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世界の覚書

道州制、易姓革命、外国人参政権には反対です。伝王仁墓に百済門を作るのは場違いであり、反対です。

過去の理解は可能か

2005年05月19日 | 歴史・伝統
シカ食害は江戸時代から…青梅で集中発生 (読売新聞) - goo ニュースによれば、江戸時代にも奉行の管轄違いでちぐはぐな行政が行われるような事があったそうだ。「縦割り行政の弊害は今も昔も同じ」というのが、この記事の教訓になっている。

さもありなんと思いつつ、見過ごしてしまいそうな話だが、人間の性質はそう変わるもんじゃないというのは、全部が全部ではないだろうが、そういう所はあるんじゃないかと思う。日頃あまりそう強調されないのは、人間の心性は時代や状況で異なるというのも、一つの教訓だからだ。

ただし、江戸時代は都市化や官僚機構が発達し、既に現代日本と基本構造が変わらないという主張もありうる。だとすれば、どこまで同じ心性が遡れるのか問いたくなるが、端的に古文書で確認された実証の範囲でしか、歴史は語れないという立場もありうる。

これでは、過去について殆ど何も語れないことになってしまうが、置かれた諸条件が同じなら、同じような行動をとってしまう、という理解もありうる。置かれた諸条件を変数とし、日本人という関数に代入すれば、似たような行動が出てくるという理解である。心の真実までは接近できないとしても、外形的な行動は予測可能だという立場である。

また過去の時代の人間は、たとえ日本人(直接の祖先)であっても、ある意味(多少は)外国人のようなものだという理解もありうる。確かに過去の理解は、多少とも異文化理解に近いものだという解釈も、そう間違っていないだろう。

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