入ってきたので、私の書に対する想いを書いてみました。

    まだ朝ですが、今日も暑くなりそうですね。

    皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

    下に蘭亭序を示します。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E4%BA%AD%E5%BA%8F

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