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気まぐれな神社・仏閣めぐりぶらり旅の備忘録 Ver.2.1

神社・仏閣、史跡などぶらり散歩・旅めぐりでの写真、珍散文を載せていいます。(自分の備忘録)

鎌倉江の島七福神巡り

2016-07-28 | 鎌倉
➡再投稿(神社・仏閣めぐりブログ集約)
鎌倉三十三観音霊場巡り、「鎌倉・江の島七福神」巡りをしました。その時のご朱印を投稿します。(記録として) 順路は鎌倉周辺、長谷、北鎌倉、江の島です。(2013年1月16,17日)鎌倉全域に跨っている。

ご朱印帳表紙                        七福神の巡路(サンプル)

布袋尊(浄智寺)                        弁財天(鶴岡八幡宮)

昆沙門天(宝戒寺)                       寿老尊(妙隆寺)、寿老人?

夷尊神(本覚寺)、恵比寿神?                 大黒天(長谷寺)

福緑寿(御霊神社)                       弁財天(江島神社)

以上
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「七福神の意味合い」
大黒天:出世開運、財運招福、商売繁盛、開運の守り神、 昆沙門天:家内安全、夫婦和合、降魔厄除の守護神、 恵比寿神:商売繁盛、五穀豊穣大漁守護、福徳を招く神、 福緑寿:財運招福、延命長寿、知彗と立身出世をもたらす福の神、 寿老人:延命長寿、家内円滑、福徳知彗を授ける福の神、 弁財天:学徳成就、諸芸上達、財運に恵まれる福徳施予の女神、 布袋尊:家庭円満、千客万来、商売繁盛、福徳をもたらす神。

「河口湖黄金の七福神参り」
富士河口湖町在住の漫談家「綾小路きみまろ」氏が寄贈した「黄金の七福神」である。湖畔を散策しながら富士と湖一望の絶景を合わせてみては、この近辺には、秋の紅葉時期の「もみじ回廊」も楽しめる。布袋尊には、「なでしこジャパンのメンバ」が立寄った記念碑がある。最初に、大池公園前の河口湖ハーブ館で、お参りの記念台誌を購入すると良い。

鎌倉・小町 ぶらり散歩 東勝寺橋を見に行く

2016-07-28 | 鎌倉
➡ 再投稿(神社・仏閣めぐりグログ集約)
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鎌倉・小町 東勝寺橋 (別名:)  2015-5-8拝観
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久しぶりに北鎌倉、鎌倉を訪ねました。初夏・新緑の四季を目に焼き付けてきました。今回は、寺院を絞って、特徴な内容でゆったりと新緑を観賞出来ました。市街地の風景も変わっている。
<鎌倉編>
かまくら景観百選」の一つ:その看板
鎌倉・東勝寺橋(鎌倉の小町大路にも新緑の輝きと、今でも清流を感じさせる川のせせらぎ、流れがある) 

コンクリートの橋の全景とアーチ型の構造橋が特徴
上段:橋の全体
下段左:アーチ型構造の姿と、     下段右:清流のような川「滑川」

渓流のような流れ、少し水量は少なかった。(新緑とその光彩は心を静める)

以上
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古都鎌倉界隈(材木座、大町地区、及び小町地区)

2016-07-28 | 鎌倉
➡ 再投稿(神社・仏閣めぐりグログ集約)
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材木座、大町地区 ぶらり散歩     ぶらり散歩2016-3-3,4
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「鎌倉の路地裏」を散策と、「寺・寺院、神社」を参拝しながら古き良き文化を堪能してきました。ルートは、由比が浜・滑川の「第一鳥居」から、「材木座・九品寺」手前を左折、小道を散策、左手に「旧鶴岡八幡宮=由比若宮」を通り抜け、「水道橋踏切」を進み、大町地区へ、「小町大路」、さらに進み、左折して、「第二鳥居」に出て、「JR横須賀・鎌倉駅」に出ました。由比若宮(元八幡):鶴岡八幡宮と違って,ここを訪れる観光客は極めて少ないとのこと。

