ケレンマの海岸はやはり第二次世界大戦中にドイツ軍が使用したコンクリートのトーチカのようなものが残っていた。
それはさておき、ずっと昔、パトリックの先祖が海に岸を囲むように石を積み上げ堤防を作り、そこに自然の力で砂がたまるようにして陸地を造成したそうだ。
巨石もある。
これは左を向いている何かに見える。
何かのしるしだろう。十字架のようなものが刻まれていた。
壮大な話であるが、彼らここに住み着き、親戚が徐々に増え、このあたり一帯に一族が住んで村を形成しているそうだ。
家に帰ると有る一枚の古い写真が何気なく飾ってあった。よく見ると日本の犬養 毅首相(いぬかいたかし昭和6~7年)が写っている。
「これなに?」と聞いてみると、実は奥さんのマルゴのお祖父さんが駐日フランス大使だったとのこと。
その後中国駐在の大使もされたとのことだった。
これには驚いた。
お祖母さんのことに触れた当時の日本の新聞記事もあった。
写真にはお祖父さんもお祖母さんも写っていて、周りの日本人は恭しくお辞儀をしている。そしてひげの特徴のある犬養 毅首相が二人を見送っているというような構図であった。
さらにご主人のパトリックが言うには、マルゴは元貴族の家系らしい。
それにしてもマルゴはハイソな人にありがちな付き合いにくさと言うか、上からの目線などまったくない人だ。
そのことに改めて驚いた。本物のマダムとはこういう人のことを言うのかもしれない。
夕食はマルゴの手料理で、キッシュなど軽めの物で、私の少々くたびれてきたおなかの具合に配慮したものだった。
彼等夫妻と奈良で初めて会ってから、2年の歳月がたったのだ。まだ2年前はこの家に住むことだけ決まっていたが、すぐ住めるような状態ではなく、少しずつ手を入れてきたようだった。
パリ生まれのマルゴを説得して、パトリックの故郷ケレンマに住むことに決めたのだった。
こうして、はるばるやってきたケレンマの第1日は終わろうとしている。