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世界の覚書

道州制、易姓革命、外国人参政権には反対です。伝王仁墓に百済門を作るのは場違いであり、反対です。

喪失の喪失感と日本のナショナリズム

2005年05月08日 | 歴史・伝統
ナショナリズムというと、ウェルキンゲトリクス(ヴェルチンジェトリックスという表記はマイナーなようだ…何が妥当なカタカナ表記かよく分からないが)を思い出す。それは、喪失の記憶だ。そして回復と、癒しの物語だ。喪失と回復と癒し(マッサージ)はセットだ。喪失は、ナショナリズムの重要な要素だ。おそらくは、不可欠な要素だと予測できる。

韓国は、独立を喪失した記憶が、回復と直結している。中国も喪失があったし(範囲が広すぎてわけが分からないが)、今はその原罪を日本に負わせている。では日本は敗戦で何を喪失したのだろう。

ここで気づくのは、日本は何も喪失しなかったという事だ。

いや、海外版図は失ったが、元々エスニシティの異なる領域だし、それぞれが独立する事は(インドネシアの例もあるが)、実は日本にとっては癒し以外の何者でもない。天皇制というか、皇室も一応無事だったので、失ったのは、憲兵や特高が支配していた抑圧的で犠牲を強いる軍国主義日本だけなのだ。これでは、ちっとも喪失にならない。

#アジアの独立を、良かった良かったと日本が言うほどに、喪失と癒しのセットが成立してしまう。ナショナリズムに近いことは近いのだが、はじめから異民族の話なので、ちっとも日本の話にならない。

いや、真っ当な世界観を持った、矜持を備えた日本が失われたという見方もある(巷間言われるところの、最近の日本の右傾化とやらは、これを指している)。だが、この喪失は、ちょっと認識(勉強)を必要とする。つまり、日本の「常識」ではないのだ。常識でないという事は、ナショナリズムの物語としては弱いということを意味する。物語としては、殆ど「フィクション」扱いだし、あるいは「マニア」扱いだ。

現代日本は、喪失を喪失している。これは現代日本のナショナリズムが希薄なのと、符号する。
#こういう日本観にたてば、興味深いフィクションのストーリーが浮かんできそうだ。

#日本における喪失は、アテルイかシャクシャインだ。だが終わった話だし、彼らを称揚しても、日本のナショナリズムにはならない。喪失の喪失感を埋め合わせるだけの力はない。

樺太や北方領土は、「喪失」の資格がある。敵役のソ連とあわせ、永遠に語り継がれるだろう。
#北方領土はまだいい。満州国は、満州人のアイデンティティが失われたことの象徴になった観がある。満州でも、喪失が喪失されている。

さて、そういうわけで日本の「喪失」がないとすると、これは「日本」の漂流感につながりかねない。「喪失」がwanted、つまり不足している以上、「喪失」を求める作業が、これからも何度でも仕掛けられていくと、断定してよいだろう。

実は、「白村江の戦い」こそ日本の喪失なのだと思うが、あまりにも古代の話だ。これこそ、日本にとって最も筋の確かな「喪失」の獲得につながるはずだが、勉強を必要とする喪失は、国民の物語にはなりえない。そもそも古代の話では、語れば語る程、アナクロニズムになってしまう。

#明治の日本には、不平等条約が喪失と回復のターゲットだったろうし、清やロシアは、喪失の予感を先取りする効果をもたらした。当時、日本は、喪失の未来を恐れて行動したのだ。

#米軍基地は、失われた日本の象徴かもしれない。だが韓国じゃあるまいし、やっかいな話だが、現実の力を持ち得ないストーリーだ。

喪失を喪失するという事は、満たされている幸福も意味するが、見方を変えれば植民地化の極致を意味する。満州が(方向は逆だが)そうだ。ハワイもそうだ。台湾もそうだ(その後、歴史の大波に飲み込まれてしまったが)。だが、韓国はかろうじてそうはならなかった(今でも、併合そのものが不法で非合法な状態だと言ってやまない)。それゆえに、在日韓国・朝鮮人はどっちつかずになってしまった。

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