「材木座地区」
この材木座界隈は、鎌倉市街の東南部にあたり、幕府が置かれていた頃からの商業地区。現在でも古くからの住宅や個人商店が立ち並ぶ庶民的な街となっている。周辺には日蓮宗などの小寺院が多い。
「雛祭り」に合わせ、店先には飾り物が吊るされていまる。


「辻薬師堂」がひっそりとしている。
「長善寺」は江戸時代に廃寺となり薬師堂だけが残った。堂内には薬師如来像,十二神将像が安置されている。


「大町地区」
日蓮上人が松葉ヶ谷に小さな草庵を建てた。日蓮上人が最初に草庵を結んだ所と伝えられる寺が3っあり、「妙法寺」、安「国論寺」、そして「長勝寺」です。この草庵から日蓮上人は、毎日「小町大路」の街頭に出て、道行く人々に「つじ説法」を行って法華経の教えを説いていました。当時の鎌倉は地震、暴風雨、干ばつ等で疫病が続発し、恐怖と不安におののく人々を救おうと、「つじ説法する日蓮上人」の教えは、信者を増やし。その他、この地区には北条政子ゆかりの「安養院」がある。(出典元:ネット情報)
以上
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鎌倉十橋(残り一つ)

2016-07-03 | 鎌倉
おはよう、
在庫整理をしました。その中で「鎌倉三十三観音めぐり」をする中で、鎌倉の歴史を感じる事柄に触れた。それは、「鎌倉・十井」、「鎌倉・十橋」でした。これを探索・散策しながら鎌倉界隈をぶらり散歩しました。その珍道中紀行を備忘録としてします。
鎌倉十橋」は、
江戸時代に鎌倉の観光名所として定められた橋。それぞれの橋には、多くの歴史や伝説が隠されている。鎌倉を流れる川に架かる橋で特にいわれや伝説の残る橋を「鎌倉十橋」と云う。当時の面影を残した橋は、少ない。十橋のほかにも二ツ橋、大御堂橋、宝戒寺橋、「東勝寺橋」、琴弾橋など有名な橋がある。
(補足);
鎌倉の川にかかる橋の中で重要な道にかかっていた橋や伝説のある橋などの十選。江戸時代に鎌倉観光がさかんになり、そのときに名数を使って名所や旧跡などを紹介したのが始まり。今では暗きょになって川の姿を見ることができず碑だけが残るものなど、橋だけに当時のものは残っていないのが残念です。
メモ:「歌の橋」と「夷堂橋」は、「かながわの橋100選」にも選ばれている。        

項番は小生が勝手に付けた番号です。
鎌倉十橋のエリアマップ(出典元:インタネット情報)


No.1 「歌の橋(うたのはし)」
六浦道の二階堂川と滑川が合流する辺りに架かる橋。当時の橋は三間で、現在の橋と同じような大きさであった。
「橋標」

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No.2 「夷堂橋(えびすどうばし)」
鎌倉十橋の内で唯一木製の欄干を持っている。(鉄製!!!)
小町大路に面した本覚寺の門前にかかる橋が、夷堂橋です。こじんまりとした橋が多い中、川幅の割には立派な橋が架かっている。 昔このあたりに夷堂があったことから、この名がついた。滑川は、その昔、場所場所で様々な呼び名がつけられており、この夷堂橋のあたりは夷堂川と呼ばれていた。因みに、上流部は「胡桃川」、浄明寺門前では滑川、補陀落寺の開山である文覚上人の屋敷跡あたりでは座禅川、延命寺のあたりはスミウリ川、閻魔堂跡のあたりは閻魔堂川と呼ばれていた。
「石碑:史跡碑」

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3 「本覚寺前」            「この先が妙本寺」


