30歳を過ぎ、「もう結婚しないと」とか、「結婚はまだ」というお言葉をよくいただく。こうしたお言葉をかけて下さる方の大半は私のことを心配して下さる方であり、大変ありがたい次第である。
しかし、こうした「結婚はまだか?」的な発言を投げかけてくる方の中に、次のような言葉を混ぜてくる人がいる。
「結婚して子供ができないと、子育ての苦労や教育問題は語れない」
これは本当だろうか?昨今教育界では様々な不祥事が起きている。子供を取り巻く環境も複雑化している。親が子供を殺す。子供が親を殺すといった痛ましい事件も頻発している。教育行政の指導的立場にいる人たちは年齢的にも大半は既婚者でお子さんもいらっしゃる方であろう。こうした「お子さんがいて子育ても経験し」、「子育ての苦労がわかり」、「教育問題を語る資格がある」はずの方々が教育行政をつかさどっているにも関わらず、教育にまつわる事件が頻発し、学力が低下していくのか?
「モンスターペアレント」という言葉がある。学校に理不尽な要求をしてくる親のことである。こうした親は「うちの子供は家庭では掃除をさせていないので、学校でも清掃をさせないでほしい」とか、「合唱コンクールでなんでうちの子がピアノではないのか?」という議論にも値しない難癖をつけてくる「保護者」と呼びならわされる人たちのことである。こうした人たちが結婚していて子供を育てている(その育て方がいいか悪いかはとりあえず置いておく)から「教育を語る資格がある」と言えるだろうか?
この間、児童の猥褻写真を投稿しまくっていた教頭先生がいた。この人も結婚していて子供もいた。しかも家庭では良き夫であり、父であったという。この人に教育を語る資格があるだろうか?
つまるところ、結婚するかしないかは「結婚したい!」と心底思える人と出会えるか否かであり、教育問題云々とは関係ないのではないか。
結婚している、子供がいる。=子育て、教育を語る資格がある。という等式は、実は全く根拠がないと断定したい。
どこかの国の首相は独身だったし、ある国の大統領はこの前離婚したばかりだ。この人たちに「お前に子育て、教育問題を語る資格はない」と言う人はいるだろうか?
こうした本質とは何の関係もない発言は、ムーティ勝山ばりに「右から左に受け流して」行きたいと思う。(こういう発言をしてくる年代の人たちにムーディ勝山は分からないかもしれないが)
しかし、こうした「結婚はまだか?」的な発言を投げかけてくる方の中に、次のような言葉を混ぜてくる人がいる。
「結婚して子供ができないと、子育ての苦労や教育問題は語れない」
これは本当だろうか?昨今教育界では様々な不祥事が起きている。子供を取り巻く環境も複雑化している。親が子供を殺す。子供が親を殺すといった痛ましい事件も頻発している。教育行政の指導的立場にいる人たちは年齢的にも大半は既婚者でお子さんもいらっしゃる方であろう。こうした「お子さんがいて子育ても経験し」、「子育ての苦労がわかり」、「教育問題を語る資格がある」はずの方々が教育行政をつかさどっているにも関わらず、教育にまつわる事件が頻発し、学力が低下していくのか?
「モンスターペアレント」という言葉がある。学校に理不尽な要求をしてくる親のことである。こうした親は「うちの子供は家庭では掃除をさせていないので、学校でも清掃をさせないでほしい」とか、「合唱コンクールでなんでうちの子がピアノではないのか?」という議論にも値しない難癖をつけてくる「保護者」と呼びならわされる人たちのことである。こうした人たちが結婚していて子供を育てている(その育て方がいいか悪いかはとりあえず置いておく)から「教育を語る資格がある」と言えるだろうか?
この間、児童の猥褻写真を投稿しまくっていた教頭先生がいた。この人も結婚していて子供もいた。しかも家庭では良き夫であり、父であったという。この人に教育を語る資格があるだろうか?
つまるところ、結婚するかしないかは「結婚したい!」と心底思える人と出会えるか否かであり、教育問題云々とは関係ないのではないか。
結婚している、子供がいる。=子育て、教育を語る資格がある。という等式は、実は全く根拠がないと断定したい。
どこかの国の首相は独身だったし、ある国の大統領はこの前離婚したばかりだ。この人たちに「お前に子育て、教育問題を語る資格はない」と言う人はいるだろうか?
こうした本質とは何の関係もない発言は、ムーティ勝山ばりに「右から左に受け流して」行きたいと思う。(こういう発言をしてくる年代の人たちにムーディ勝山は分からないかもしれないが)