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世界の覚書

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人を憎んで罪を憎まず

2013年01月10日 | 社会・教育
体罰議論には意味がない。問題は、その教諭の性格、人格にある。

毎日:大阪・高2自殺:練習試合の度、体罰か 顧問「発奮させるため」
生徒は、バスケットボール部への入部を希望し、同校の体育科を受験。昨年9月ごろから主将を務めていたという。校長によると、性格は真面目で、成績も上位だったといい、責任感が強い生徒だった。(中略)生徒の保護者が遺体を確認したところ、唇を切っており、頬が腫れていたという。自殺前日、バスケットボール部の顧問の男性教諭(47)は両手で左右の顔面を平手打ちしていたといい、体罰は、練習試合の度に行われていた可能性があるという。顧問は市教委の調査に、体罰について「選手の気持ちを発奮させたかった。試合でミスが続くと、たたくことで、良くなることがある」と説明しているという。(中略)家族の話では、男子生徒は普段、家族とよく会話するが、自殺する1週間ぐらい前から、思い詰めたような表情を見せていたという。
体罰(=教諭から生徒への暴力行為)はそもそも禁じられている。体罰は定義されており、例示まであげて、体罰に当たらない例も示されている。ここらへんに議論の余地は無い。問題は、教諭の性格ないし人格である。

指導するにも、下手な人と、下手じゃない人がいる。生徒が出来ないと、切れる輩もいる。馬鹿じゃないかと思うが、その人自身の出来が悪いので、誰かが諭してもどうにもならない。傍から見ると、頭が痛いというか、面倒くさい。まあ、そういう人には、権限をあまり持たせない方がいい。これは、その人が仕事が出来るかどうかは関係ない。むしろ、仕事自体は出来る場合が多いだろう。ただ、人の指導に向かない。

「人を憎んで罪を憎まず」と言うと語弊もあろうが、その人物を正しく評価し、危ない事はやらせないのが正しい。というか、はた迷惑を避けるにはそれしかない。「人格を憎んで罪を憎まず」の方が適切か。

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