No.3 「勝の橋(かつのはし)」
明治末ごろまで壽福寺の門前に立派な橋がかかっていた。すぐ近くにある英勝寺の開山であるお勝の局がこの橋をかけたので「勝の橋」と呼ばれている。この「お勝の方」というのは、江戸城を開いた 太田道灌の子孫康資の娘で徳川家康の側室となった人物である。現在は、壽福寺前の扇ガ谷川は暗きょとなり、壽福寺の門前に石標と地面に縦に置かれた敷石だけを見ることができる。(橋の面影がない)
「橋標」


No.4 「裁許橋(さいきょばし)」 
御成小学校近くの佐助川にかかる橋で、かつてこのちかくに現在の裁判所にあたる問注所があったから裁許橋となった。また別名西行橋ともよばれ、僧侶の西行がこの橋の上で源頼朝に名前を聞かれたからだと言われている。

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3 「橋標」

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No.5 「逆川橋(さかがわばし)」
「さかさかわばし」とも「さかがわばし」とも呼ばれる。本覚寺前の小町大路行き、大町四ツ角を渡ってすぐの魚町橋を越えてすぐの路地を左に入ると、川が逆流をしているかのような奇妙な錯覚を起こす場所がある。名越からの滑川の流れがこのあたりで北へ向かって曲がり、川の流れが逆行して見えるので、この名がついた。この路地の入口には傾いた川の碑が立っていますが、気をつけていないと見逃してしまうくらい、碑も橋もひっそりとしている。
「橋標」

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No.6 「筋替橋(すじかえはし)」
筋替橋、須地賀江橋と書かれる。
六浦道に対してくの字にかかっていたため、この名がついたと言われる
。幕府の近くにあったことなどから重要な橋であったと思われるが、現在は暗きょとなっており宝戒寺近くの道の脇に石碑のみがある。(橋の面影はない)
「石碑」には「筋替橋」と記されている。
「石碑:史跡碑」            「橋標」は、「筋違橋(すじかえばし)」となっている。


No.7 「琵琶橋(びわばし)」
下馬四ツ角南側の滑川にかかる橋で、昭和30年ごろまでは朱塗の橋が架かっていた。その後コンクリートの橋になり平成4年に御影石の橋が再建された。琵琶橋の名の由来は、このあたりのことを琵琶小路といったことからついた。琵琶橋の若宮大路側は暗きょになっているが、左側には水の流れを見ることができる。

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NO.8 「十王堂橋(じゅうおうどうばし)」
北鎌倉駅前を大船方面に少し行った鎌倉街道沿いにかかる橋で、昔この橋のそばに十王を祀った「十王堂」があったことから十王堂橋と呼ばれている。この場所に十王堂があったということは、ここが国境であったということがわかる。人も魔物も鎌倉へ入ることができぬようにと、十王堂が置かれていた。その十王堂に祀られていた十王は、現在円覚寺塔頭の「桂昌庵」に移された。現在橋の欄干があるのは北鎌倉駅に向かって右側だけ。

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No.9 「乱橋または濫橋(みだればし)」
材木座の水道道交差点より興福寺に向かって行ったところに、乱橋の碑が建っている。碑が建つ側の川は暗きょになっているが、反対側には細い流れを見ることができる。新田義貞の鎌倉攻めの際、幕府軍がくずれはじめたのがこの橋の辺りであったことから、乱橋とよばれるようになったとの説がある。このあたりは、砂丘があったためよく川の流れが変わったり氾濫したりしていた。
「石碑:史跡碑」             「橋標」

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No.10 「針磨橋(はりすりばし)」
極楽寺駅を出て右のほうへ下ってしばらく行くと、道の左側に橋の欄干があり、その横にひっそりと小さい碑があり、さらに右側に史跡碑が建っている。左側には川の流れを見ることができるが、右側は暗きょとなって上に道が作られている。 極楽寺川にかかる橋で、昔このあたりに針金を磨いて針を作る老婆が住んでいたからこの名がついた。「我入道橋」という別名もあり、その由来はこの近くに我入道という僧が住んでいたからだ。(出典元:インタネット情報)

