後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

福島原発の正常な「冷温停止」は不可能・・・創造的決断が要求されている

2011年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム

以下は原子力の研究者であった友人の近藤さんから教わったことを、分かり易く書直したものです。

普通に原子炉を冷温停止する場合には、長期間の炉心の循環冷却の後に、核燃料棒を炉心から少しずつ取り出して、再処理工場へ運び出します。そして核燃料棒を小さく切って、それをガラスで封じ、固化します。

しかし今回は密閉型の循環冷却が困難なのです。炉心圧力容器や原子炉格納容器の壁についている数多くの配管や配線穴から冷却水が漏れ出しているのです。その漏れた水の一部を回収して浄化し、炉心へまた返すことを計画中です。完全密閉型の冷却水循環はほとんど不可能に近いことです。

その上、核燃料棒は溶融していて炉心の底部に流れ、再び固体化しています。通常の燃料棒取り出し装置では取り出せないのです。

したがって炉心容器内で核燃料を再処理しなければなりません。それは想像も出来ないような困難な技術です。

独創性と決断が要求されます。

マスコミ報道の東京電力の原発事故の収束工程では、よく「冷温停止」が可能なように書かれています。しかし、それに到達するには気の遠くなるような時間と努力が必要なのです。

福島原発の原子炉内で、全く新しく、安全な永久封じ込め方法を考え出す必要があります。これは東京電力の内部の技術者には困難過ぎると思います。

東京電力は一刻も早くその官僚的閉鎖性を捨て去り、国の内外の技術陣の支援と協力を仰ぐべきと信じています。(続く)


原子力専門家はカヤの外、そして福島原発の危険は続く

2011年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム

福島原発の原子炉は相変わらず深刻な危険が継続しています。

事故を起こした原子炉に今も存在している核燃料には莫大な放射能があり、それが現在、溶融して、長期に大量発熱を続けているのです。

現在の対策はこの発熱を大量の注水によって、その蒸発熱で奪っているだけです。

単に事態の悪化を防いでいるだけです。蒸発した水蒸気はセシウム137やヨウ素131と共に炉心から漏れ出して空中へ放散され続けています。

福島県の普通の空中放射線量は0.02から0.05マイクロシーベル・毎時、ですが現在でも福島市や郡山市でもそれより格段に高い値で推移しています。

この福島原発の現状は、世界中の誰もが経験したことのない膨大な炉内残存放射能との戦いなのです。現在の対処を続行していても完全に冷温停止まで到達しそうもないという専門家の意見もあります。

この対処を誤れば、原爆に匹敵する災害を国内外へもたらします。

最近、マスコミの報道に福島原発が頻繁には取上げられないので問題は解決しつつあると思われていますが、実態は一向に良い状態へなっていません。

ところが、福島原発の対処方法や解決策の実行は東京電力の内部の人間と原子力安全・保安院だけが担当しています。

全国の大学にいる数多くの原子力研究者や昔の日本原子力研究所の専門家は全く「カヤの外」に置かれています。日本の技術人の総力を上げて取り組むべき危険な問題なのです。

私の友人の近藤達男さんが、最近、福島原発の現状について専門家としての大変建設的な意見や資料を体系的に送ってくれています。

その中身はかなり専門的なので、まず私が充分理解した上で、少しずつこのブログでご紹介して行きたいと考えています。

今回は、福島原発の現状は相変わらず危険な状態なので忘れてしまってはいけないという事をまずご報告したいと思います。そしてもう一つの主張は対処は東京電力の技術者だけでなく日本の専門家の総力を結集すべきという事です。(続く)


日本人同士が戦った戦国時代の遺産を観覧しながら平和の有難さを想う

2011年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム

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地方の100人位の武力集団が野山を駆け巡って他集団と戦争をし、領土や財産を収奪しあった時代があったのです。

武力集団の大将はお互いに離合集散を繰り返し、より優勢な大将に一時的に服従し闘ったのです。

そして終り頃には、南関東地方を制圧した北条早雲一派や北関東地方を領土として居た関東管領の扇谷上杉家一派に服従したりして血みどろの争いをしていました。しかし1580年、天正18年の秀吉による全関東地方の平定により終止符が打たれました。

このような時代は戦国時代と呼ばれ、1467年の応仁の乱から1600年の徳川幕府の成立まで続いたのです。

このような時代に武力集団を率いて、越後から駆けて来た武将が居ました。その名は神蔵盛清と言います。

小田原の北条早雲の子孫の北条氏綱へ服従し、その宿敵、関東管領の扇谷上杉家一派との戦いで戦功を上げたお陰で、30貫文の小さな土地を現在の町田市の鶴川駅の傍に貰いました。その土地へ1544年、天文13年に居館を作りました。

このように戦功を上げて北条早雲一派から領地を貰った武将は数多く居たに違いありません。武将達は立派な居館を作ったに違いありません。しかし、その大部分は夢幻のかなたへ消えてしまったのです。勿論、戦に負けた名も無い武将達の記録は残らないのが普通です。

しかし町田市の鶴川駅のそばにある神蔵盛清の館跡と家財や庭園がそのまま残ったのです。神蔵盛清とその子孫が賢かったのです。江戸幕府と良い関係を維持し、260年の江戸時代を生き延びたのです。それも鶴川の名主として財産を代々守ったのです。

その家財道具と書画骨董を展示してあるのが香山園美術館です。そして何よりもその庭が素晴らしいのです。

もっと感心なことは神蔵盛清の子孫の人品卑しからぬ2人の男性が受付と、館内の案内をしてくれます。祖先の築いた財産を慈しむように、そしていささか自慢に思いながら案内してくれます。祖先を大切に想う気持ちが伝わって来て、こちらも豊かな気分になります。何年か前に、松江の小泉八雲の記念館を訪問した時も同じ感動を憶えました。直系の子孫が八雲を尊敬し、訪問者へ感謝しながら展示している雰囲気が良いのです。

話は飛びますが、この神蔵盛清の子孫が家内の中学校の校長先生でした。受付と案内をしてくれた男性はその校長先生の甥だそうです。彼等と家内が校長先生の思い出話をしている様子を遠くから眺めていました。下に写真をお送り致します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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