遊民ヤギ爺

俳句と映画のゆうゆう散歩

司 召 ?

2022-09-12 16:09:36 | 鶴舞公園へ行って来ました
令和4年9月12日(月)
司 召って何? : 秋の季語

宮史には中央政府の役人である京宮と、地方の役人であ
る外宮とが在った(平安中期以降)
この宮史を任命する事を「徐目」といった。
毎年秋にこれが行われたんで「秋の徐目」といわれた。
「如」は新旧交代の意味で、「目」は目録のことをいい
要目、要点を箇条書きにした文書の意味である。
皇居認証式、

先日亡くなられたエリザベス女王最後のお仕事、
英新首相の任命、


春の徐目は「県召」といい、地方宮の任命のこと。
秋の徐目は「司召」といい、中央諸官吏のことをいった。
この「召」とは朝廷に召し出すこと、今でいう「補任」で、
宮に任ずることをいう。

よく判らない季語である。

俳人夏井いつきさんの著書「絶滅寸前季語辞典」に「司召し」
が載っていたので紹介したい。
【司召、秋の徐目のこと。宮職への補任の意。 春の徐目は、
「県召し」と呼び、地方宮の任命である。 勿論、この季語
は「完全絶滅季語」であるが、今の政治家だのサラリーマン
だのの悲哀に相通じるものは十分にある。
絶滅番の名誉顧問と呼ばせていただきたい、清少納言さんも
(134段、春は曙抄本・120)「つれづれなるもの」に
こう記している。「つれづれなるもの、所さりたる物忌。馬
下りぬすごろく。徐目に司得ぬ人の家。雨うち降りたるは、
まいていみじうつれづれなり。」
退屈な物として彼女(清少納言)が挙げているのがこの四つ。
自分ちではない所に出掛けていってやる物忌。うまくいかな
い双六。官位を貰えない人の家。雨が降っている日。
清少納言の父・清原元輔は、周防や肥後の国守として終わっ
た人。徐目のたびに、今度こそと周りも家族も本人も期待に
胸をふくらませるのだが、ついぞ官職になれなかったわけで、
娘としてその悲哀は身に沁みるものがあったはず(そのあた
りを生き生き描いているのが、二三段(春曙抄本二一)「す
さまじきもの」だ。徐目から外れた本人ではなく、その周り
の人々の心理を描くことで「司召」の現場を生き生きと書き
綴っている。是非、ご一読を。
サラリーマン句会「さの字会」は、中央官庁から県へ出向し
てきた官僚さん達を中心メンバーとした飲み会句会であった。
皆、せっかく松山に赴任して来たのだから、これを機会に俳
句の一つでも作れるようになって帰ろうという、変わり種の
オジサンばかりだったが、実際のところ二、三年も句で揉ま
れれば、皆それなりの俳句が作れるようになって、メデタク
中央に帰るという図式になっていた。
そろそろ二年目が終わろうかという頃になると、彼等の心に
は中央に戻れるかみしれないという希望が膨らんでくる。
「家内からも○○さんちは、一年半で帰れたのに、どうして貴
方はまだなのと、責められるんですよ」「僕みたいに四年目
に入ってしまうと、もう中央には自分の席なんてないんじゃ
ないかと不安になるよ」なんて話題も出て来る。
転勤のタイミングは、どうも六月と二月が多いようで、その
あたりになると彼らはそわそわし始める。「転勤することに
なりそうなので、来月からはもう参加できないと思います」
といってた男が、次の月の句座にいたりすると、私達地元の
メンバーは「また一緒に句会できるね、よかったよかった」
と喜んだものだったが、いま考えればなんとも皮肉かつ気の
毒な喜び方であったに違いない。】
平成天皇即位の礼、
令和天皇即位の礼、

今日の1句(俳人の名句)

司召の夜を屋上に一人かな   夏井いつき

(俳人夏井いつき著:絶滅寸前季語辞典より、引用した)