  ***なかなか、足を運ぶ機会がなく、現在計画中***

以上
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鎌倉十井

2016-07-02 | 鎌倉
おはよう、
在庫整理をしました。その中で「鎌倉三十三観音めぐり」をする中で、鎌倉の歴史を感じる事柄に触れた。それは、「鎌倉・十井」、「鎌倉・十橋」でした。これを探索・散策しながら鎌倉界隈をぶらり散歩しました。その珍道中紀行を備忘録としてします。「鎌倉十井」は、意外と寺院の近隣エリアに存在している。但し、昨今は、陥没、埋没などで、2ヶ所は拝観することができなかった。

鎌倉十井」とは、
昔から鎌倉は、あまり良い水にはめぐまれない土地だったため、良水の涌く井戸は大変貴重でした。十井は、江戸時代に伝説や云われなどがある井戸を「名数」で紹介したのが始まりである。(江戸時代に鎌倉の観光名所として定められた井戸。鎌倉五名水と同じく、良質な水が湧く井戸や伝説の残る井戸が名所とされた。)
この他、歴史を物語るものとして、海蔵寺の「十六ノ井」、元八幡の「石清水ノ井」、極楽寺の「極楽寺ノ井」などがある。

項番は小生が、勝手に付けた番号です。
「鎌倉十井」のエリアマップ (出典元:インタネット情報)


NO.1 「鉄ノ井(くろがねのい)」
小町通の鶴岡八幡宮よりにある井戸で、鶴岡八幡宮や壽福寺、新清水寺などを焼いた正嘉二(1258)年の大火事で、新清水寺にあった鉄造観音像が土中に埋もれた。後年この井戸からその鉄造観音像の頭部が見つかったため、この名がついた。井戸の向かいにお堂を建てそこへその観音像の頭を祀っていたが、明治の廃仏毀釈でお堂は壊され、祀られていた観音像は鉄クズ屋に引き取られ運ばれた。ところが人形町あたりでどうにもこうにも観音像が動かせなくなり、そこにあった大観音寺に祀られたという言い伝えがある。現在も東京・人形町の「大観音寺」のご本尊として祀られている。かつては、瀬戸小路と呼ばれる農道で、鶴岡八幡宮の西側の鶯ヶ谷で汲んだ水を市中で売るため、水売屋が往来していた道といわれる。
大観音寺」は、江戸三十三観音霊場の一つ;第三番札所
「井戸標(新しい石柱)」、「紹介の板標」、「石碑:史跡碑」

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3 昨今綺麗に整備された外観


NO.2 「底抜ノ井(そこぬけのい)」
井戸は海蔵寺門に向かって右脇にある。!!!(崖崩れで、反対側に井戸を掘り、昭和になってもとの位置に戻された)。安達泰盛の娘で金沢顕時の室になった千代能が水を汲んだとき、桶の底が抜けて「千代能がいただく桶の底抜けて 水たまらねば月もやどらじ」と詠んだからだとか、上杉家の尼が修行をしていたときに、水を汲むと桶の底が抜けて「賤の女が いただく桶の 底抜けて ひた身にかかる 有明の月」と詠んだからなどと言われる。桶の底が抜けたことで頭から水をかぶり、心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという解脱の歌なのだ。
「紹介の板標」             「井戸標(新しい石柱)」

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3 綺麗な水が湧き出ている。水鏡も見られる。


NO.3 「泉ノ井(いづみのい)」
浄光明寺の門前の坂を少し上ったところにある。以前ほどの勢いは無くなったものの今でもきれいな水が湧き出ており、井戸も当時の趣を留めている。この辺りはこの井戸の名前から泉ヶ谷(いずみがやつ)と呼ばれている。
「石柱」

「紹介の板標」             「井戸標(新しい石柱)」

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3 湧水が少し出ている。


No.4 「銚子ノ井(ちょうしのい) (石ノ井)」
長勝寺近くの美容院脇のとても狭い路地にある。気をつけて探さないと見落としてしまいそうな路地の隅にひっそりとある。(家と家の隙間を通す細い道沿い)。井戸の形がお酒をそそぐお銚子に似ていることから、この名がついたとされる。また、蓋や側面が石でできているので、「石ノ井」とも呼ばれる。
「井戸標」

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NO.5 「星月ノ井(ほしずきのい)」
坂ノ下の虚空蔵堂の階段下にある。昔この辺りは昼なお暗く、昼間でも井戸に星が輝いて見えたという言い伝えから名前がついた。近所に住んでいた卑女が誤って包丁を落としてから、星は見えなくなってしまったといわれる。すぐ横には虚空蔵堂へ上る階段があり、星月ノ井とお堂は関わりが深く、この井戸に虚空蔵菩薩が現れたので行基が像を彫ってお堂にまつったとされる。別名「星ノ井」又は「星月夜ノ井」と呼ばれる。
「石柱」

2 「石碑:史跡碑」           「井戸標(新しい石柱)」 

3 紹介の板標


NO.6 「六角ノ井(ろっかくのい) (矢の根の井)」
材木座の海際の道にある。平安時代の弓矢の達人であった源為朝は保元元年(1156)の保元の乱で敗れ、二度と弓がひけないようにと、腕の筋を切られて伊豆大島に流された。しかし、自分の腕をためしてみたかった為朝は、大島から鎌倉の天照山(光明寺裏山)めがけて矢を射たところ、この井戸に落ちたと伝えられる。この井戸は八角形ですが、鎌倉側に六画あるためにこう呼ばれてる。別名を「矢の根ノ井」というが、これは、村人が矢の根を拾い上げると水の質が悪くなったので、元に戻したところ、もとのような清水が涌き出るようになったという伝説。
「紹介の板標」             「井戸標(新しい石柱)」

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No.7 「瓶ノ井(つるべのい)」
明月院の境内の宗猷堂(そうゆうどう)のすぐ近くにある。岩盤を直接くり貫いて造ったとみられ、内部が水瓶のように膨らんでいることから瓶の井と呼ばれ、現在でも使える貴重な井戸。別名「甕の井」(かめのい)」と呼ばる。
「紹介の板標」

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No.8 「甘露ノ井(かんろのい)」
浄智寺門前にある。蜜のように甘くおいしい水で、不老不死の効能があったと言われていた。昨今は、庫裏の裏側に「新しい甘露ノ井」が存在する。元の甘露ノ井と水脈を同じくし、飲用として使用されているのは、ここだけでしょうか!!!。
「井戸標(新しい石柱)」

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NO.9 「棟立ノ井(むねたてのい)(非公開・危険回避、埋没して、形も確認不可のため)」
覚園寺の山の上にある。かつて弘法大師がこの水をあか水として仏に備えたと伝えられている。井の形が家の棟の形をしていることから、この名がついたと言われてる。山肌に造られた横井戸で、流れ出てくるところを堰き止めた形である。その上に屋根がつけられている。残念なことに現在は山崩れにより、埋もれて確認ができないとのこと。別名「破風ノ井(はふうのい)」と呼ばれる。
 →(拝観不可)現在は、「非公開」であり、位置、形態も未確認、従って写真撮影もできていない。残念。

No.10 「扇ノ井(おうぎのい)(非公開・民家の敷地のため」
扇ノ井は、源頼朝の娘大姫の守仏が祀られている岩舟地蔵堂の向かい道の一本浄光明寺よりの路地にある個人宅の裏山の裾にある。名前の由来は扇の形をしているからだとか、静御前が扇をおさめたからだとおい説がある。個人宅のため見ることはできなかった。
 →(拝観不可)現在は、「個人邸宅内」であり写真撮影できず、かつ位置も十分に確認不可、残念。

以上
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